まほろば街道散策[5]
中田の観音さまの弘安寺を訪れてみました
参道の通りから見える仁王門です
参道前のお休み所「つるや旅館」です。名物は「会津ぼうたらの甘煮」なんですね
仁王門にはどこでも大きなわらじが掲げられています。「こんな大きな草鞋をはく仁王様がいるのだぞ!」と威嚇して悪霊や疫病神を退治するのが目的、などという人もいますけどどうなんでしょうか?・・ほんとのことを知りたいです。
仁王様のお姿です。よからぬ心の者は通るべからずと睨みを効かしていらっしゃるんですね。狭い仁王門の格子の隙間からカメラのレンズをのぞかせて撮りました。ストロボは使えません。薄暗い自然光なんですけどオートでシャッターを切りました。今のカメラはよくできています。カメラぶれもありませんししっかりと撮れていて驚きました。
仁王門を入るとすぐの右側に弁天堂が鞘堂に納まっていました。国の重要文化財に指定されていると掲示されていました。
この建物はもとは観音堂内で十一面観音像を祀ってあった厨子であったのが寛永19年(1642)頃観音堂が修理されたおりに堂外に出され弁天堂に改められたと解説にありました。
お若い姿の熟年のご夫婦が弁天堂にお参りなさっていらしゃいました。はるばると千葉県袖が浦からお出でになられたとのことです。心温まるお姿でした。
弘安寺観音堂です。野口英世が帰国したおり母シカと小林先生と3人でお参りした写真はよく見かけます。母シカは中田の観音様を信仰して毎月17日には、はるばると猪苗代から歩いてお出でになり一晩観音堂におこもりして英世の無事を祈ったと伝えられています。
御本尊の十一面観音立像と、脇時の地蔵菩薩立像・不動明王立像は国の重要文化財に指定されていると解説板にありました。
中田の十一面観音様の縁起「江川の長者伝説」によりますと、
鎌倉時代寒川村(現佐布川)の長者江川常俊の娘の常子姫が17歳になった春乳母を連れて雀林の法用寺に参詣し、終わって満開の美しい虎の尾桜を眺めていると根岸の地頭富塚伊賀守の若殿盛勝の参拝する姿のにおうような美しさに一目惚れしてしまいました。しかし深窓の若い姫のこと誰にも打ち明け相談することも出来ず悩みの果てに食事ものどを通らなくなり、ついには床に伏してしまいました。両親の長者は医師よ祈祷師よと手をつくしましたがかなわずついにはみまかってしまいました。
両親は子の菩提を弔うために、姫に似せた観音像と脇侍を遠くの地で鋳造して寒川の地に運ぼうとして根岸の盛勝の舘近くを通ると観音像を運んでいた牛車はぴたりと止まって動かなくなりました。両親はこれは娘がここにとどまりたいと思っているからと思い観音堂を立てて安置しました。このことを知った富塚盛勝は下野の国から高僧を招き伽藍を造営して弘安寺とし20年の間姫の霊を慰め続け正安元年(1229)46歳で没しました。
哀れな姫と若殿の悲恋の物語です。
中田の観音様を訪れたのは12月22日の寒い日でした。ところが弘安寺境内に可憐な美しい桜が咲いていました。驚いてしまいました。まさか悲恋の姫の咲かせている桜ではありませんよね。でも私はそう思ってシャッターをきりました。寒の桜は美しかったんです。