ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

秩父・奥秩父の山系の外伝 ・・・風布の郷の不思議を訪ねて

2013-06-06 18:05:34 | 歴史

秩父・奥秩父の山系の外伝
               ・・・風布の郷の不思議を訪ねて

群狼の狩り

        群狼

 

            群狼が熊を襲う

かつて、おおかみは大神とも呼ばれ、尊厳を持って敬われた歴史があるらしい。
眷属といって、神の使い、いや家来を意味する。眷属は「けんぞく」と読む。神の家来の眷属は、なにも狼に限るものではないし、確かの他の動物もいる。が、やはり代表とされるのは狼でありそうだ。
なぜ、狼が神になったのか、それは狼が群れを作りながら狩りをしたからなのだろう。山がちの集落では、鹿や猪などの野生動物による田畑への被害が多かった。獣害に苦しむ人々にとって、害獣の天敵であるオオカミは、神仏の使いとも言える益獣だったのである。
たしかに、はぐれて一匹で行動する狼もいることはいる。「はぐれ狼」と人は言う。物語の題材にでもなりそうな語彙ではあるが、実は群頭の戦いに敗れてとか、何処か欠陥があり脱落したとか、が主の理由になっての単独行動で、本来は集団行動である。。狼は基本、穏やかな動物らしい。それと、個対個のバーサスではどうも強く無さそうである。猪と対峙しても、群れで対応しなければ体力差で負けそうである。鹿に対しては、確実にスピードで負けると思われる。人に対しては、野生の本能からか馴染めるはずがない。山伏が、犬の代わりに狼を連れて歩くなど、たぶん嘘の伝承であろう。
伝え聞く狼の狩りの方法は、かなり頭脳的だ。群れによる、囲い込みと待ちぶせと持久力が基本の戦略のようである。体力で劣っても、囲って何日も待ち、敵が疲労したところを襲うという、何とも気の長い戦い方のようだ。
むかし山里にもっとも脅威の動物は、作物を荒らす猪や鹿や猿であった。食性を共有しない人間と狼は、仲良しでは無かったが、お互いを尊厳した。互いの敵は、味方だった。
その、日本狼は絶滅して、今はいない。


小林派の社壁の彫刻

 

 

秩父、外秩父に限らず、この地方の神社仏閣に見事な彫刻芸術がある。疑いも無き格式の神社仏閣のみならず、なんでこんな神社に不相応な彫刻を確認すると、多少訝しがってしまう。ただただ驚いてそのままに過ごしてしまったが、恐らく、どこかの作者の名が刻まれて不思議はない。
越生の龍穏寺のときもそうだった。確か龍穏寺は焼失して再建されたと聞いたがその時期を確認していない。また今回の姥宮神社の彫刻も時期と作者を確認せず、過ごした。
確か、奥秩父の三峰神社にも彫刻があった。その彫刻は熊谷市玉井、江戸時代の名工小林栄次郎氏で、三峰神社、秩父神社、金讃神社なども改築しているという。都幾川の慈眼寺の彫刻もそのようである。
彫刻にも流派があるらしいが、名工小林栄次郎氏は、その系流に、かなり多くの彫刻氏を生み、彼らは埼玉のみならず、群馬や栃木や千葉や茨城や東京に作品を残しているようだ。
そのほとんどが、作品に名を刻んで残しているため、たどるど小林栄次郎に繋がるという。
姥宮神社の彫刻は、はたして、どうであろうか。

秩父往還
秩父地方は、幾つかの峠によって武蔵・上野・信濃・甲斐などと結ばれていた。
江戸から秩父へ往還には、熊谷から寄居を通る荒川沿いのルートと、川越から皆野町の粥仁田峠を越えて入るルート、飯能から正丸峠を越えるルートの三つのルートがあった。
秩父から甲斐へは雁坂峠、信濃へ出るには十文字峠が使われた。江戸時代は、防衛の目的で、自由な旅行が規制されていた。甲州街道のバイパスにあたる雁坂峠道と、中山道の裏街道にあたる十文字峠道は、秩父市大滝の栃本集落の先で分岐する。ここを通行する人々は、麻生集落にあった加番所と栃本集落にあった栃本関所で検問を受けた。
雁坂峠道は、武田信玄の配下が、秩父市大滝の鉱産資源を採掘するのに頻繁に訪れた歴史を持つ。江戸時代には、甲斐善光寺や身延山への参詣や、また甲斐から三峰山への参詣のために入ってくる人々と、生活物資を売買するための人々が多数通行した。
十文字峠道もまた、信濃善光寺や秩父三峰山は相互に多くの参詣者が行き来したし、米のとれない秩父に、佐久の米がこの峠を越えて運ばれた。一里観音、二里観音の石仏は、栃本から長野県南佐久郡川上村梓山に至るまで、約一里ごとに建てられている六基の観音像の一部であり、往古より山を越える旅人を見守ってきたのである。

栃本の関所と風景のブログを参照下さい。

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/s/%C6%CA%CB%DC%B4%D8%BD%EA


大陽寺と菊の紋

大陽寺
   秩父市大滝459

            山門

太古の昔より神々が宿る三峰山のその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった
鎌倉末期から南北朝時代にむかう時代、開山仏国国師は、後嵯峨天皇の第三皇子として京に生まれた。当時の京都は、鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いが激しく起こっている時代であった。そうした争いを避けて、16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。
かつて断崖絶壁の山奥で、黙々と座禅を組む仏国国師の姿が天狗にも見え、この地が「天狗の住む渓谷」と恐れられた。

仏国国師となった皇子の家臣は、また修験者になり、国師を護りながら支えた。

                     本堂・宿坊

菊の紋
太陽寺の「開山堂」の屋根や祭壇などに、菊の御紋がある。これは、仏国国師が皇族出身であることに由来している。

この太陽寺と風布の姥宮神社は、繋がりがあるのだろうか。

コメント (1)
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