きぼう屋

生きているから生きている

只中にある者としての「わたし」

2008年06月22日 | 教会のこと
書きたいことがありすぎます

第五子のこと
炊き出しのこと
奏楽者研修会のこと
特別研修会のこと
礼拝のこと

でも
本日は書く元気が残っていないので

本日の週報の巻頭言で
ごまかします
すみません


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「只中にある者としての『わたし』」

本日は、
恵泉バプテスト教会のメンバーで
日本バプテスト連盟理事長でもある
渡邉亶さんを迎えて
研修会のときを持ちます。

テーマは「バプテストの信徒」です。

祈りつつ期待しつつ参加したく願います。

また本日は同時に、
当教会の創立を記念します。
1952年6月24日に教会組織し、
今年は56年目の歩みを迎えます。
キリストの歴史に参与できる喜びを
益々分かち合いたいと願います。

さらに6月23日の
沖縄地上戦終結の日に最も近い主の日を、
「命(ぬち)どぅ宝の日」として覚えることを、
連盟全国女性会は決めました。

私たち日本バプテスト連盟は、
沖縄を国外と位置づけ排斥した歴史の
罪を告白しています。
それは同時に、
沖縄が敗戦後抱える
地上戦の傷痕や米軍基地問題を、
私たちも一緒に担い祈ることの決意です。
ぜひ共に覚えましょう。

また次週は、青年会主催の礼拝です。
説教は、同志社大学大学院で神学を学ぶNさんが担われます。
こちらも
祈りつつ期待しつつ
参加したく願います。

さて、
これら京都教会で起こされる出来事には
共通点があります。

それは、
「わたし」が
キリストにより
時間空間のあらゆる事柄とつながるゆえに、
あらゆる事柄の只中にある!
ということです。

そしてこれこそ
「バプテスト」の精神の根幹です。

キリストゆえに!
教会の交わりの只中にある「わたし」。
教会の過去、また将来の出来事の只中にある「わたし」。
沖縄の過去、現在、未来の出来事の只中にある「わたし」。
地上戦で命が殺されていく現場の只中にある「わたし」。
礼拝を準備する青年会の只中にある「わたし」。
説教者の渡邉兄、N姉の祈りと準備の只中にある「わたし」。
第三者でなく、
斜に構えることも距離をおくことも必要なく、
その出来事ごとの只中にいる「わたし」。
人間の思惟的には、
出来事の只中にあることは不可能といわれても、
キリストと共なることを信じるゆえに、
キリストと共に
只中でかかわることが赦される!
という一点で、
只中に向かう「わたし」。

これを私たちバプテストは
「主体性」
と呼び、

生における大切なスタイルとして受け継いでいます。

ぜひ共に只中に!!