きぼう屋

生きているから生きている

ゴッドからキリストへ

2008年06月30日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教がたいへんよかった
ことは
もう書きましたが

実は
信仰告白もありまして
これもよかった

どちらも

キリスト
が宣言され
告白されていました

キリストの体なる教会
キリストの体なるガリラヤ

が語られていて

ふたりとも

それは弱さであり矛盾でありうんぬん

と語ってくださり

その語りは
単に原理を語っているのではなくて
全身全霊で
絞り出すように語ってくれているから

まさに
キリストの十字架の出来事
なのだと
感謝するわけです


一方で
当教会はずっと

キリストではなく
どちらかというと
ゴッドのみが語られていました


聖霊だろうとイエスだろうとキリストだろうと
すべて
創造の範疇で
自分の存在との関係のみで
語り切れてしまうという

だから
聖霊でもイエスでもキリストでも
ゴッドの創造の一部で終わるという

そういうものが語られていました

それはつまり
十字架と復活と終末の希望
は語られず

出会い
交わり
キリストの体
具体的教会

が二の次にもならず
参の次四の次
になるというものです




しかし

いまは

見事にそのあたりが
二重構造になっています

つまり
キリストの体に生きるという情熱と
それが参の次四の次になるというぬるさが

それぞれくっきりしていると思います

まじめに聖書に向き合い
祈り
礼拝する教会なら
必ず通る道です




当教会の歴史からして
これから

キリストの体を死守しようとしてくれる人が増えているからこそ

その温度差のなかから
いろんな
一筋縄ではいかないことが
起こるだろうなあと
予想します


創造のみを
つまり言い方を変えると
自然性のみを受けているなら

そののちに
十字架を受ける時は
まさに
十字架を受けるから

一筋縄ではいかないわけです


当教会は

十字架を経験するだろうなあ

つまり
予想するわけです

しかし
知らねばならないのは
復活をも受けるし
希望にもあふれている
ということです

なぜなら
キリストの体であり
それを死守するから・・・


昨日の説教と信仰告白は
そういうことが起こったときの
道しるべになるだろうと思いました

やはり

感謝感謝