世田谷喜多見4丁目はかつて砧村大字喜多見字本村と呼ばれていた地の登戸道と筏道の主要道が交わる辻に「城田家屋敷」はあった。城田家の家歴は墓碑、過去帳などの記録によると初代から4代目までは「平助」という世襲名もち、5代目吉次郎、6代目助次郎、そして現在の戸主で7代目の家系である。城田家の屋号「さかや」を持っておりおそらく2代目平助の時で農業の他に酒屋を商っていたとされる家柄である。「旧城田家住宅主屋」(マップの5番)の建築年代は定かでないが現戸主から4、5代前と推定される。半農半商の酒屋として最も繁栄した二代目平助の時、弘化3年(1846)以前と推定される。寄棟造、茅葺 桁行6.5間(12.0m)、梁間5間(9.2m)、喰違い四ッ間型で、ドマ(ミセ)の外、ザシキ、ナンド、ドマ、ヒロマ、ダイドコロの四室から構成された食い違い四つ間取り呼ばれる間取りは形式で一般農家の造りとは異なる。これは半農半商の酒屋であったことによる。ドマに広く張り出した板床や厨子二階などの店造りが特徴で、店舗を併用した江戸時代の古民家の特徴といえる。現在は園内の売店として活用中である。復元年は昭和63年、昭和60年区の文化財指定。(2108)







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