ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

広徳寺 保科の里

2014-09-12 01:49:23 | 史跡

広徳寺 保科の里


保科氏館跡
場所は長野市若穂保科。

広徳寺

疑問の幾つか

保科氏発祥の地・円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院。現在の広徳寺のあたりに保科氏の館があったといわれ、永正十年(1513)村上氏との戦いで消失。焼け残った館の裏門が現在の寺の総門となっているという。

 ・・・ 上記が、広徳寺の縁起からの説ですが、公布されている説は違う部分があります。
村上顕国に破れて、保科正利・正則親子が保科の里を追われたのが、延徳元年(1489)であり、その戦火で保科館は焼失したとあります。その焼け跡に、広徳寺が建立されたということだと、保科正利は、村上に隠れて近くに隠棲し、寺を建立する資産をどこかに秘匿していたと言うことになります。正利の没年は1506年ということになっています。この戦役後には、北信濃の川田一帯は村上の勢力下になり、武田の侵攻までは勢力図は変化がなかったと見られるので、上記の説は、すんなりと納得出来ません。

保科正利・正則親子は、村上氏と戦って敗れて保科の里を離れた。正利の子・左近将監は村上に降りて、天文二十二年(1553)村上義清に属し、旗本大将として上田原に出陣した。永禄のはじめころ、武田に従ったあと、織田の家臣森氏、上杉氏に属し、保科を領した。左近将監館跡は、若穂保科町滝崎にあった。

 ・・・ ”左近将監が、天文二十二年(1553)村上義清に属し”の部分も、疑問があります。左近将監は、保科正利が何歳の子で、天文二十二年(1553)には何歳であったのでしょうか。辻褄が合いません。延徳元年(1489)に、正利の子として生まれたとして、天文二十二年には63歳、永禄年間に70歳代、その頃武田や織田の家臣・森やさらに上杉に仕えることは可能だったとは思えません。まして、保科正則が延徳年間には、武将として元服を過ぎていたと考えられ、弟との年齢差が5から10歳とすれば、左近将監はもっと年寄りになります。その後に、正則と左近将監に、交流の後が見られないことから、血流の連続性には疑問が残ります。

 ・・・ 現に、広徳寺は存在し、保科正利・正則も数書の歴史資料から確認されており、左近将監も、同様に確認出来ることから歴史上に確実に存在したとすれば、家系図が作為的、意図的に書き換えられた可能性があります。この場合、保科正利の同族が、正利逃亡の後に保科惣領家の継承を主張して家系を仮冒したという可能性が、最も高いと思われます。 ・・・しかし断定は出来ません。

 

弁在天

 

広徳寺・縁起石碑 全景と刻印文字(正利、正則の名が ・・・)

 

寺の付近の庭・りんご園     不思議な石碑

 

広徳寺の裏山には、霜台城跡があり、かつての城下を静かに見おろしている。

寺の裏山

参考:保科正則の謎 2 正則の生きた時代の背景

 

広徳寺の別の顔 ・・・
京都・南禅寺は”湯豆腐”でも有名ですが、京都の数ある寺院の顔という存在です。修学旅行では、金閣寺や銀閣寺とともに定番的存在。その南禅寺の開基と二代目がこの長野の出身ということです。
南禅寺の開基が大明国師で、「無関普門」の名があり、生誕地が長野市の保科です。
二世住職は南院国師さまであり長野市長池のご出身であります。
この為京都・南禅寺は、保科の地の広徳寺で、徳を偲んで「大明国師顕彰会」を度々開いています。


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