「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

無力化する「ことば」

2010-04-22 22:58:00 | ノンジャンル
普天間問題は5月末までに決着させる。
国のトップにあるものが明言した「決着」に意味が、受け取った側(国民)と発した側の現在で異なるという状況は、「ことば」の力の限界を際立たせるものとなっている。
「いわゆる私が申し上げている決着というものを行ってまいります。5月の末までという、その時期を変えるつもりはありません」とは、要するに私が発した言葉の意味は私が決めるものであって相手がどう認識(想起)したかなんて関係ない、と行っているに等しい。

およそ会話とは「ことば」の意味地平が異なっては成立しえない。
国にも静岡県にも共通する公約中の文言「天下り」を、あっせんがなければ天下りではないという事後解釈は単なる解釈の相違どころか詐欺的なものだ。

今日の県内新聞も県が昨日抜き打ちの災害対応訓練を実施したと報じていたが、「抜き打ち」の認識は県と県民とで異なるだろう。
もともと「抜き打ち」の意味は「予告をしないで、だしぬけに事を行うこと」とされている。抜き打ちの訓練をしたといえば一般には事前に知らされない状態で行ったと認識するはずである。
しかし実際は前日には決まっていたもので、マスコミにも知らされていたものだ。(だからこそ、知事の登庁映像も収録できたわけだ。)
私もブログで書いたとおり前日は早く寝て翌朝電話を待った。(http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/570.html
いわば、県とマスコミは共犯関係にあったということだ。
知らぬは県民ばかりなりという構造だ。

「ことば」の意味地平、換言すれば発せられた「ことば」のとらえ方の違いが構築するフィクションはその事象だけでなく「ことば」そのものに対する不信を生むことになるが、そこで終わりではない。国家にとっても社会にとっても。
民主主義国家において会話そのものが力を失うことの意味と影響をよく考えて政治、行政、マスコミはことばを発し行動してほしい。