
遠くに金上の集落が見えて、おいしい生そばの味がが楽しみです。
私達の町にはおいしい生そばを食べさせる所はいっぱいありますね。町営温泉糸桜里の湯では町の腕自慢の蕎麦打ち名人さんがが日替わりでおいしい生そばを打ってくれてますし、そば処水車(くるまや)などでは県外ナンバーの車がたくさんきていると聞いています。 坂下そば処水車をネットで引いてみたら口コミのコメントなどもあって結構名が売れてるんですね。
私にとって時代は変わりました。
私の蕎麦の思い出といえば、蕎麦の種は上畑などではなくて、里山の柴を切り開いて焼いて作る火野(かの、焼き畑)に蒔き、そして秋には家族みんなで稔った蕎麦を刈りとり山の道を背負って家に持ち帰り、乾燥させて蕎麦打ち棒で打って脱穀し唐箕(とうみ、手回しで風を送って穀物などを精選する道具)で精選するのです。
そして冬、深い雪に埋もれた家の囲炉裏端でゆっくりと石臼で蕎麦の実を引いて粉にします。篩い(ふるい)で蕎麦殻を取り除いた粉は精白されていませんから白色ではなくて灰色ですこしざらついています。
その蕎麦粉でつくる料理と言えば「みくるみ」「やきもち」「そばきり」がありました。
みくるみは小さくした蕎麦団子を小豆かゆなどに入れて食べます。やきもちは肉まんのように具に野菜とかあんこを入れた蕎麦まんじゅうをゆでて炭火で焼いて食べます。
蕎麦切りはそれぞれの家の主人が打って切りましたけど、精白されてない蕎麦粉ではつなぎ(やまのいもをすったものなど)を入れなければ打てないようでした。うたれた蕎麦は太くて太さもいろいろ、口に入れると歯ごたえがあって少々ざらつきます。でもそのそばきりでは本当の蕎麦の薫りを味あうことが出来るのです。精白されていませんから薫りがつよくて、こどもなどは嫌ってウサギの肉などの濃い汁をかけて食べていました。
蕎麦の薫りを楽しむ私などはお椀にかつ節入れ少し醤油をたらしお湯を注いだだけの汁をちょっとつけて食べるのが大好きでした。それをもりもりと腹がはち切れそうになるまで食べるのです。決して上品な食べ方ではありませんね。
でも、それが私にとっては本当の蕎麦の食べ方なんです。田舎の蕎麦切りと言うんでしょうね。数年前まではその田舎そば切りを自分で作って、おいしい「やきもち」などと一緒にばばちゃん(家内)の友達のおばさんが送ってくれました。本当に贅沢でおいしい食べ物でした。 でも、残念なことにその田舎蕎麦はもう食べることが出来なくなりました。
糸桜里の湯に行けば、芸術品のように細くきれいに打たれ、のどこしのよい上品でおいしい蕎麦が食べられます。ばばちゃんはおいしいといっていつも楽しそうに食べています。
でも、私はそれは蕎麦きりではないといってかたくなに食べません。私にとって蕎麦は囲炉裏火を囲んで食べる太さの不揃いの太くて舌にざらつくけど、蕎麦の薫りいっぱいの蕎麦をけずりこ醤油に少しつけて食べるのだけが蕎麦なんです。
それをばばちゃんは「融通の利かない頑固爺いの意地っ張り」と笑って相手にせず上品でおいしい糸桜里の湯の生そばを楽しそうに食べています。いいんですよどうせ考えが違うじじとばばなんですから。