ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

睡蓮のはな咲く・・・岩槻城趾公園・見沼自然公園、そして蓮

2013-06-14 12:39:22 | 史跡

睡蓮のはな・・・はな、さてどう書くか、花・?華・?・・・迷った末 はな。

睡蓮

実は、このブログのテンプレ画像は、古代蓮。今月はこの花を冒頭に飾ります。

 

                  

              

 

          これは古河のお城の古代蓮 2012;08;01撮影

 

          これも古代蓮 2012;08;01撮影

花だけ見れば、古代蓮に一票。しかし、池と蓮の葉と花をくくりでみれば、どうかな。

 

まず、見沼自然公園

    さいたま市緑区大字南部領辻字〆切地内

   この字〆切地内 ってなんなんでしょうね。

さて、蓮についての「うんちく」をすこし・・・なんて、受け売りですが。

蓮のはなは、よく蓮華とよばれる。とすると、蓮のはなは、花より華が似合うのかもしれない。

はす、の謂われは、蜂の巣からだと言われる。蓮の花弁が落ちた後を花托というが、花托が蜂の巣と似ているから、当初、はちす、と呼ばれ、はすになったという。

・・・うーん、花弁をむしり取って、花托とやらをみてみるか。・・・だめです。

別名とやらは水芙蓉、芙蓉、不語仙、池見草、水の花などの異称をもつ。後の方のふたつは、和歌や俳句に似合いそうだ。・・・裕くん、一句、どうですか・・・。そういえば芙蓉の言葉はたまに聞いたことがある。経済界の芙蓉グループもこの文字かもしれない。

古代蓮というのもある。行田で発見されて、育てたら花が咲いて、以後古代蓮がふえ、見応えのある蓮池になったと聞く。(行田市ゴミ焼却場建設予定地から、およそ1400年から3000年前のものが発芽した例(行田蓮)もある。)

古代蓮は、その後、株分けか種子分けで、各地に増え公園の目玉になっているとも言う。古河城趾公園にもあった。古代蓮は、花、茎とも通常蓮より大きく、華は見応えがある。が、池に蓮の葉が浮かび、浮かんだ葉の上に花が載っている普通の蓮の風情はない。

クイズ・・・ロータス(lotus)とは?・・

・・車と答えた人は車好き、・・表計算と答えた人は事務系、・・蓮華と答えた人は叙情派。

つぎに、岩槻城趾公園

    さいたま市岩槻区太田3丁目4番h

   太田という地名がすこし気になります。太田道灌と関係があるのでしょうか。

        岩槻城 池と欄干と睡蓮

 

        川に突き出た出島が城になりました

川は、元荒川です。昔(江戸時代初期まで)荒川の本流でした。今も、元荒川は、あまり淀んでいません。かなり密集した住宅街の中を流れています。環流しているみたいです。

岩槻城の歴史を辿ると、太田道灌の築城の後、歴代太田一族が城主となっている。
道長(1457)を始めとして顕泰・資頼・資正・氏資・源五郎・氏房まで実に7代に渡るが、それまで盟主を扇谷上杉としてきたが、実は氏資(1564)の時に、盟主扇谷上杉が、小田原北条に川越の夜戦で敗れて、後小田原北条の家臣に変わっている。史実によれば、源五郎と氏房は、小田原北条の家臣が名跡の太田を名乗ったともされている。秀吉の小田原征伐で、小田原北条が亡びた後、家康の関東移封に伴い、家康家臣の高力清正(1590)が岩槻城に入り、関ヶ原の戦いの後高力清正が移封されると、岩槻城は、江戸と近いことから幕府の実務官僚の小名が任地するところとなり、徳川時代を経緯する。・青山・安倍・板倉・戸田・藤井松平・小笠原・永井・大岡忠光と続き、あと大岡家が継承して幕末の到る、という流れになる。この一連の城主の経済的基盤は、今でこそ付近は田園の風景を想像されるが、荒川本流だった時は、城を挟んでは綾瀬川が流れ、雨期に洪水で荒らされる作地に適さない場所が多かった。荒川が瀬替えされた後は、作地は増えたものの、各城主は、知行地は分割されて石高はすくなく、城郭を大きくする余裕は無かったことが想像される。
岩槻城に隣接する、岩槻太田地区は、七代にわたる太田一族血縁の住居地区だったのだろうと思う。
・・・以上が私が見たてた岩槻城の歴代の様子である。改

 

 

 



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寄居・風布に、神社が ふたつ 宮司岩松氏

2013-06-12 17:26:59 | 歴史

寄居・風布に、神社が ふたつ  宮司岩松氏

ふと立ち寄った、山間の「むら」風布は名前にも味があり、幾つかの不思議があった。
ひとつは、山頂の方の釜山神社、今ひとつは「むら」の中心に姥宮神社。(ほんとはもう一つ、琴平神社もあり、こちらも秩父困民党の歴史を抱えているのだが・・・)
ひとは、不思議に出会うとロマンを感じるらしい・・・自分だけかも?。それでか、やたらと調べたくなって、歴史の記録の中へ、放浪が始まる。・・ついつい悪い癖。

さて、歴史の記録の中へ放浪のシーン・・・昨日、
大宮中央図書館で、神社庁出版の「埼玉の神社」を読む。寄居・風布の釜山神社・姥宮神社のところ、神社の宮司岩松氏は、新田一族の裔で・・・と書かれている。同じ項に「武蔵野合戦」の文字も発見する。・・・そうだったのか・・・
いま、このブログを書いている横には、群馬太田市の地図を広げて、東武伊勢崎線と板東太郎の間を目で追いながら、このブログを書いている。確かに世良田の隣に岩松の地名を発見する。岩松は確かに存在しているのだ。
確か、神社の菊紋のいわれで、ふたつの可能性を書いた覚えがある。木地師と南北朝期の南朝の皇子のふたつの可能性。それも、南朝皇子の可能性が低いと書いていた。
木地師の可能性は、奥秩父の甲斐国境近くに、それらしき伝承が、また神流川の山間の上野村に存在を確認するが、そこは秩父と隣接だが群馬県。
かってこの道路をドライブしたことがある。本庄児玉インターを降りて、有名な冬桜を右手に見て通り、緑がかった庭石産出の鬼石を通過して、神流川を遡れば、左手はジャンボ機墜落の御巣鷹山、更にたどれば、佐久に通じる。20年前の記憶に頼れば、国境を越すあたりから、長野県側は1.5車線のS字カーブが続き、落石も少しあり、身も縮むドライブだったことを思い起こす。そこが、十石峠だったんです。
しかして、木地師の可能性を見つけられず、木地師説は否定に到る。

南朝皇子の可能性は、皇子の隠棲は確認できないが、岩松氏が新田一族で、南朝側の豪族だった証明は出来そう。さらに、武蔵野合戦とは、笛吹峠の戦い、高麗原、小手指川原、入間川原の各戦いの一連で、南朝側の主力部隊が新田一族だったことは、よく知られるところである。この一連の戦いで、南朝の精神的支柱であった宗良親王は、戦士達を慰撫する笛を吹いて笛吹峠の名を残し、小手指河原では、戦士を鼓舞する有名な和歌が作られた。
・・・君のため世のためなにかおしからん すててかひあるいのちなりせは 宗良親王
この歌は、幕末の志士坂本龍馬が好み、ことある度に口にした、と伝わる。
武蔵野合戦は発端が足利直義と高師直の対立から、足利尊氏との兄弟対決になる「観応の擾乱」が引き金になり、北条残党と南朝と直義派が合流し、幕府・尊氏派と対立した戦いである。この一連の戦いに敗れた新田一族は、主力が越後に逃げるが、一部が外秩父に隠れた。彼が、岩松氏の祖であるという。
岩松氏は、岩松家と新田一族の再興を願って、住吉神社から護良親王を分霊・分祀して釜山神社を創建したという。釜山神社が衰退したとき、人家の中にある姥宮神社に、釜山神社は合祀したという。時が経ち、新田一族の再興を願った岩松氏は、かなり苦労して釜山神社を、また独立創建させた、という経緯をもつ。護良親王に繋がる菊紋は、したがって、姥宮、釜山の両方にある。今では、岩松氏は釜山神社とともに、故あって姥宮神社の宮司も勤めるという。
ついでながら、護良親王、宗良親王は、柳田国男に拠れば、もりなが、むねなが、しんのうと読むのが正しい。今では誰も「良」を「なが」と読めないので甘くなり、もりよし、むねよし、しんのうでも良いとも言う。
傍証のひとつではあるが、「探 三州街道」の浪合記の記述の中の、上杉禅秀の乱に、確かに岩松氏は参戦しております。

歴史の記録の中へ、放浪することは、嫌いではありません。
姥宮神社の十六花弁の菊紋を探るうちに「平将門」を少し触りました。前々からかなり気になる存在です。「平将門」を教科書通りの「賊徒」という、誰かが貼ったレッテルを、出来れば少しでも剥がしたい気持ちです。関東に関わった人達は、「平将門」の神社や痕跡を見る機会が多い。それは、どう見ても「いいやつ」だったからだと思えてならない。
・・・道草が多くて、なかなか進みません。ついつい悪い癖です。いつになるやら・・

菊紋についての訂正

菊紋が、明治四年(1871)に皇族以外の使用を禁じたのは事実であるが、その後神社等において「使用禁止」が徐々に緩んでいく。明治十二年の太政官通達23号で、神紋としてでなく、菊紋が社稜(神殿屋根紋・灯籠紋等)の装飾として、また幕や提灯の紋装飾として、許されて普及が拡大してゆく。その場合、皇族に遠慮いてか、花弁数を変更したり、陰菊紋にしたり、若干の変更をしたものも多い。

このことを踏まえて、改めて考え直すと、姥宮神社の場合も、菊紋が許されて以降の改築なのかも知れない。ただし、宮司の出自については、新田一族であるらしい。

 

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秩父地方 歴史と伝承 外伝 ・・・菊紋と豪族

2013-06-09 17:45:34 | 歴史

秩父地方 歴史と伝承 外伝
                         ・・・菊紋と豪族


秩父に、菊紋の神社がある。秩父を代表とする、あの秩父夜祭りの中核となる、秩父神社のことである。だが、秩父神社の紋は、菊の他に葵の紋と銀杏の紋もある。

              転記

縁起・・
秩父神社は、崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造の八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まります。それは武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。ですから関東でも屈指の古社になります。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。現存の社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めているいます。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
まず、豪族・
まず検証として、平良文とは、板東平家の租といわれ、将門の窮地を救った妙見菩薩が平良文の守り本尊でもあることから、平将門と平良文は同盟関係ではなかったか、と言われている。この平良文は、秩父と男衾(深谷)を領有した畠山の祖と言われ、秩父神社の前身名は秩父妙見宮で、畠山の護り神社でもある。畠山は、鎌倉幕府成立前の、平清盛との戦いの時、頼朝側に属して貢献し、北武蔵野の鎌倉道の押さえで菅谷に移り、館を残している。  菅谷館の畠山忠重像

この付近に意味深な地名が二つ、大蔵合戦の大蔵、外秩父の都幾川の小倉城が、畠山家との関係がありそうである。だが、残念なことに、地名を残して資料を残さずで、手がかりは皆無に近い。
誰がその地に存続したかと言う記録はないし、南北朝時代に南朝の皇子を助けたという記録も無い。
そして歴史・
その後、秩父地方は、上杉管領が治めるところとなり、次ぎには上杉が後北条に破れて、小田原北条の系列の北条氏邦の知行になり、その後、徳川時代、伊奈代官所の管轄を経て、伊奈忠次の計らいで経済的に苦しむ忍藩に、生産力のある秩父の平地部分が割譲された、という経緯がある。米の生産のできない山林のある山岳は、幕府直轄地のままで、川西材と呼ばれる材木の管理は、関東郡代・伊奈家が行ったのだろうか・の疑問は残ったままであるが。・・・秩父の樽木の関連は「、関東郡代」の書を著した人に確認したかったのだが、叶わなかった。
江戸時代の初期、秩父神社は、大改造改築を行っている。勿論家康の命令だが、総プロデューサーは天海僧正である。社稜の配置・縄張り、そして外装の装飾は当時の名人をかき集めて荘厳な彫刻が施された。有名な左甚五郎も集められた。その完成を見た後、秩父神社と瓜二つの、日光東照宮が造られた。当然ながら、天海僧正が指揮を執り、秩父神社造営の職人がそのまま、日光東照宮を造った。勿論左甚五郎もである。秩父神社と東照宮は瓜二つだが、少し違う部分もある。猿の彫刻もそのひとつである。

      秩父神社の元気猿  元気猿の看板

日光東照宮の三猿は、見ざる、言わざる、聞かざる、である。

秩父神社の葵の紋は、天海(随風)の造営の記念の紋である。
すこし脱線だが、面白い話が纏わる。
秩父神社の拝殿と本殿の間の幣殿側面に、東西に向かい合った二人の人物の彫刻がある。東には右手に竹笹を持つ桔梗紋の男がおり、対に僧侶の彫刻がある。

 光秀?なのか  桔梗紋

男の紋は桔梗紋。その他に、秩父神社も日光東照宮も屋根の瓦には桔梗紋のついた瓦が何枚も使われており、これに謎めいた桔梗紋の男の彫刻が加わり、春日の局の出自が語りかけ、日光のいろは坂の明智平の名付けが天海僧正と聞いたら・・・もう、年齢も似通うところから、明智光秀は=天海僧正と、まことしやかに、ささやかれる。真偽は分からないが、面白いことは確かである。先頃ついに明智平は、展望台まで造ってしまったらしい。・・・脱線ではあるが。

明治に入り、秩父神社は、秩父妙見宮の名前を棄てて、秩父神社と名乗るようになる。
さらに菊紋・
昭和に入り、秩父宮に名に由来し、宮が秩父神社に合祀される。この時、この神社に菊紋が下賜される。従って菊紋は昭和になっての話のようである。菊と葵を除けば、秩父神社の本来の紋の銀杏が残る。
秩父神社の神紋は銀杏と言うことになる。

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秩父・奥秩父の山系の外伝 ・・・風布の郷の不思議を訪ねて

2013-06-06 18:05:34 | 歴史

秩父・奥秩父の山系の外伝
               ・・・風布の郷の不思議を訪ねて

群狼の狩り

        群狼

 

            群狼が熊を襲う

かつて、おおかみは大神とも呼ばれ、尊厳を持って敬われた歴史があるらしい。
眷属といって、神の使い、いや家来を意味する。眷属は「けんぞく」と読む。神の家来の眷属は、なにも狼に限るものではないし、確かの他の動物もいる。が、やはり代表とされるのは狼でありそうだ。
なぜ、狼が神になったのか、それは狼が群れを作りながら狩りをしたからなのだろう。山がちの集落では、鹿や猪などの野生動物による田畑への被害が多かった。獣害に苦しむ人々にとって、害獣の天敵であるオオカミは、神仏の使いとも言える益獣だったのである。
たしかに、はぐれて一匹で行動する狼もいることはいる。「はぐれ狼」と人は言う。物語の題材にでもなりそうな語彙ではあるが、実は群頭の戦いに敗れてとか、何処か欠陥があり脱落したとか、が主の理由になっての単独行動で、本来は集団行動である。。狼は基本、穏やかな動物らしい。それと、個対個のバーサスではどうも強く無さそうである。猪と対峙しても、群れで対応しなければ体力差で負けそうである。鹿に対しては、確実にスピードで負けると思われる。人に対しては、野生の本能からか馴染めるはずがない。山伏が、犬の代わりに狼を連れて歩くなど、たぶん嘘の伝承であろう。
伝え聞く狼の狩りの方法は、かなり頭脳的だ。群れによる、囲い込みと待ちぶせと持久力が基本の戦略のようである。体力で劣っても、囲って何日も待ち、敵が疲労したところを襲うという、何とも気の長い戦い方のようだ。
むかし山里にもっとも脅威の動物は、作物を荒らす猪や鹿や猿であった。食性を共有しない人間と狼は、仲良しでは無かったが、お互いを尊厳した。互いの敵は、味方だった。
その、日本狼は絶滅して、今はいない。


小林派の社壁の彫刻

 

 

秩父、外秩父に限らず、この地方の神社仏閣に見事な彫刻芸術がある。疑いも無き格式の神社仏閣のみならず、なんでこんな神社に不相応な彫刻を確認すると、多少訝しがってしまう。ただただ驚いてそのままに過ごしてしまったが、恐らく、どこかの作者の名が刻まれて不思議はない。
越生の龍穏寺のときもそうだった。確か龍穏寺は焼失して再建されたと聞いたがその時期を確認していない。また今回の姥宮神社の彫刻も時期と作者を確認せず、過ごした。
確か、奥秩父の三峰神社にも彫刻があった。その彫刻は熊谷市玉井、江戸時代の名工小林栄次郎氏で、三峰神社、秩父神社、金讃神社なども改築しているという。都幾川の慈眼寺の彫刻もそのようである。
彫刻にも流派があるらしいが、名工小林栄次郎氏は、その系流に、かなり多くの彫刻氏を生み、彼らは埼玉のみならず、群馬や栃木や千葉や茨城や東京に作品を残しているようだ。
そのほとんどが、作品に名を刻んで残しているため、たどるど小林栄次郎に繋がるという。
姥宮神社の彫刻は、はたして、どうであろうか。

秩父往還
秩父地方は、幾つかの峠によって武蔵・上野・信濃・甲斐などと結ばれていた。
江戸から秩父へ往還には、熊谷から寄居を通る荒川沿いのルートと、川越から皆野町の粥仁田峠を越えて入るルート、飯能から正丸峠を越えるルートの三つのルートがあった。
秩父から甲斐へは雁坂峠、信濃へ出るには十文字峠が使われた。江戸時代は、防衛の目的で、自由な旅行が規制されていた。甲州街道のバイパスにあたる雁坂峠道と、中山道の裏街道にあたる十文字峠道は、秩父市大滝の栃本集落の先で分岐する。ここを通行する人々は、麻生集落にあった加番所と栃本集落にあった栃本関所で検問を受けた。
雁坂峠道は、武田信玄の配下が、秩父市大滝の鉱産資源を採掘するのに頻繁に訪れた歴史を持つ。江戸時代には、甲斐善光寺や身延山への参詣や、また甲斐から三峰山への参詣のために入ってくる人々と、生活物資を売買するための人々が多数通行した。
十文字峠道もまた、信濃善光寺や秩父三峰山は相互に多くの参詣者が行き来したし、米のとれない秩父に、佐久の米がこの峠を越えて運ばれた。一里観音、二里観音の石仏は、栃本から長野県南佐久郡川上村梓山に至るまで、約一里ごとに建てられている六基の観音像の一部であり、往古より山を越える旅人を見守ってきたのである。

栃本の関所と風景のブログを参照下さい。

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/s/%C6%CA%CB%DC%B4%D8%BD%EA


大陽寺と菊の紋

大陽寺
   秩父市大滝459

            山門

太古の昔より神々が宿る三峰山のその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった
鎌倉末期から南北朝時代にむかう時代、開山仏国国師は、後嵯峨天皇の第三皇子として京に生まれた。当時の京都は、鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いが激しく起こっている時代であった。そうした争いを避けて、16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。
かつて断崖絶壁の山奥で、黙々と座禅を組む仏国国師の姿が天狗にも見え、この地が「天狗の住む渓谷」と恐れられた。

仏国国師となった皇子の家臣は、また修験者になり、国師を護りながら支えた。

                     本堂・宿坊

菊の紋
太陽寺の「開山堂」の屋根や祭壇などに、菊の御紋がある。これは、仏国国師が皇族出身であることに由来している。

この太陽寺と風布の姥宮神社は、繋がりがあるのだろうか。

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マルタのヘイジュード

2013-06-04 12:53:57 | 日記

ちょっと、コーヒーブレイク

今日は6月4日になったばかりの深夜。
NHK BS で 「ヘイ・ジュード? 革命のシンボルになった名曲」の再放送を放映している。
気がつくと、懸命にテレビの画面に食い入っていた。
昭和42年に大学に入学した頃、ビートルズは日本でも人気が急増していた。友人達のビートルズファンに混じって、すこしずつファンになっていった。アビーロードやサージェントペーパーズはお気に入りになった。「ヘイジュード」も好きな曲である。

その頃ベトナム戦争があり、街に、戦争反対の「ベ平連」も出来た。
チェコの、プラハの春やソ連軍の戦車のプラハ侵攻のことは鮮明に覚えているが、マルタのことは知らなかった。

「ヘイ・ジュード? 革命のシンボルになった名曲」

http://www.youtube.com/watch?v=OJ3H6Mo8zW8

マルタの「ヘイジュード」 ・・歌

http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw

 かなり、重い、コーヒーブレイクになってしまった。

その頃を知る友人からは、「「ベ平連」も出来た」は表現が違うだろうと叱られそう。

マルタのヘイジュード ・・・ポールの歌詞と全然違う
歌詞の訳

ねぇ ジュード 涙があなたをどう変えたの
目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる
私があなたに贈れるものは少ないけど
あなたは私たちに歌ってくれる
いつもあなたと共にある歌を

ねぇ ジュード
甘いささやきは 一瞬 心地いいけど
それだけじゃないのね
「韻」の終わりがある すべての歌の裏には「陰」があって
私たちに教えてくれる
人生はすばらしい 人生は残酷
でもジュード 自分の人生を信じなさい
人生は私たちに 傷と痛みを与え
時として傷口に塩をすりこみ 杖がおれるほどたたく
人生は私たちをあやつるけど悲しまないで

ジュード あなたには歌がある
みんながそれを歌うと あなたの目が輝く
そしてあなたが静かに 口ずさむだけで
すべての聴衆はあなたにひきつけられる
あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
でもジュード あなたと遠くはなれても
心は あなたのそばに行ける
今 私はなす事もなくあなたの歌を聴く自分を恥じている
神様私を裁いてください
私は あなたのように歌う勇気がない

ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリ 石をかむようつらさを
あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
不幸の裏にある「真実」を教えてくれる
                                     ・・・転記

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風布のかえるの神社、姥宮神社の菊花紋

2013-06-02 06:53:39 | 建造物

姥宮神社の菊花紋

   転載

 

屋根の上の鬼瓦の所に、目立たないが、よく見れば、16花弁の菊花紋です。
皇室関係の紋で、通常は使用を禁止されているようです。ただし例外があります。

ほかにも、神社建物の周りの社殿彫刻も、多少色を残し、極彩色のなごりをうかがわせます。建築様式も権現造りをでしょうか、鳥居も立派で、なにか格調が高そうです。明神鳥居で貫に彫刻もあります。

           転載

 姥姫神社は、元あった場所は、みかん山の頂近くだそうで、後に今の地に移転したとの伝えがあるそうです。理由は分かりません。

 すると・・・

菊花紋のの由来は二つ考えられます。ひとつは、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子達の一人の隠里、もうひとつは、木地師の郷ではなかったのか、という想像です。
ふるい、江戸時代以前の話です。

 木地師の説明を引用します・・・・・

木地師と言う者がある。 生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。

 年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。

 木地師文書と言うものがある。
 この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
 従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
 木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。
・・・・・引用おわり (探 三州街道 より)

 この地に、轆轤をまわして木の食器をつくった杣人がいたかどうか、知らない。そして、彼らの氏名が、大蔵や大倉・小倉や小椋を名乗ったのかも知らない。彼らの墓地の墓碑にも、菊花の紋があるやも知れない。

 これらの証明は、この地に農民の乱が起こった時、風布の100戸の満たない地区から75人の乱への参加者があった事実から、家系の存続自体に無理があることから、調査はかなり困難だろう。だがどこかに痕跡は残っているかも知れない。数日前、姥宮神社の謂われを素通りしようとしたが、俄然、興味の湧く題材になってきている。

 南朝の皇子の可能性の方はすこし低い。建武の新政以降の南朝の資料は、かなりの量が残されており、その中に外秩父に関する資料は、見落としがなければ無いようだ。

前回ブログの後日談だが、菊花紋に気がついて、興味に火がついてしまったのだ。

それにしても、いろいろと不思議の多い所です。

 

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