本日は青年会主催礼拝
なにしろすばらしかったです
なにがちがうんだろう
と考えてみて
これかなあと思ったのは
チーム
ということでした
つまり
当教会のテーマのひとつは
チーム
のようです
ただ個人個人が
役割をこなす
というところから
解放される
時が来たようです
チームとして
祈り対話し準備する
時が来たようです
根本を探れば
他者と共に
教会家族として
という事柄の
具体化
が起こり始めているようです
やったね
で
わたしは声を大にして言いたいのですが
牧師もまた
説教を語るだけでなく
聞かねばなりません
先週は渡邉さん
今週は南部さん
の説教を
わたしは聞くことがゆるされるという
礼拝に恵まれましたが
よかったあ!!!!
説教を
神の言葉の宣言を
聞く機会は
牧師も間違いなく必要です
月に一回くらいは
聞きたいなあ
二人牧師がいたら
そういうのができるのかなあ
とも考えつつ・・・
ひとり牧師でも
牧師が牧師となるためには
年に何回かは
牧師が説教を聴くことのできる礼拝をつくる
ということも
とても大事だと思いました
で
南部さんの説教がとてもよかった
先週の渡邉さんもそうでしたが
そっとやちょっとの牧師が話せる内容でない
という説教を
しておりました
わたしたちにとってガリラヤとは?
それは弱く貧しく矛盾に満ちた
関係によるところの場
という結論は
泣きそうになりました
実はわたしも
ガリラヤをテーマにした説教は
二度ほどしておりますが
たぶん
わたしでは伝わらなかったけど
南部さんで相当に教会全体に響いたなあ
と思いました
感謝感謝
南部さんの説教でいいなあと思ったのは
丁寧な文字の言語が
丁寧に朗読のように語られたこと
体の隅々まで丁寧に染み渡る言葉でした
わたしは
その逆で
音の言葉でしか語ることができず
もっというと
音楽の言葉で語るので
ときどき打楽器のような言葉を発したりもして
実は一ヶ月前くらいに
とある敬愛する姉妹から
そういう言葉があんまり好きでない
と指摘もされていまして・・・
「聖書教育」
を執筆した時も
打楽器的言葉の変更を余儀なくされたこともあり
文字の言葉って
やっぱいいなあ
と思いつつ
でもわたしは
音の言葉しか使えないわけです
渡邉さんは
両方使っていました
また
音域的に説教を見てみると
渡邉さんは
中低域がしっかりとでてくる安定した説教で
南部さんは
広域から低域までが滑らかにさわやかにでてくるという説教で
わたしは
中域のみどかんとでてくるような説教で
なんだか
わたしの説教はこれでいいのかなあ
と反省させられつつ
でも
中域がんがんで
いくのだろうなあ
と
半ばあきらめつつ
しかしそのスペシャリストになってやろう
とも思いつつ
やはり結論としては
説教を聴く礼拝が必要だ
と思うのでした
青年みなさん
この調子で
チームとして
隣人性
共同体性
を
ばりばり養って欲しいと願います
キリストとは
つまり
そういうことなんだろうと思います
本日は
大感謝
なにしろすばらしかったです
なにがちがうんだろう
と考えてみて
これかなあと思ったのは
チーム
ということでした
つまり
当教会のテーマのひとつは
チーム
のようです
ただ個人個人が
役割をこなす
というところから
解放される
時が来たようです
チームとして
祈り対話し準備する
時が来たようです
根本を探れば
他者と共に
教会家族として
という事柄の
具体化
が起こり始めているようです
やったね
で
わたしは声を大にして言いたいのですが
牧師もまた
説教を語るだけでなく
聞かねばなりません
先週は渡邉さん
今週は南部さん
の説教を
わたしは聞くことがゆるされるという
礼拝に恵まれましたが
よかったあ!!!!
説教を
神の言葉の宣言を
聞く機会は
牧師も間違いなく必要です
月に一回くらいは
聞きたいなあ
二人牧師がいたら
そういうのができるのかなあ
とも考えつつ・・・
ひとり牧師でも
牧師が牧師となるためには
年に何回かは
牧師が説教を聴くことのできる礼拝をつくる
ということも
とても大事だと思いました
で
南部さんの説教がとてもよかった
先週の渡邉さんもそうでしたが
そっとやちょっとの牧師が話せる内容でない
という説教を
しておりました
わたしたちにとってガリラヤとは?
それは弱く貧しく矛盾に満ちた
関係によるところの場
という結論は
泣きそうになりました
実はわたしも
ガリラヤをテーマにした説教は
二度ほどしておりますが
たぶん
わたしでは伝わらなかったけど
南部さんで相当に教会全体に響いたなあ
と思いました
感謝感謝
南部さんの説教でいいなあと思ったのは
丁寧な文字の言語が
丁寧に朗読のように語られたこと
体の隅々まで丁寧に染み渡る言葉でした
わたしは
その逆で
音の言葉でしか語ることができず
もっというと
音楽の言葉で語るので
ときどき打楽器のような言葉を発したりもして
実は一ヶ月前くらいに
とある敬愛する姉妹から
そういう言葉があんまり好きでない
と指摘もされていまして・・・
「聖書教育」
を執筆した時も
打楽器的言葉の変更を余儀なくされたこともあり
文字の言葉って
やっぱいいなあ
と思いつつ
でもわたしは
音の言葉しか使えないわけです
渡邉さんは
両方使っていました
また
音域的に説教を見てみると
渡邉さんは
中低域がしっかりとでてくる安定した説教で
南部さんは
広域から低域までが滑らかにさわやかにでてくるという説教で
わたしは
中域のみどかんとでてくるような説教で
なんだか
わたしの説教はこれでいいのかなあ
と反省させられつつ
でも
中域がんがんで
いくのだろうなあ
と
半ばあきらめつつ
しかしそのスペシャリストになってやろう
とも思いつつ
やはり結論としては
説教を聴く礼拝が必要だ
と思うのでした
青年みなさん
この調子で
チームとして
隣人性
共同体性
を
ばりばり養って欲しいと願います
キリストとは
つまり
そういうことなんだろうと思います
本日は
大感謝