ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

和銅遺跡を守る聖神社と銅の露天掘り跡

2013-06-25 11:13:45 | 史跡

聖神社

聖神社はもとは銅の採掘近くの山復にあったと聞くが、なにせ和銅元年(708)から幾星霜が過ぎ、朽ちたり焼けたりのあと、凶の方角を避けて、今の地に再建されたと聞く。ここでの確認は、御神体が「むかで=百足」と「ニギアカガネ=自然銅」そのものだと言うことと、守り本尊が「金山彦尊」と言うこと、さらに金山彦尊は「銭神様」だということ。

 

 神社までの石段      一に石段  二の石段

 

 左甚五郎の龍頭      左龍頭   右龍頭

 

聖神社 縁起案内板

銭神様は「お金儲けの神様」として知られ、最近どこかの新聞に記事が載り、人気が上昇中とのこと。下世話の話題だが、どこかほほえましい。

 

和銅露天掘り跡   堀跡1 堀跡2

さて、金昌寺のところでも少し書いたが、ある先輩が、秩父地方は「金」に関係する地名や神社仏閣が多いことを指摘され、そのことが脳裏のベースにあるので、ついつい関連の語彙に反応する。そして、立ち止まり深掘りをしてしまう。・・・どこかに鉱脈がないかと探すように。

和同開珎のもと和銅鉱山は、記録に拠れば、新羅からの帰化人「金上无」とあと二人の日本人により発見された。古書に拠れば、和銅発見に関係したといわれる三人の名前が見えます。

日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)、
津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)、
金上元(こんじょうがん 金上无こんじょうむ とも)

この三人の内二人の日本人は、金上无の案内人か付き添いのように思われます。

金上无は、新羅から来た鉱山師(エキスパート)を意味するようです。この時期、貨幣経済の導入を政策としていた朝廷政府は、高句麗や新羅などの朝鮮系の鉱山精錬師や鉱脈探索師を招いていたらしい。和銅の採掘には 専門的知識をもって、指導的役割を果たした金上无(こんじょうむ)等、帰化人の活躍するところが大きく、精錬・鍛冶・金工に伴う一連の作業は、半島や大陸から武蔵国に移り住んだ人々の技術なくしては不可能であったとおもわれます。それも、銅の産出から精錬さらに貨幣の鋳造にいたる工程は、熟練の技術者を相当数必要とされます。新羅からの帰化人はこのようにして武蔵国、特に今でも鉱脈が散在する秩父地方に定住したのではないか、と確信を持って想定されます。・・・続日本紀。和銅鉱脈の発見のあと、催寿鋳銭司(さいじゅぜんし)の長官に多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」(わどうかいちん)が発行されます。

和銅の産地は、地質学上「出牛ー黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗掘まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。それにしても、鉱脈のあるところは、黒川とか黒山とか黒谷とかの名前が多いですね。黒は鉄鉱石類の意味が含まれているのでしょうか。

新羅三郎の新羅

新羅三郎の通称の由来となった新羅善神堂ですが、唐で新羅(しらぎ)の人々が信仰していた神といいます。もともと渡来系の神で、智証大師円珍が唐から帰国後、三井寺を整備し、その守護神として新羅善神堂を建てました。この新羅善神堂は、源義光の父・源頼義が前九年の役の戦勝祈願に参拝したお堂です。そんな縁もあってか、新羅出身の製鉄蓮金の技術者が集い、製鉄=武器でもあり、源氏との関係を深めました。「しらぎ」は現地での発音で、それを唐(中国)で「新羅」の文字をあて、、「新羅」は日本語で普通に読めば「しんら」ということになります。

むかで、百足、蜈蚣

むかでは毒虫で形も気味のいいものではありません。しかし、鉱山師達はむかでを神と崇めました。鉱脈は、太い鉱脈に付随して、細い鉱脈がむかでの足のように周りに伸ばしているそうです。

[毘沙門天とムカデ]
毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。・・・(小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載)

[ムカデの持つ不思議な力]
ところで、天皇から下賜されたムカデにはどんな意味があるのだろうか。ムカデには多くの足かあることから「百足(むかで)」とも称されている。そのため朝廷からは聖明神社の鎮座祭に、本来ならば文武百官を派遣すべきところであるが、百足を百官に代えて参列させるという趣旨が込められていると伝えられている。話としてはもっともらしい説である。和銅の採掘には 専門的知識をもって、指導的役割を果たした金上无(こんじょうむ)等、帰化人の活躍するところが大きく、精錬・鍛冶・金工に伴う一連の作業は、半島や大陸から武蔵国に移り住んだ人々の技術なくしては不可能であったろう。
ムカデにまつわる信仰や伝説には、ムカデを神の使いとする白髭(しらひげ)神社や、フイゴ祭りにワラで作ったムカデを祀る風習がある。ムカデには強い毒性があり恐れられているが、かたや昔からムカデの油漬けは火傷の薬として珍重されている。白髭神社は渡来系氏族の氏神、またフイゴ祭りのムカデから鍛冶との関係が連想される。こうした背景からムカデの持つ不思議な力に霊力を感じ神格化して祀る行為は、金属関係に従事する渡来系氏族の間で行われていた祭祀の一つとして、彼らによってもたらされたのであろう。ムカデを神として崇めた古代人(こだいびと)のおおらかな感性が伺えよう。・・・埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第18号 1992.8

・・・・・ここに、朝鮮系帰化人の氏神の白髭神社が出てきた。白髭神社があるところに朝鮮系帰化人の痕跡がありそうだ。秩父にその神社はあるのだろうか。

白髪神社 [波久礼/神社]

石碑「白髪神社由来」には、 ≪白髪神社は、・・・猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。・・・ 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。≫・・・ それもそのはず、『新編武蔵風土記稿』「金尾村」の項には、≪白髭社 村の鎮守 例祭九月十九日 傳蔵院持≫とあり、『寄居町史』によれば、大正十三年から社名を白髪に改めた、とある。 祭神にも猿田彦があることをみれば、もとは白髭神社だったのは明らかだろう。にもかかわらず、『埼玉の神社』が、金尾白髪(しらがみ)神社について、 ≪ここは古代高度な技術文化をもった渡来系氏族の入植があった地域である。これは金尾が渡来人「金上无」の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在することからもうかがえる。当社の創建も、恐らく当地に入植した渡来系氏族の関与があったのであろう。≫と記述するのみで、社名変更について、一言も触れていないのはどうしたことか。 では、なぜ白髪神社に改めなければならなかったのか。それは白髭神が蕃神だったからにほかなるまい。大正十三年(1924)といえば、韓国併合はすでに始まっており、しかも、一月に、昭和天皇が結婚し、天皇家に対する期待がいやがうえにも高まったからではなかろうか。わずか「髟(かみかんむり)」の下の字を換えるだけで、神社の性格は一変してしまう。神はおかんむりだ。

「白髪」はもと「白髭」であったらしい。そして白髭神こそは蕃神、つまり渡来人(=帰化人)の氏神と言っている。

 

山伏と酸化鉄

日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。鉱山から鉱石を掘り出す専門の技師である。15世紀からは山師という言葉があるが、定住せず全国の鉱山のある土地から土地へ巡って仕事を請け負う。いわゆる「流れ者」「渡り者」の集団である。鉱石が発見されても、彼らがいなければ採掘はできない。このことを踏まえて、山伏たちが定住地をもたない流れ者で、鉱山のあるところには欠かせない存在だった。『史記』巻 貨殖列伝に「而巴寡婦清 其先得丹穴 而擅其利數世」、巴の寡婦清、その先んじて丹を得るも、しかしてその利を擅(ほしいまま)にすること数世とあり、辰砂を発見すると数代に渡って大儲けできた。この山伏たちが辰砂と鉄の純度を見分けることができる鉱山師で、採掘のために鉱山から鉱山へ渡り歩くという集団で、自ずと里人とは違う独特の習俗をもっていた。異様な装束で山を歩き回る彼らは天狗として畏れられた。里人にとって天狗とは山に出没する得体の知れないよそ者だった。・・・なるほど、辰砂(丹)は貴重なもので、発見できれば、子孫数代にわたる財を生み出したのか。辰砂・・しんしゃとよむ。朱の顔料ならびに水銀のこと。辰砂がどのような有効利用があるのか、見当がつかない。丹ともいう。・・・・ここからは、武蔵七党の丹党の関連は見えてきません。たぶん無関係でしょう。

 

秦一族と秩父

大滝は若沢に移り住んできた人々というのは、ずっと以前から新羅の人々が製鉄のために来ていたのである。新羅系の人々、それは多分秦一族だと思われるが、そういう人々によって古代から大滝で製鉄が行われていたことは間違いないと思う。実は、秦一族が大滝に入ってくる以前から大滝には新羅系の人々が製鉄を行っていたと考えているのだが、古代、秩父では、少なくとも秦一族によって製鉄が盛んに行われていたのは間違いないのではないか。・・・秦氏と言えば、中国に秦の始皇帝が有名なのでつい中国の一氏族と思われがちだが、国境を持たない秦族は遊牧民で、しばしば朝鮮半島の新羅に遊牧して同化もしたらしい。従って、日本の帰化人としては、祖先を違いとする別族意識は若干有ったものの、ほぼ同じとしてみてよさそう。双方とも鉱山師の技術をもった渡来人であった。新羅系秦族の氏集団の護り氏神は「八幡神社」という。これを読むのに秦氏のはたから「やはたじんじゃ」と言うのが由来から正しいが、後に、誰かが「はちまん神社」と読み、通称になった。地名に八幡とある場合、やわた、やはたの読みになる。この頃、新羅三郎の源氏は「八幡神社」が守神になった。・・・新羅三郎と繋がる。

 羊太夫の伝説をめぐって

 昨年の秋(平成7年10月24日~12月3日)、埼玉県立博物館で、特別展「古代東国の渡来文化」が催された。ご覧になった方もあろうと思うが、「東国にきた渡米人-移住から定着へ-」のコーナーに、以前この会報で紹介したことのある「多胡碑」(複製)と、吉井町立郷土資料館の「羊太夫伝承関係資料」3点が展示された。
・・・要約・・・ 羊太夫に関して言えば、まさに和銅の地にある私達の最も身近に頻繁に現れる「伝承の人物」なのである。・・・秩父地方でも言えることで、随分いろいろなところに羊太夫にまつわる話が残っている。小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。・・・ 「羊太夫は、奈良まで(和銅を持って)毎日、天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復した。太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、天皇の怒りをかった羊太夫は討伐されてしまった。」ということになる。・・・ さらには、秩父の伝承の場合は、渡来人の採銅・製銅技術と和銅献上とが羊太夫と深く結び付いて語られている・・・ なお、昨年亡くなられた和銅研究者久下司先生も羊太夫に関する詳細な記述を残されている。例えば、七輿山については、羊太夫が討伐された時、7人の姫君を7つの金の輿に乗せて逃がしたが逃げきれず、家来が姫君達を輿と共に葬って厚く供養したので七輿山と呼ばれるに至ったという話を紹介している。確かに現在七輿山は2基の前方後円墳・・・しかし、久下先生は「羊太夫は金上无か」という文章を掲げて、はっきりと「史上から見ると、実は金上无と羊太夫は何等の関係がなく全くの別人である。・・・

重ね合わせて考えれば・・ 外秩父のこと

以上が和銅黒谷に関係する資料であるが、目に届かぬところに欠落があるやも知れない。いずれにしても、金上无を中心とする新羅系高句麗系の朝鮮氏族がこの秩父に渡来し帰化し、さらに鉱山を開発して、定住したのは紛れもないことと結論する。この地の「金」を冠とする謂われは、金上无と朝鮮系渡来人の帰化に纏わる由来とするところが多とみる。。それにしても秩父の地は水田をあまり見ない。江戸末期から明治にかけて、桑園と蚕を育成し絹産業を生業としたところまで理解が出来るが、それ以前の生活の糧の想像は、あまりにも難しく脳裏に浮かんでこない。それと、人口に比しての寺の多さは、かねてよりの疑問である。

いまひとつ、秩父は下世話なロマン・・本物の金に関係する伝承も幾つか持つ。

それは、武田金山衆の伝承、平賀源内の逸話、そして現在も、荒川に中津川にその支流に確実に拾えるという砂金の事実・・・これは夢の話ではなさそうである。

 

 

 



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