きぼう屋

生きているから生きている

祈り

2008年06月15日 | 「生きる」こと
夜中に
無言電話が複数回あって

経験上
同じ人が何度も
ということではなさそうで

なんか心配で
眠れないでいます

だから起きて祈っているわけですが

実は何人か心配している人がいます

いつも公衆電話から
苗字のみ名乗って
電話をくれていた方がいましたが
この間電話がなく・・・
祈っています

ざんげを
ということで教会を訪れてくれた方も
精神がぎりぎりだったから・・・
その後連絡がありませんが・・・
祈っています

一時期礼拝に来られていて・・・
だいぶしんどい生活をされていて・・・
でももう数年礼拝に見えていないけど
ときどき遠くから教会を見ている方がいて
声を掛けたいと思ってそちらに向かうと
消えるようにいなくなって・・・
祈っています

何度か礼拝に来られて
しかしいろいろあって・・・
でもその後
拘置所から解放され
真っ先に教会を訪れてくれて・・・
でもその後まったく連絡がとれず・・・
祈っています

なお
ひとつの身体として
みんなが
重荷を背負いあえるよう
祈って祈って祈ります

また
クリスチャンだけど
教会の交わりという
キリストの体へはかかわらないということを
とても積極的に肯定的に思考してしまう精神状況になってしまうとき
あるいは
かかわることができない状況になったとき
でも平然とその状況で大丈夫という精神状況になってしまうとき
その精神状況からの解放のために
なにしろ祈って祈ってやみません

キリストから
もっとも離れてしまう形態だから・・・


もうちょっと普遍化すると

かかわること
やること

積極的にエネルギーを用いる
のではなく

かかわらないこと
やらないこと

なにしろあらゆる思考と経験をつぎ込んで
肯定することに
びっくりするほど積極的に
エネルギーをつぎ込む

という精神状況に対して

キリストが
壊しつつこじ開けつつ
かかわり続けてくれることを

真剣に激しく祈ります


祈ります