ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大宮 風渡野の宮 を探って・・・

2014-04-08 16:27:01 | 史跡

                        風渡野近くの綾瀬川・田園風景・・・    

                                     

大宮の綾瀬川沿いに、風渡野という風雅な地名の所がある。とりわけ、いつも風が吹いている様子もない。大宮という土地柄から、急速な住宅造成が多いが,どちらかと言えば、やや遅れて、田園風景が残存している地区でもある。隣接は、綾瀬川を挟んで岩槻の立地位置。
この風渡野を含んだ地方は、かって七つ郷と呼ばれた。七つ郷、すなわち七里は、風渡野村、門前村、東宮下村、新堤村 、膝子村 、猿ヶ谷戸村 (蓮沼)、大谷村の旧七村が付けた村名だが、今は存在しない。大宮と岩槻に電車が敷設された時、七里と岩槻の間が長いので間に駅が出来、"加倉”と名付けられた。やがて、加倉は、岩槻に属し綾瀬川の氾濫原・・いわば河原だったようで、15年の営業の後廃駅となった。加倉は、岩槻の地籍であるが、旧来の生活圏は七里に領するのではないかと想定する。東武野田線、七里駅、加倉駅については詳しく教唆いただいた。この場を借りて感謝する。
七里に隣接して、宮ケ谷塔の地名の地区もある。

ここで興味を引くのは、門前村、東宮下村、宮ケ谷塔の名前である。
どうやら、かっては、七里地区は、”宮(=神社)”を中心にして、門前の名前を残すぐらいの規模の”宮(=神社)”が存在していたことが、浮かび上がってくる。この宮が、大宮氷川神社や中山神社では、距離感が不自然である。

                                      風渡野の天神社

                

宮ヶ谷塔の由来は、谷戸の中に、宮があったことから名付けられたと思われる。・・谷戸とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷、谷津、谷地、谷那などとも呼ばれることもある。・・・風渡野天神社の 南北方向は ずーっと 台地の上で平らですが 東方向はすぐに綾瀬川沿いの低地へと急に下ります 西方向は なだらかな斜面。
宮の東側に位置するのは、門前、東宮下。


                

               天神社の由緒・・クイックで拡大                  参道からの宮風景   

                         

                        ご神木由緒・・クイックで拡大             ご神木

さて、風渡野の名前の由来だが、どうも”風に纏わる風雅な地名"というわけでもなさそうである。この地の”谷戸”の地形が、女性部分の”ほと”に似ているところから名付けられ、少し変形したというのが、定説のようで、つまり風雅な文字は後付け。・・・神社を尊敬するかっての世界観は、生命を謳歌する思想が流れていて、かなり”おおらか”で明るかったようである。そこには、子孫繁栄とか生命力に関しては、未来への強い信仰があるようで、仏教の”輪廻”の世界観とは違って、力強い。こういった、開けっぴろげで明るい世界観、生活感は、嫌いではない。


                                   もう一つの宮・・宮ヶ谷塔の氷川神社

                   

風渡野に隣接して、宮ヶ谷塔地区がある。ここにも”宮”がある。宮ヶ谷塔の氷川神社という。天神社との距離は、約500mぐらい。この宮ヶ谷塔の氷川神社も、付近の信仰を一身に集めた”宮”の可能性もある。さて・・・と比べてみると、規模と氏子の数に大きな差がありそうな・・・、奉納の石碑、石柱、幟旗、灯籠・・数が違いすぎて、門前を持つ宮は、どうも”風渡野天神社”と比定するに至る。

七里・風渡野地区の中心の”宮”は、どうやら”風渡野天神社”、昔はもっと大きな規模を持っていた・・・と結論してみたが、証左は乏しくて、確証を得ない。果たしてどうであろうか。


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2 コメント

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Unknown (とくさん)
2015-09-12 09:31:12
通りすがりながら、いきなり失礼します。
ここ最近、私もちょうど七里周辺の歴史を調べてまして、
「新編武蔵風土記稿」「武蔵国郡村誌」「大宮市史」などから
知った範囲の事を返信いたしますね。

> 大宮と岩槻に電車が敷設された時、
> 大和田と岩槻の間が長いので間に駅が出来、"加倉”と名付けられた。
> やがて、加倉は、岩槻に属する地名のため、地元の要望で、駅名は”七里”に改められた。
> ・・・東武野田線、七里駅。
え~と、加倉駅が七里駅と改名したのではなく、両駅は別々に存在しました。
https://pbs.twimg.com/media/BmzanLbCQAAg4_d.png
加倉駅は、1930年に開業して1950年に廃止された駅で、
岩槻駅と七里駅の間、野田線と東北自動車道が交わる辺りにあったそうです。
http://blog.goo.ne.jp/manpoarukuhito/e/d90a9e90058c6f4aceedf693843d4141

> 宮ヶ谷塔の由来は、谷戸の中に、宮があったことから名付けられたと思われる。
おっしゃる通り、侵食された丘陵地に氷川神社があった事から、
宮+谷戸で「宮ヶ谷戸」だったのが、やがて転じて宮ヶ谷塔になったそうです。

> ・・・風渡野天神社の 南北方向は ずーっと 台地の上で平らですが
> 東方向はすぐに綾瀬川沿いの低地へと急に下ります 西方向は なだらかな斜面。
> 宮の東側に位置するのは、門前、東宮下。
東宮下や東門前の「東」は、宮の位置とは無関係ですね。
これは明治新政府が、北足立郡という新たな行政単位を設置した際に、
同じ郡に属する事となった現在の上尾市にも、同名の宮下村・門前村があった為、
大宮側は東宮下・東門前となり、上尾側は西宮下・西門前となりました。
ですので明治初頭までは、東の付かない宮下村と門前村だった訳です。

そして、ここからが本題ですけども、
宮下村の宮は、天神社ではなく「宮ヶ谷塔の氷川神社」の事だそうです。
ちなみに宮下村は、宮ノ下村とも呼ばれていたらしいですが、
同地の小字にある「宮ノ下」は、村内の氷川神社から付けられたっぽいので、
宮ノ下村と言った場合の宮は、「宮下村の氷川神社」の事になるのかも?
https://goo.gl/maps/w8A12

続いて門前村の門ですが、これは「かつてあった鷲明神社」の事だそうです。
つまりは、風渡野の天神社でも、宮ヶ谷塔の氷川神社でも無いと(笑)。
もともと鷲明神社は、門前の「上の宮」に鎮座していたのですが、
1600年代半ば、門前が風渡野村より分村した際に、
神社は風渡野村に残るべく、現在の「鷲山会館」あたりに移転しました。
https://goo.gl/maps/jOIGg
その為、同地から神社は無くなり、門前という地名だけが残ったと。
門前村はその後、村の新たな鎮守として湯殿神社を作りました。
https://goo.gl/maps/asGqS
ちなみに鷲山会館の一帯は、江戸期には広大な鷲明神社の境内だったのですが、
明治政府が進めた神社合祀政策により、鷲明神社は天神社に吸収された為、
(鷲明神社は幕府から領知を認められてた事が、却って立場を悪くしたのかな?)
今では天神社所有の借地として、100軒ちかい住宅が建っていますね。

> 風渡野に隣接して、宮ヶ谷塔地区がある。
> ここにも”宮”がある。宮ヶ谷塔の氷川神社という。
> 天神社との距離は、約500mぐらい。この宮ヶ谷塔の氷川神社も、
> 付近の信仰を一身に集めた”宮”の可能性もある。
> さて・・・と比べてみると、規模と氏子の数に大きな差がありそうな・・・、
> 奉納の石碑、石柱、幟旗、灯籠・・数が違いすぎて、
> 門前を持つ宮は、どうも”風渡野天神社”と比定するに至る。
江戸後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、
宮ヶ谷塔の氷川神社に関して、
「古は風土野郷七ヶ村の鎮守なりしと云
  されど其郷名 今は風渡野 宮下の二村のみなれば
  彼七ヶ村は何れを云ひしや詳ならず」
と記されていますので、
昔は凄かったけど、江戸期の段階で既に・・・って事なのかな?

一方で今の天神社は、明治期に周辺神社を合祀する神社とされ、
旧鷲明神社境内などを借地として貸し出し、確実な現金収入がある為に、
財源的に厳しい昨今の神社の中では、比較的に恵まれてそうですね。
そうした状況の違いが、現在の見た目の違いに繋がっているのかも?
返信する
RE:とくさんへ (押田庄次郎)
2015-09-15 03:24:19
いらっしゃい。
コメント、拝見しました。よく調べていらっしゃいますね。
東武野田線の加倉は、東武鉄道の社史を見たら確かに七里駅の翌年に駅が出来て15年経って廃駅になっているようです。書き換えておきます。
また、地名の方角冠は”あとづけ”なのですか。そうすると確かに方角から拘って宮を探すのは見当違いですね。
もともと神社は、地区郷村の守りと祝いの守(神)のはずで、あの地区の村の括りと村社との関係が今一つよく分かりません。よくある村社も、元を糺せばいずれの一族の氏神を出発点にするものが多いそうですが、氏子の多そうな天神社の拠り所がどこなのか、いまだに疑問です。鷲明神社とか湯殿神社とか初見です。こうなると、明治政府の「一村一社」の法令と合祀は昔の記憶を寸断してしまうようです。大宮氷川神社の合祀された祠の団地は痛々しいですね。地名の裏を探るのが好きなので、”御説”を参考にしてもう少し探って見たい気がしています。
又お気軽に立ち寄って下さい。お待ちしています。
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