きぼう屋

生きているから生きている

逆説

2008年06月26日 | 「生きる」こと
今日明日と
我が家のすぐ近くの京都御所の迎賓館で
サミットの外相会議がおこなわれるので

警察官がたくさんいます



彼らですが
なんというか
純粋で素直で正義感があって
懸命に働いてくれている
という印象を受けます

旅行者に道を尋ねられたら
京都の警察官ではないのに
(全国から集まってきています)
地図を開いていっしょに探しています

それが外国人で
外国の言葉で話しかけられても
身振り手振りで懸命に対応しています

でも

彼らの上司たちが
そういう純粋さで職務を担っているかというと

そうでないことがあまりに多いことは
もはやだれもが知っているわけです

悪しき宗教性を見ます

三角形の階級性で
底辺の人はきわめて純粋素朴で
言い方を変えるなら
信じやすく騙されやすいわけですが

三角形の頂点の人は
その純粋さを利用するという
そういう性質です

だから
これはキリスト教会がやっていたことだし
今でも多くはないけども
でも決して少なくない教会が
こうなっていることでしょうし

反省させられます


ならば

こういう悪しき宗教性から解放されるために

わたしたちはどういう部分を大切にしたらいいのだろう
という問いは大事でして

わたしは
わたしたちがかかえる
矛盾
ねじれ

といったものを
丁寧にみつめていくことだろうと思います

わたしたちの語ることばは
矛盾とねじれと罪にまみれたものであって
しかし
そういうなかで
復活による十字架
救いによる罪
愛による矛盾とねじれ
などを
超越的にいただくという

だから
逆説
となるという

そういうものだろうと思います

もし順説のみ言葉だったら
まるでQ&Aみたいだったら
成功事例のみの言葉だったら
方法論のみの言葉だったら
それは悪しき宗教性に縛られているものであることを

よーくよーく知らねばならないのだろう
と思います



悪しき宗教性は
人や金を集めやすく
大きな運動を起こしやすいから

人を興奮させやすく
勘違いさせやすいので

ほんと
要注意です


たとえば
純粋な見張りをせねばならない
いわゆる底辺の警察官が
実はいまサミットに来たえらい人を護るということで
戦争に向かう世界をつくるための
最前線にいることにもなっている
ということは

悪しき宗教性という壁によって
隠されるのだろうと思います


教会が
同じことにならないよう
祈ります