きぼう屋

生きているから生きている

具体的

2008年06月30日 | 教会のこと
昨日の週報巻頭言です。

まずはお読みいただくことにしまして・・・

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「具体的な生き様を求めて」

先週わたしたちは二つの研修会を持ちました。

そこでは、
具体的な世界で
具体的に生命を受ける私たちが、
具体的なキリストと共に
具体的に生きるとは何か?

が分かち合われたと思いました。

また研修会にむけて、
この間の
私の説教や週報巻頭言も、
具体的な生き様の選び取りについて
語るものとなりました。

だから
ある意味しんどい期間だったかもしれません。
つまり私たちは、
話が具体的になると、
自分の行為と責任について無視できなくなり、
厳しさやしんどさを覚え、
時にそこから離れたくなるものです。

そういう場面において
厳しさやしんどさからの道が
私は大きく見るとふたつあると思います。

まず一つ目は、
具体的なこと、
つまり自分が行為し、かかわり、応答するからこその
責任ときびしさとは
括弧に入れ、
抽象的な気分のいいイメージに逃げる道です。

もう一つは、
具体的な行為と責任は、
自分のみでなく、
キリストが共に担い、
また彼が全面的に引き受けることをも信じる中で
十字架を体感する道です。

これは、
前者が、快・不快が基準となり、
後者が、善・悪が基準となっている
とも言えましょう。

そしてもし
教会が快・不快で物事を選び取ると、
もはやキリストのいる場所がなくなるということでもあります。

私たちは、
祈り、聖書を頂くなかで、
善・悪という、具体的な生き様(倫理)における
見極めと決断が問われています。

ただその場合
「善人はひとりもいない」という前提にあって、
善なるキリストに従う具体的な生き様とは何か、
が問われることのみ!
残ります。

わたしが善!となると、
こわい思想となり、
戦争にもつながります。

今回の研修会のような
具体的な行為と責任が問われる事柄は、
善人でない者が善を決断する
という
私たちには本来不可能な選び取りを示されるため、
気分的には敬遠したくもなりますが、
しかしだからこそ、
キリストが共にいることを信じ、
ゆえに決断できることを
共に覚えたいと願います。

そして、
この具体的なひとつひとつが
人と教会と世界とをかたちづくります。

だから、
この具体的決断は、
ずばり!恵みです。


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バプテストの信徒というテーマで
とりわけスチュワードシップを分かち合ってきたので
正直しんどいわけですが
しかし
具体的な事柄なしには
何もはじまらないから



バプテストは
そういうことを死守してきた群れでもあり
がんばって
分かち合いました

なんでしんどいのか
ということを
ひとつは巻頭言で書きましたが

もうひとつとしては
神を語りたいけれども
スチュワードシップという場面では
人間を語ることがより多くなるし
もしかしたら
ここで神を語るというのは
実はかなり危険なことでもあって
つまり
スチュワードシップとか
信徒論というのは
人間による神利用になる危険性の高いテーマなので

ここでは逆に
徹底して人間を語るから

だから
しんどいのだろうなあ
と思いました

京都教会の
みなさま
お疲れ様でした




この週報巻頭言ですが
10倍かけて書かねばならないことを
これだけで書いているので
はっきりいってめちゃめちゃですが
(正直作文としては失格でありますが)

本文よりはるかに多い行間を
読んでいただければと願います。

ゴッドからキリストへ

2008年06月30日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教がたいへんよかった
ことは
もう書きましたが

実は
信仰告白もありまして
これもよかった

どちらも

キリスト
が宣言され
告白されていました

キリストの体なる教会
キリストの体なるガリラヤ

が語られていて

ふたりとも

それは弱さであり矛盾でありうんぬん

と語ってくださり

その語りは
単に原理を語っているのではなくて
全身全霊で
絞り出すように語ってくれているから

まさに
キリストの十字架の出来事
なのだと
感謝するわけです


一方で
当教会はずっと

キリストではなく
どちらかというと
ゴッドのみが語られていました


聖霊だろうとイエスだろうとキリストだろうと
すべて
創造の範疇で
自分の存在との関係のみで
語り切れてしまうという

だから
聖霊でもイエスでもキリストでも
ゴッドの創造の一部で終わるという

そういうものが語られていました

それはつまり
十字架と復活と終末の希望
は語られず

出会い
交わり
キリストの体
具体的教会

が二の次にもならず
参の次四の次
になるというものです




しかし

いまは

見事にそのあたりが
二重構造になっています

つまり
キリストの体に生きるという情熱と
それが参の次四の次になるというぬるさが

それぞれくっきりしていると思います

まじめに聖書に向き合い
祈り
礼拝する教会なら
必ず通る道です




当教会の歴史からして
これから

キリストの体を死守しようとしてくれる人が増えているからこそ

その温度差のなかから
いろんな
一筋縄ではいかないことが
起こるだろうなあと
予想します


創造のみを
つまり言い方を変えると
自然性のみを受けているなら

そののちに
十字架を受ける時は
まさに
十字架を受けるから

一筋縄ではいかないわけです


当教会は

十字架を経験するだろうなあ

つまり
予想するわけです

しかし
知らねばならないのは
復活をも受けるし
希望にもあふれている
ということです

なぜなら
キリストの体であり
それを死守するから・・・


昨日の説教と信仰告白は
そういうことが起こったときの
道しるべになるだろうと思いました

やはり

感謝感謝