さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

いくさとはほんとにむなしく悲しく哀れです。

2015-12-12 | 日記
まほろば街道散策の[3]

 
まほろば街道を南にドライブして勝方寺(しょうほうじ)の山門の前までくると



 
こんな案内板が目に入りました。



 
私の心を強くとらえる案内板でした。



 慶応4年(1868)の会津戊辰の役で家老西郷頼母邸では女と子ども21名が車座になって覚悟の自刃をして果てたたことは知っていましたけど、若松城下を遠く西に離れた勝方寺(しょうほうじ)裏の山中で町野家と南摩家の家族が自刃したことなど私は知りませんでした。

 私の心にじ~んと迫るものがあって勝方寺裏300mnの自刃の地を訪ねて見ることにしました。勝方寺の裏の急な斜面は広い墓地になっていて寺から200mほど登った場所からの会津平の遠望です。



 158年ほど前の墓地はこんなに豪華な墓地ではなくて石碑も小さくて見晴らしがよく空気も澄んでいたでしょうからはるかに鶴ガ城も望むことが出来たと思います。でも自刃の地らしい場所はここでは見当たりませんでした。

 なお50mほど登ると薄暗く広い杉の林の前に墓地の最後の石碑がありました。静かで心鎮まる場所でした。墓地の左には杉の林に入る細い急な道があって白い案内板が見えました。



細い急な坂道が杉の林の中に40mほど続いていて白いプレートに「殉難の地」とあって矢印が着いていました.


 細く急な杉林の中の道を登った右側の暗い林の中に狭いけどちょっとした平らが場所があって町野家・南摩毛家族殉難の碑があリました。





 三歳から八歳までの子供を含めて8名の両家の家族の方が寺から300mも山の道を登った暗い杉の林の中で自刃されたんですね。その悲しく凄惨な時を思い胸がいっぱいになって涙が浮かぶのを止めることはできませんでした。しばらくの間佇立してやがて深く深く合掌して山を降りました。

 家に帰ってネットで町野家と南摩家の殉難の様子を調べてみました。

 西軍が(会津で新政府軍をそう呼びます)若松城下に近づき、武家は急いで城に入るよう早鐘がなると、町野家と南摩家では主人と男子を城内に送り込むと、子供連れの女の家族は足手まといになるのを恐れて従僕を連れて会津西部の山沿いの地に非難しました。しかし村々の家では西軍の咎めを恐れて留めてくれる家は一軒もなくあき寺やお堂に宿泊しながらさまよっていましたがようやく勝方寺に宿をえることが出来ました。しばらくすると落城と町野主水の戦死の報(誤報)がはいり両家は自刃を決意して勝方寺の裏山に登り暗い杉林のなかで自刃しました。

 南摩弥左右衛門の母勝子は辛(4歳男)を刺し、寿(8歳男)を刺そうとすると寿は祖母の手にかかって死ぬるより敵と戦って死にたいというのをようやくなだめて刺し自分も自刃しました。

 町野おきと(町野主水の母)は源太郎(3歳)を刺したが7歳の女の子の「おなお」は怖がって泣くので戦死された父上の霊に祈りましょうというと殊勝に手を合わせて城に向かって正座して祈りました。そのとき従僕は泪ながらに刀で介錯しました。

 悲しくむごく凄惨な家族自刃の様子が従僕のよって伝えられていたんですね。

 いくさとは本当にはむなしく悲しく哀れなものなんですね。
 昔も今もあるいは未来も人間の世界からいくさはなくならないんでしょうか。日本の今は幸いに平和ですけど。世界のあちこちではテロと無人機での爆撃などで互いに殺戮しあっています。自分の信仰のために、あるいは自分の信ずる正義のためにと殺戮をしあい戦っています。人類はいま一国だけで持つ原水爆で全人類を数度殺戮出来ると聞いたことがあります。平和はほんとうに大事なものだと思います。優れた英知と相手を思いやる温かい心でで平和を守らなければならないと私は思います。戊辰の役で会津をせめた西軍も錦の御旗を立てて正義の戦いと思って戦ったんでしょうし。会津藩の武士も自分の国を守り主君のへの忠誠のための正義の戦いと思って戦をしたんだと思います。どちらも正義の戦いと思って戦いをしたんですよね。その結果は悲惨でした。どちらにも深い英知と相手を思いやる温かい心が欠けていたんだと思います。平和を守る深い英知と相手を思いやる温かい心が本当に大事なんだと私はしみじみと思いました。