きぼう屋

生きているから生きている

空想なる現実

2008年06月12日 | 「生きる」こと
憐くん
今日ペスタ楽しかった?

うん!

なにしたの?

きょーとタワーいった!

え?なんて?

きょぉぉとタぁぁワぁぁーいったあ!!!!!!

ぁ、そうぉぉぉ


みたいな会話をしたわけですが

憐くんは京都タワーに行ったそうです
といっても
なんか京都タワーに行く遠足があったとかいうのでもなく
急に連れて行ってくれたというわけでもなく
つまり実際には
行っていないわけですが

しかし!!!

憐くんは京都タワーにいったのです

実際には行っていないけど
現実としては行ったのです


空想という現実において
行ったわけです

空想は現実です
空想は嘘ではありません

空想は
生命にとって
人格にとって
歴史にとって
現実として豊かに働きます

嘘は
まったく現実になりえませんし
豊かに働くこともありません
悪を働きはします


フランクルは強制収容所で
空想の現実を生きることで
生かされたことを証言します

そんな証言は何億とあります

虐待を受けてきた子どもたちが
どれだけ空想という現実に救われたか

誰でも幼少期の記憶を丁寧に想起するなら

あのころ幾度となく空想に救われたことを

それから20年、30年、40年
とたったいまだからこそ
しっかりと認識できるのだと思います


空想は終末論的希望です


だから

この手の話を子どもがするとき

つまり
きょぉぉとたぁぁわぁぁー行った!!!
という話をするとき

それを
嘘!
と一蹴したら
ほんとにいけないのです

そんなことしたら
こどもも
そういうことするおとなも
ほんとにやばくなります


終末論的希望は

にとってもっとも大事なものだからです


憐くんはきょう
京都タワーに行きました



だから
じつはわたし

ビデオという記録が好きではありません
芸術は好きですが
記録はあんまり好きではありません

というのは
そこに
空想という終末論的希望が入り込むことが
なかなかできないからです

しかし
写真はOKです。

写真は10年後20年後に見るときに
その写真と一緒に
当時の空想という現実も
一緒に沸きあがってくるからです


空想は
すごいのです

若干名だったら

2008年06月12日 | 「生きる」こと
久しぶりに教会を訪れてくれた方がいて
ちょうど昼時だったから
いっしょに食事に行きました

体調もなんとかそういうところまで回復してきています



こんな時に連れていくところの蕎麦屋があります
赴任してきた10年前は、なにしろ抜群においしかったです
こんな書き方をすると
今はどうか
ということですが
実はだんだん味が落ちてきたなあ
とは正直思っていたところです

そして本日久しぶりに行きました

味がもはや変わっていました
食材もかなり古いのが使われていました

一番の違いは
おかみさんがいませんでした
だんなひとりでやっていました

10年という歳月は
それくらいの変化を十分に起こしてしまう時間でもあります

たぶんいろいろとあったのだろうと思います
それもたぶん悲しいことのような気がします

こうやって
街はかわるのだなあ

変に胸がキューっとなってしまいます

淋しく悲しく切ないもんです



ふと教会のことも思いました

教会が
たとえば牧師ひとりで
あるいは牧師夫婦で
あるいは牧師と若干名の信徒で
やっている場合は
こういう感じで
淋しく悲しく切なくも

10年もあれば

しぼんでしまうこと
変わり果てること

当然起こるのだろう
と・・・


よってたかってみんなで


という出来事がどれほど大事か

肝がびびりつつ命じられておりました

おしまい・・・

言葉

2008年06月12日 | 教会のこと
体調が戻りそうで戻らない
といった感じですが

変な無理をしなければなんとかなる
という感じくらいにはなってきたので

ぼちぼちやっております

ご心配をおかけしておりますが
もうしばらくおかけしてしまいます
すみません


来週は
2月に大迷惑をかけてしまった
同志社高校で
礼拝のおはなしを三つ(各学年)ほどしますが
(2月の時は
日にちを一日間違えてしまい
 礼拝のときに説教者が現れない
 ということをしでかしてしまいました
 でもすぐさま日程をずらしてくれまして
 翌日翌々日におはなしをする機会が与えられました
 本当にすみません)

これを繰り返してはいけないので
昨日は電話やメールでいろいろと確認をしました

そのときに宗教部の方が教えてくれまして
神様っているなあ
と感謝したのですが

くわしくは書けませんが
おおきな困窮を抱えていた学生が
話をきいてくれたあと
困窮を超えるところの
具体的によくわかるかたちでの
変化が与えられたということで

こんなんが具体的に起こされるなら
わたし
今回も全身全霊っていいますか
いのちがけで
学生に向かいたいと
決意しているところです

主イエスが一緒
という端的な事実が
すべてを救い出すことを

学生たちが
身体全体で味わうことができるよう

神さま

言葉を
ください

主イエスが
まさに
問いであり
つまずきであり
変化であり
救いであるところの

言葉を
ください