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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

3月10日は地獄の記念日

2012-03-05 | 日記
 今日は3月10日です。

 このブログをごらんになっていらっしゃる方の大部分はこの日にどんな意味があるかをご存じないと思います。

 この日は東京の下町一帯が米軍のB29、300機以上の大編隊に爆撃され焦土と化し、劫火に逃げ惑う都民が10万人以上焼き殺された地獄の日です。





 年昭和20年 (1945年)3月11日未明のことでした。

 爆撃は綿密に計画され、最初に爆撃目標の町の周りを爆撃延焼させて都民の逃げ道を断っておいてから集中的に焼夷弾爆撃をして町を焼き尽くしました。逃げ場を失った都民は焦熱地獄の中で10万人以上の方が焼き殺されたのです。

 私は当時18歳、横浜磯子区にある大日本兵器という軍需工場に学徒動員で働いていました。空腹、疲労、寒さ、隣の友人の衣服の襟には絹シラミが入ったり出たりしていました。夜昼2交替の厳しい労働の中で、私たちは毎朝あと1、2年後には戦場で死ぬであろうことを頭に置いて「海ゆかば、みづく屍、山行かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」と斉唱していました。

 歌は、「海の戦で死んで屍を波間に漂わせても、山野の戦いで死んで屍を草の陰で朽ち果てさせても、天皇陛下のおんために戦いぬいて死んで行くことになんのためらいはありません」といゆうような意味だと思います。

 激しい空腹と寒さのなかでの厳しい労働に疲れ果て、2、3年後の将来には必ず死が待っているだろう18歳の私の心は荒廃していました。

 軍需工場の裏山の横穴防空壕の入り口で東京が空襲で燃える真っ赤な空を遠く見ながら、私はその劫火に焼かれる都民の惨状への思いも、ましてや敵B29への激しい敵意もわかず、ただ呆然と、むしろ美しいとさえ思いながら眺めていました。地獄の中にいる若者が東京の劫火の地獄を眺めていたのです。

 学徒動員が軍需工場から北海道の援農作業に変更されて一時帰郷を許されたとき、母は私の衣類全部をたらいに入れて熱湯を注ぎました。シラミの死骸がいっぱいあちこちに赤い色になって浮かび、生み付けられたシラミの卵がぎっしりと銀色に輝きました。
 母は悲鳴を上げました。

 疲れ果て、心の荒廃した私にはシラミなどそんなにかゆく感じなかったのです。

 4月半ば北海道に旅発つ私に父はそっと、でも力強く「この戦争は負ける。でもどんなことがあっても死んではいけない」といいました。

 戦争は集団での殺し合いです。人々は狂気になって心身を荒廃させ殺しあいます。昭和20年(1945)3月から戦いが終わる8月15日までのわずか5ヶ月の間でさえも何十万人もの人が爆撃で、原爆で、飢餓で、特攻で、シベリアの地で・・南の島で・・ 日本の都市で・・敵も味方も死んで行きました。

 まさに戦争は狂気の時代でした。

写真はホームページ「東京大空襲」からおかりしました。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

幼き夢の贈り物

2012-03-05 | 日記
 私の小学校の同級生は5人いました。

 まじめでおとなしいクラキチ君、太か男のテツオ君、優しい温和なスミ子さん。茶目っ気たっぷり明るく元気なイセ子さん、そして一番勉強が出来て秋に咲くキキョウのようなトミエさん、それが私の同級生の全部でした。



 どういういきさつがあったか定かではないんですけど、私はトミエさんと二人だけでトミエさんの集落の大桃へ一緒したことがあるんです。たぶんこんな山狭の道をりょうはしに分かれて二人で黙って歩いていたんだと思います。小学校5年生の夏でした。



 そしてトミエサンのお家に着いて分かれようとすると、「まっていろ」と初めてトミエさんが声をかけてくれました。そして家の裏の畑にいって綺麗な緑のキュウリをとってきて塩の包みと一緒に私に手渡ししてくれました。



 ただ、それだけのことです。でもどういううわけか、いまでもキュウリを見るとそのときの心の暖かさがよみがえって来るのです。