ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

長田神社 in 長野

2014-09-16 11:42:30 | 建造物

長田神社 in 長野

長田神社・本殿

長田神社・拝殿

 ・・「長田神社の建つ長野市若穂川田地区は、伊勢神宮の御厨の地域となっていたという。
そのため、社殿も伊勢神宮の祭神を祭り、建築様式も神明造を用いている。
地区の集落の中に建ち、参道は川を跨いで約500mほど続く。
参道の両脇は欅並木が続き、参道の長さと、並木の様子から厚く信仰を集め、隆盛を極めた様子が伝えられている。
本殿は、拝殿の背後に建つ覆屋の中に納められた三間社の神明造。
長田神社 覆屋自体も棟持柱、千木などが設けられている。」
 ・・ ”おみやさん.com”より引用。

 

石碑の刻印に 藤原某 が二基

意味不明の石

*御厨 ・・・みくりや。伊勢神宮の台所が本来の意味で、伊勢神宮の荘園のこと。
*祭神 ・・・天照皇大神、豊受大神のこと。農耕の神様と言われる。全国の農村にある神明社も同じ。
*三間社 ・・・神社の建築様式で、桁行(正面)の柱間が3間(柱が4本)であれば三間社流造という。
*神明造 ・・・神社の建築様式で、神明造は奥行きより幅が大きく、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化した。
*棟持柱 ・・・棟木を直接支える柱。
*千木 ・・・ちぎ。千木は屋根の両端で交叉させた部材のこと。屋根の角にも見える。

一の鳥居 ・・・ この一の鳥居の付近を大門という、川田大門。長田神社創建から後に付けられた地名と思われる。

一の鳥居・笠鳥居


ここから本殿までが、約500mの長い参道となる。参道の途中に保科川が流れ、参道橋を渡って参道が続く。
参道の両脇は、ケヤキの古木の大木が並木を作る。その様は、雄大にして荘厳。樹高:25m、目通り幹囲:6.5mが林立。

長田神社の参道 大欅

住所:長野市若穂川田川田1047-2


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信州の御厨 

御厨 

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)
会田御厨(筑摩郡)
*藤長御厨

○芳美御厨(高井郡) ・・ハミミクリヤ
・・・ 平安期に見える御厨名高井郡のうち「中右記」長承元年11月4日条に,饗庭御厨・長田御厨などとともに「芳美御厨事」として「件所無指本券,本領主源家輔負物之代譲而,禰宜常季許之,国司国房為行二代雖奉免,其後久為公卿勤仕国役,仍不可為御厨歟,可停止御厨」と見える「尊卑分脈」によれば,清和源氏頼季流の井上満実の第7子に芳美重光がある。所在地は不明であるが,井上氏が高井郡井上にいたため,現在の須坂市井上近辺とする説が有力である。

・・・ 須坂市井上近辺
・・・ 「芳美御厨事」によれば、この領は源家輔の時に、税の代わりに土地が奉納されて、禰宜・常季許之と国司・国房為行の二代勤仕国役を放免されたが、その後久為が国役を勤仕したので、(御厨の条件を充たさなくなったので)御厨を外した。・・・御厨の期間は短かったと思われる。
・・・ この地の豪族は、清和源氏頼季流の井上氏で、一族の中に、芳美(重光)を名乗った者もいる。
・・・ 勧請した神社に、春日神社らしきものは特定できず。

○保科御厨(高井郡) ・・長田御厨ともいう。
・・・ 長承三年(1134)、長田御厨が定められ、保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。長田御厨の長田は他田に通じるもので、そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。その後、南北朝時代まで長田(保科)御厨の名が、歴史書に散見される。
・・・  星名は保科と書くことが多いが、千曲川支流の保科川流域、『和名抄』の信濃国高井郡穂科郷(現在の長野市東北部の大字若穂保科)、後の保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流。その活動は平安末期頃から見え、『源平盛衰記』に星名党と見えて、井上九郎のもとにあり、『東鑑』に保科太郎、保科次郎、『承久記』に星名次郎と出てきます。
・・・ 長野市若穂保科一帯。
・・・ 平家物語』第六巻によると、1182年9月、朝日将軍といわれた木曾義仲(1154~84)の家臣で、「保科党を率いる井上九郎光盛と、保科(星名党)の三百騎は、義仲に組して参陣し、千曲川西岸の横田河原に陣を構える越後の城四郎長茂以下に挑んで ・・・」 それにしても、当時の三百騎は、保科一族の勢力を誇示しています。さらに、須坂の井上一族との運命共同体的関係も覗わせます。・・・ この後、井上光盛は、木曾義仲の上洛には参加せず、甲斐の一条忠頼(武田信玄の祖の系譜)と謀って、鎌倉幕府に反抗して、頼朝に誅せられたようです。井上光盛と行動を伴にしていた保科太郎も咎められたが、何故か許されて、鎌倉御家人になっています。
・・・ 長田神社 ・住所:長野市若穂川田川田1047-2。長野市の南東部、欅の参道が500mもある長田神社は、900年余の歴史を持ち、伊勢神宮の分神で衣食住守るといわれる豊受大神が祭られている。
・・・ 長田神社は、長田(保科)御厨が伊勢神宮に寄進された後勧請されたと思われるが、それを記す資料を見いだせない。

○布施御厨(更級郡)
長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。
・・・ 11世紀後半に伊勢神宮造営のために役夫工米(やぶくまい)が全国一律に賦課されたが、その負担が払えず土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になる地域が発生した。
・・・ 伊勢神宮の所領となった荘園を御厨といい、川中島一帯に布施御厨・富部(とべ)御厨、井上一帯に芳実(はみ)御厨、綿内・保科一帯に長田御厨、千曲川流域に村上御厨などが設定された。
・・・ 布施御厨皇大神社・小松原伊勢社
・・・ 布施御厨の荘官が、平家側・城四郎長茂に属していたため、木曾義仲と井上九郎の軍勢に攻撃され、以後御厨の機能を果たさなくなったと思われます。・・横田河原の合戦。
・・・ 国道・R18の川中島・御厨交差点付近。近在に、富部御厨もあります。

○富部御厨(更級郡) ・・富部・トベ
長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨の中心地。
・・・ 成立は、布施御厨と同じです。
・・・ 富部御厨一帯は富部氏が領する。富部三郎家俊は、平氏の城資職に属し、横田河原で木曽義仲軍の 武将西広助と一騎打ちのすえ討ち取られている。しかし、戸部(富部)一族は、鎌倉御家人として生き残り、のちに村上一族に合力して、武田に追われた時、村上と伴に上杉へ落ち、さらに上杉とともに米沢へ移っている。
・・・ 戸部伊勢神社 ・川中島町御厨にあります。
・・・ 「おたや」とはお田屋、またはお旅館などと言い、伊勢神宮の御師といわれた神職が地方へ神徳宣布に出た時の拠点とした宿舎のことで、御師は特定の信者と師壇関係を結び大麻札を配布し祈祷を行った。御厨の北にも「おたや」という地名が残っている。

○村上御厨(更級郡)
村上御厨は倭名類聚鈔に記載されている村上郷で、鳥羽天皇の皇后高陽院領の判官代村上氏が、在地領主として本家の衰勢を読み押領し、自侭に支配地を領有するため、支配が甘い伊勢神宮の内宮に自ら寄進し、それが受け入れられたとみる。 ・・・神鳳抄には、敢て『小所』と注記している、その田積のほどが知られる。村上御厨は旧村上、力石、上山田を含む、この地域に散在していたようだ。
・・・ 村上御厨神社 ・・神鳳抄に村上御厨小所とあり、上古伊勢神宮御拝地なれば、神明宮の鎮座も上右なれど書類散逸して鎮座の年月は不詳なり。境内に周圏二丈九尺五条の老槻ありしが寛永年間枯二舎を造築す。その他丈余の老樹ありて鎮座の古きを物語る。
・・・ 御厨としての記録がほとんど無い。村上一族の押領の方便の可能性が高い。

○仁科御厨(安曇郡)
大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。
・・・ ”安曇歴史年表”から「永承五年(1051)頃、仁科御厨成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり、現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
・・・ 『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。
・・・ 仁科神明宮は、大町市大字社字宮本にある神社。杉の古木がうっそうと繁る宮山の南麗に鎮座し、東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に建つ神社である。
・・・ 本殿(国宝)、所在地:大町市大字社宮本1159、主祭神:天照皇太神
・・・ 創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり?

矢原御厨(安曇郡)
安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。
・・・ 『神鳳鈔』・(建久四年)、「内八 矢原御厨 千八百九十一町」とあって伊勢神宮領であることがわかる。
・・・ 矢原神明宮:安曇野の田んぼの中の一集落内に鎮座する。毎年5月7日、伊勢神宮より神宮二名、山葵豊作祈願奉仕。

麻績御厨(筑摩郡)
麻績村は、長野県東筑摩郡の村。文治二年(1186)、吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。
・・・ 麻績城の城主は鎌倉期、麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)とされ、応永七年(1400)に勃発した「大塔合戦」には村上氏の与力として麻績山城を守城した。
・・・ 麻績神明宮 :平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社。 本殿、拝殿を始め五棟の建物が国重要文化財に指定。 境内には樹齢八百年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定。

会田御厨(筑摩郡)
・・・ 会田は松本市(旧四賀村)の地区を指します。
会田御厨については会田、苅屋原、明科、塔原、田沢の五カ条からなり、広く犀川右岸までが領域だったと推定されます ..神社の所領は七十町歩を有した。
・・・ 会田神明宮、信濃国内宮八ヵ御領の一つ。天武天皇の二年に勧請をして、信濃国内宮八カ御領の一として祀られていた。会田四組三十九ヵ村の総社であった。

藤長御厨

「信濃国……藤長御厨〈二宮〉」とあり,供祭物は「内宮方,上分布五十端,長日御幣䉼日別代布二丈,外宮方,同前,件長日御幣代布近年不究済之」とある(皇太神宮建久已下古文書)「神鳳鈔」には同じ内容のほか「三百四十五町」とあって矢原御厨に次いで広く,上分も長田御厨に次いで多かった。木曾義仲の横田河原の合戦の主戦場。
・・・ 場所:千曲川の北岸横田一帯/地域の伝承では長野市篠ノ井横田富士宮。
・・・ 更級横田神社 住所:鎮座地 長野市篠ノ井横田303 祭神:天照大御神 由緒:建立は不詳。御厨神明宮と称されていた。

以上が信州で歴史書に確認出来る御厨です。
歴史書は、「大鏡」、群書類従・「神鳳鈔」。他は調べていません。

御厨の域内に、ほぼ例外が無く、伊勢神社系列の神明系の神社が確認出来ます。

この中で、芳美御厨、布施御厨、富部御厨、村上御厨、*藤長御厨は、御厨であった時期が比較的短かったであろうことが、歴史書に登場する機会で読み取れます。中には、地名すら確認が難しいものもあります。
この御厨から、中世に武士団が発生し、後に豪族と成長したものも現れます。
芳美御厨からは井上一族、保科御厨からは保科一族、富部御厨からは戸部一族、村上御厨からは村上一族、仁科御厨からは仁科一族が武士団として成長しました。
北信濃のこれらの一族は、基本的には、御厨を"押領”しながら成長したので、室町幕府が、鎌倉幕府を倒して、前北条の資産を新政府側にする方針に頑強に抵抗しました。
これが大文字一揆で、大塔合戦とも呼ばれた戦いです。室町幕府の政策と意図に従って、荘園や御厨を幕府側に取り戻そうとする守護・小笠原と押領した荘園と御厨を既成事実として領有したい大文字一揆衆の戦いです。大文字一揆衆の主力・主導者は村上一族と仁科一族です。大文字一揆衆は強固で、結局守護・小笠原長秀は敗北して京都へ逃げ帰ります。
信濃国守護・小笠原家が、甲斐・武田信玄に敗北して、信濃が武田に蹂躙される原因は、小笠原家が、信濃国の守護大名として成長できなかったことにあると言われています。甲斐と信濃では、戦国時代にも、経済的規模は、信濃の方が三倍とも四倍とも大きかった言われています。それなのに何故 ・・・?この答えは、小笠原一族内の内訌・一族内抗争とともに、北信濃と諏訪神党の、既得権益保守の連合豪族を統治できなかったことと言われています。

御厨が散在している所在地を点検していると、一つの特徴が浮かび上がってきます。
布施御厨、富部御厨は川中島、芳美御厨、保科御厨、村上御厨、藤長御厨は千曲川流域、矢原御厨、麻績御厨、会田御厨、仁科御厨は犀川とその支流に位置します。
「神鳳鈔」などで確認すると、伊勢神宮へ奉納する貢ぎ物は、鮭と鮭の子(いくら)、麻の布、馬がほとんどです。ここから確認出来ることは、信濃川の上流・千曲川と犀川には、平安時代から鎌倉・室町時代までは、鮭が遡上していた事実が判明します。それも、恐らく大量な鮭の遡上であったのでしょう。そして、当時の衣服の繊維・麻布は、御厨内に麻の木が植えられ、さらに布にする織機が存在していたことが覗われます。大量の麻布は、伊勢神宮の神官の衣料のみならず、一般人の衣料用に換金されていたことが想像できます。併せて、御厨内に、牧が併設されていてことの裏付けも出来そうです。
日本で定常的に鮭の遡上が認められる南限の河川は、太平洋側は多摩川であり、日本海側は島根県の江の川の支流濁川が確認されています。伊勢までは行っておらず、伊勢神宮としては貴重なものだったのかも知れません。
日本海側の河川で、大量に鮭が捕獲された地域は、新潟県、長野県、富山県だそうです。
この鮭をキーワードにすると、信濃国のもう一つの大河・天竜川流域に、御厨を発見できない理由が判明してきます。
千曲川・犀川流域に、御厨を見る理由は、運搬ルートの関係があるようにも思います。定説には、伊勢宮への貢ぎ物の運搬は、東山道とされてきていますが、量的な運搬は、まず日本海側へ出て、北陸道を京方面へ向、伊勢へ向かったというルートが仮設されます。この場合、舟と馬が、運搬の主役になります。こちらの方が、説明が合理的のような気がしますが。



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