憐くん
今日ペスタ楽しかった?
うん!
なにしたの?
きょーとタワーいった!
え?なんて?
きょぉぉとタぁぁワぁぁーいったあ!!!!!!
ぁ、そうぉぉぉ
みたいな会話をしたわけですが
憐くんは京都タワーに行ったそうです
といっても
なんか京都タワーに行く遠足があったとかいうのでもなく
急に連れて行ってくれたというわけでもなく
つまり実際には
行っていないわけですが
しかし!!!
憐くんは京都タワーにいったのです
実際には行っていないけど
現実としては行ったのです
空想という現実において
行ったわけです
空想は現実です
空想は嘘ではありません
空想は
生命にとって
人格にとって
歴史にとって
現実として豊かに働きます
嘘は
まったく現実になりえませんし
豊かに働くこともありません
悪を働きはします
フランクルは強制収容所で
空想の現実を生きることで
生かされたことを証言します
そんな証言は何億とあります
虐待を受けてきた子どもたちが
どれだけ空想という現実に救われたか
誰でも幼少期の記憶を丁寧に想起するなら
あのころ幾度となく空想に救われたことを
それから20年、30年、40年
とたったいまだからこそ
しっかりと認識できるのだと思います
空想は終末論的希望です
だから
この手の話を子どもがするとき
つまり
きょぉぉとたぁぁわぁぁー行った!!!
という話をするとき
それを
嘘!
と一蹴したら
ほんとにいけないのです
そんなことしたら
こどもも
そういうことするおとなも
ほんとにやばくなります
終末論的希望は
生
にとってもっとも大事なものだからです
憐くんはきょう
京都タワーに行きました
だから
じつはわたし
ビデオという記録が好きではありません
芸術は好きですが
記録はあんまり好きではありません
というのは
そこに
空想という終末論的希望が入り込むことが
なかなかできないからです
しかし
写真はOKです。
写真は10年後20年後に見るときに
その写真と一緒に
当時の空想という現実も
一緒に沸きあがってくるからです
空想は
すごいのです
今日ペスタ楽しかった?
うん!
なにしたの?
きょーとタワーいった!
え?なんて?
きょぉぉとタぁぁワぁぁーいったあ!!!!!!
ぁ、そうぉぉぉ
みたいな会話をしたわけですが
憐くんは京都タワーに行ったそうです
といっても
なんか京都タワーに行く遠足があったとかいうのでもなく
急に連れて行ってくれたというわけでもなく
つまり実際には
行っていないわけですが
しかし!!!
憐くんは京都タワーにいったのです
実際には行っていないけど
現実としては行ったのです
空想という現実において
行ったわけです
空想は現実です
空想は嘘ではありません
空想は
生命にとって
人格にとって
歴史にとって
現実として豊かに働きます
嘘は
まったく現実になりえませんし
豊かに働くこともありません
悪を働きはします
フランクルは強制収容所で
空想の現実を生きることで
生かされたことを証言します
そんな証言は何億とあります
虐待を受けてきた子どもたちが
どれだけ空想という現実に救われたか
誰でも幼少期の記憶を丁寧に想起するなら
あのころ幾度となく空想に救われたことを
それから20年、30年、40年
とたったいまだからこそ
しっかりと認識できるのだと思います
空想は終末論的希望です
だから
この手の話を子どもがするとき
つまり
きょぉぉとたぁぁわぁぁー行った!!!
という話をするとき
それを
嘘!
と一蹴したら
ほんとにいけないのです
そんなことしたら
こどもも
そういうことするおとなも
ほんとにやばくなります
終末論的希望は
生
にとってもっとも大事なものだからです
憐くんはきょう
京都タワーに行きました
だから
じつはわたし
ビデオという記録が好きではありません
芸術は好きですが
記録はあんまり好きではありません
というのは
そこに
空想という終末論的希望が入り込むことが
なかなかできないからです
しかし
写真はOKです。
写真は10年後20年後に見るときに
その写真と一緒に
当時の空想という現実も
一緒に沸きあがってくるからです
空想は
すごいのです