鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その3

2011-01-28 06:28:54 | Weblog
江戸に入った家康は、「塩の義は軍用第一」として塩の確保に意を注ぎました。『明解 行徳の歴史大事典』鈴木和明(文芸社)によれば、「行徳塩浜」は「幕府御用の塩浜として幕府の手厚い保護により幕末まで行徳の繁栄」を支えたものでした。この行徳塩浜で作られた塩を、江戸へと運ぶために開削されたのが「新川」でした。寛永6年(1629年)、船堀川の三角以西を掘り広げるとともに、三角から江戸川まで新たに陸地を一直線に開削してできた新しい水路が「新川」であり、それによって行徳の塩は、江戸川→新川→小名木川→隅田川→日本橋川経由で、江戸日本橋へと船で運ぶことが可能となりました。本行徳村に「行徳河岸」が出来たのが寛永9年(1632年)のこと。銚子から利根川→江戸川→新川→小名木川→江戸湊へと、河川による連絡航路が開けたのは承応3年(1654年)。そして小名木川の万年橋北詰にあった深川番所が、中川口へと移転されたのが寛文元年(1661年)のことでした。『行徳と浦安の今とむかし』(宮崎長蔵)によれば、「小名木川、新川の航路を寛永9年(1632)、独占権を得たのが本行徳村」であったという。ということは、江戸川─新川─小名木川経由で、本行徳村と江戸(日本橋小網町三丁目行徳河岸)が水路で結ばれ、その本行徳村に「行徳河岸」が出来たその年(寛永9年)に、そのルート(航路)の独占権を本行徳村が得たということになり、いわゆる「行徳船」がその頃から運航されるようになったということになる。小名木川と新川を併せて「行徳川」と称することもあったようですが、その「行徳川」は、行徳塩浜で生産された塩を、川船で江戸へと運ぶ「塩の道(水路)」でもあったのです。 . . . 本文を読む