睡蓮のはな・・・はな、さてどう書くか、花・?華・?・・・迷った末 はな。
睡蓮
実は、このブログのテンプレ画像は、古代蓮。今月はこの花を冒頭に飾ります。
これは古河のお城の古代蓮 2012;08;01撮影
これも古代蓮 2012;08;01撮影
花だけ見れば、古代蓮に一票。しかし、池と蓮の葉と花をくくりでみれば、どうかな。
まず、見沼自然公園
さいたま市緑区大字南部領辻字〆切地内
この字〆切地内 ってなんなんでしょうね。
さて、蓮についての「うんちく」をすこし・・・なんて、受け売りですが。
蓮のはなは、よく蓮華とよばれる。とすると、蓮のはなは、花より華が似合うのかもしれない。
はす、の謂われは、蜂の巣からだと言われる。蓮の花弁が落ちた後を花托というが、花托が蜂の巣と似ているから、当初、はちす、と呼ばれ、はすになったという。
・・・うーん、花弁をむしり取って、花托とやらをみてみるか。・・・だめです。
別名とやらは、水芙蓉、芙蓉、不語仙、池見草、水の花などの異称をもつ。後の方のふたつは、和歌や俳句に似合いそうだ。・・・裕くん、一句、どうですか・・・。そういえば芙蓉の言葉はたまに聞いたことがある。経済界の芙蓉グループもこの文字かもしれない。
古代蓮というのもある。行田で発見されて、育てたら花が咲いて、以後古代蓮がふえ、見応えのある蓮池になったと聞く。(行田市ゴミ焼却場建設予定地から、およそ1400年から3000年前のものが発芽した例(行田蓮)もある。)
古代蓮は、その後、株分けか種子分けで、各地に増え公園の目玉になっているとも言う。古河城趾公園にもあった。古代蓮は、花、茎とも通常蓮より大きく、華は見応えがある。が、池に蓮の葉が浮かび、浮かんだ葉の上に花が載っている普通の蓮の風情はない。
クイズ・・・ロータス(lotus)とは?・・
・・車と答えた人は車好き、・・表計算と答えた人は事務系、・・蓮華と答えた人は叙情派。
つぎに、岩槻城趾公園
さいたま市岩槻区太田3丁目4番h
太田という地名がすこし気になります。太田道灌と関係があるのでしょうか。
岩槻城 池と欄干と睡蓮
川に突き出た出島が城になりました
川は、元荒川です。昔(江戸時代初期まで)荒川の本流でした。今も、元荒川は、あまり淀んでいません。かなり密集した住宅街の中を流れています。環流しているみたいです。
岩槻城の歴史を辿ると、太田道灌の築城の後、歴代太田一族が城主となっている。
道長(1457)を始めとして顕泰・資頼・資正・氏資・源五郎・氏房まで実に7代に渡るが、それまで盟主を扇谷上杉としてきたが、実は氏資(1564)の時に、盟主扇谷上杉が、小田原北条に川越の夜戦で敗れて、後小田原北条の家臣に変わっている。史実によれば、源五郎と氏房は、小田原北条の家臣が名跡の太田を名乗ったともされている。秀吉の小田原征伐で、小田原北条が亡びた後、家康の関東移封に伴い、家康家臣の高力清正(1590)が岩槻城に入り、関ヶ原の戦いの後高力清正が移封されると、岩槻城は、江戸と近いことから幕府の実務官僚の小名が任地するところとなり、徳川時代を経緯する。・青山・安倍・板倉・戸田・藤井松平・小笠原・永井・大岡忠光と続き、あと大岡家が継承して幕末の到る、という流れになる。この一連の城主の経済的基盤は、今でこそ付近は田園の風景を想像されるが、荒川本流だった時は、城を挟んでは綾瀬川が流れ、雨期に洪水で荒らされる作地に適さない場所が多かった。荒川が瀬替えされた後は、作地は増えたものの、各城主は、知行地は分割されて石高はすくなく、城郭を大きくする余裕は無かったことが想像される。
岩槻城に隣接する、岩槻太田地区は、七代にわたる太田一族血縁の住居地区だったのだろうと思う。
・・・以上が私が見たてた岩槻城の歴代の様子である。改