保科道
「大笹街道」は、江戸時代、善光寺平と上州を経由して江戸を結ぶバイパスとして重要な脇街道でした。往来の目的は、物資輸送の他、草津温泉への湯治、善光寺、大谷不動尊、米子不動尊の参詣で旅人が往来する街道でした。
大笹街道の名称の由来は、上州大笹が街道の要諦であったことからの名称のようです。大笹は、現在の吾妻郡嬬恋村大笹に当たります。これは、信州側からの名称で、上州側からは、「仁礼街道」もしくは「信州街道」と呼ばれていました。
大笹街道は、北国街道の須坂・福島宿が起点で、鮎川沿いに、井上、八町、栃倉、仁礼宿に至り、宇原川沿いに山道に入り、大谷不動尊口、峰の原、菅平高原を横切り、鳥居峠、田代、大笹宿と繋ぎます。大笹から江戸へは、大戸から高崎へ出る大戸道と、沓掛宿で中山道へ出る沓掛道がありました。
大笹街道・高崎間と大笹街道・沓掛間のどちらを選んでも、大笹街道は、ともに七宿。ちなみに本街道といわれる北国街道は、善光寺から十七宿。本街道は、公用優先で経費が高く、そのくせ日数も多く掛かる、ということで、脇道は、本道に劣らず賑わったと言うことです。
江戸時代から昔、戦国時代は、戦国武将・真田一族が、大笹から上田にかけての一帯を支配しており、真田一族は、上州沼田に進出しました。上田、真田、大笹、長野原、中之条、沼田・渋川までを、真田一族が進軍し、上田と沼田と二所を領有すると、この間の往来は頻繁になりました。ここも大笹街道で、特に、上田・沼田間を「真田道」と呼びました。歴史的にはこちらの方が古いのかも知れません。
さて、保科道、 ・・・
保科観音と善光寺を繋ぐ、脇街道・大笹街道の近道 ・・・が本当のところでしょうか。保科道の始点が「奉納百番供養塔」とありますから、長田、大門、若穂保科と続く道と違うようです。北野美術館辺りから保科温泉に向かう道かと比定しますが自信はありません。保科観音は、清水寺にあります。善光寺への参詣の道として、保科道を通る人は清水寺にも”二つ参り”として、お参りします。清水寺は”せいすいじ"というのだそうです。後の上り道は、多少違うが、現在のR34とほぼ同じかと思われます。大笹街道へは、菅平郵便局辺りで合流します。
白樺に囲まれた ラグビー場(練習場)
*白樺と岳樺の簡単な見分け方・・・白樺は枝(小枝、枝跡含む)の下に黒髭(黒班)を作る。(岳樺には無い)
菅平・キャベツ畑
大笹街道から北国街道・中山道に繋がる道は、沓掛道が案内されています。R146の峠の茶屋へ通じる道だそうです。浅間山を北側で回り込んで、田代を過ぎてから分岐して、R146に合流したのでしょうか。R146(軽井沢・長野原線) ・・・別名・日本ロマンチック街道
沓掛は、今は”中軽井沢”になっているそうで、なんだか寂しい限りです。沓掛の方が、味があると思うのですが ・・・
木曾街道(中山道)・沓掛宿
戦国時代以前の、保科古道については、すこし違った見解があります。
東御市の浅間山山麓の村に、保科姓を名乗る住民が、固まって住んでいると聞きます。東御市の北御牧がそこです。この人達が、北信濃の保科庄から、戦国の戦乱で、流れたのであるなら ・・・ 、保科古道は、東御市と繋がっていたのではないか。この推論だ正しければ、保科古道は、県道R4の経路に準じていたのではないかと ・・・
*東御市 ・・とうみし、と読みます。
県道R4の道の駅 ・・R4は”サンルート”とも言います
まだ青いクルミ ・・・ 色づくと 秋
この推論に、根拠はありません。が、否定できる資料もなさそうです。