ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

光市三輪に三輪神社と往還道筋の市 

2024年03月27日 | 山口県光市

            
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         三輪は田布施川上流域の丘陵地帯に位置する。地名の由来について地名淵鑑は、「当村
        に三輪大明神があるが、これは神(みわ)氏がその祖先を祀ったものである」という。
         「みわ」とは「神」の古代語で、奈良県の三輪山は大神(おおみわ)神社の神体で、この三
        輪の大神と神氏の流れをひくと考えられている。(歩行約7.1km)

        
         JR岩田駅は、1899(明治32)年に山陽鉄道の駅として開業するが、単式ホームであ
        ったため1番のりば側に駅舎が設置される。1894(昭和39)年電化に伴い、ホームが改
        良されて跨線橋が設置され、1937(昭和12)年に現在の駅舎が改築された。

        
         駅前から三輪地区への旧道を、買い物を済まされた地元の女性とのお話しながら歩く。
        (交差点までは岩田地区)

        
         旧道ということで、見るべき建物があるだろうと思っていたが更新されていた。

        
         旧道の突き当りが県道68号線(光日積線)だが、横断歩道はないが通行量が少ないため
        確認して正面の階段を上がる。

        
         酒屋の看板がある古民家を過ごす。

        
         共栄公園内に荒神社が祀られているが詳細は知り得ず。

        
         再び県道を横断して山道に入る。

        
         1790(寛政2)年建立の鳥居には「講神」という額束があり、1730(享保15)年に奉
        納された灯籠もある。
         「講神」については詳細不明だが、「荒神」「庚申」でもなさそうだし‥。秋葉権現と
        いう山岳宗教と修験道が融合した神仏習合の神がある。火防の霊験があり、近世期に全国
        に分社が勧請され、秋葉講と呼ばれる講社があったというが、この社がそれかどうかはわ
        からない。(隣に忠魂碑)

        
         何かの小屋と思ったら「毘沙門堂集会所」の看板が掲げてある。堂内には総高110.2
        ㎝の毘沙門天が祀られているそうだが、施錠されて内部を見ることはできない。

        
         堂の前には古い地蔵尊が並ぶ。

        
         山を越えると山間に囲まれた田園が広がる。

        
         県道23号線(光上関線)を岩田駅方向へ引き返して里道に入る。正面の山に三輪神社が
        あり、右奥に石城山が聳える。

        
         三輪幼稚園への案内を見て林内に入って行くと、鐘楼門が見え、広場には園児たちが遊
        んでいた。園の方に境内へ入ることの了解を得て山門を潜る。

        
         浄国寺(浄土宗)は、京都知恩院が本山で室町期の天文年間(1532-1555)の開山といわれる。  
        三輪領主の井原大学の菩提所となり、寺領を拝領したという。楼門は入母屋造りの桟瓦葺
        き、本堂は入母屋造り向拝付きの本瓦葺きである。

        
         井原親章(主計)の墓があるというので山内の墓地を探すが見当たらず。(園の人に聞くが
        知らないとのこと)
         井原親章(1816-1866)は、美原に郷校「縮往舎」を創立して広く教育を行う。第二奇兵隊
        の隊士も加わったため手狭となり、隣接の同寺を借りて教育したという。
         「孝子説清先生之墓」が境内にあるが、1859(安政6)年に森山幾之進が自宅に寺小屋
        を開き、広く庶民の子弟の教育を行う。生活は質素で、父母亡き後は社会に恩返しの生涯
        を送る。墓碑は師の遺徳を偲んで、1882(明治15)年に在村の子弟が建立する。

        
         田布施川上流に見える山付近が塩田地区との境のようだ。

        
         水源地を過ごし、金比羅橋を渡って正面の山を目指す。

        
         三輪村道勝間線改修碑(寄付者簿)の先に石仏三体が鎮座する。台座には文字が刻まれて
        いるが、風化してはっきりと読めないが、右には「智法」とある。その隣に石段があるの
        で古道と思われるが、薮化しているため上るのを残念する。

        
         古道を避けて車道を上がる。

        
         途中に鳥居と石灯籠のある場所がある。鳥居の額束に「三輪明神」とあり、建立時期は
        「天明元年(1781)」は読めるが以下は読めない。灯籠には安政三年(1856)丙辰年三月吉祥
        日とある。額束の向きから考えると古道の参道でもあるようだが、鳥居前が広いので気に
        なる場所である。(御旅所?)

        
         車道から分かれて左の階段を上がる。

        
         大きな鳥居には「三輪神社」とあり、昭和15年(1940)建立と刻まれている。

        
         手水鉢から急階段を上がらなければならない。

        
         三輪神社の由来について、神(三輪)一族が大神明神の分霊を奉持して、この地の荘長と
        して下る。最初に分霊を祀ったのは現在の田布施町城南であったという。
         関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二州に移封され、井原家はこの一帯の給領主となり三輪
        明神を祈願所とした。
         その後、井原家は末期養子(世継ぎがないと一家断絶となるため、当主の死に際して急に
        願い出た養子)があったため、三輪明神のある地が召し上げられて領外となる。1762(宝
        暦12)年に現在地へ遷座させて今日に至るという。

        
         境内の左手に高さ1.1mの石塚がある。この石塚は「稲穂塚」と呼ばれ、元文年中(17
        36-1741)には毎年のように村中の稲穂が枯れ無収穫となる。困り果てた村民は、枯れた稲
        穂を1株づつ持ち寄って神社境内に埋め、1740(元文5)年に「五穀成就稲穂塚」を建立
        する。さらに讃岐の金比羅大権現を勧請して祀ると、それ以後は枯穂が出なくなったとい
        う。

        
         片隅に小さな祠があり、「祇園社・荒神社・疫神社」と刻まれた石塚が祀られている。
        側面には「明治40年(1907)12月23日 三輪村上組」とある。

        
         往路を引き返して三輪市へ向かう。

        
         県道に出ると「おっととと あぶないよ 道見鶏」とある。

        
         途次には束荷にある旧伊藤博文邸と紫陽花がデザインされたマンホール蓋だったが、第
        二奇兵隊の隊士がデザインされたマンホール蓋がある。

        
         旧道に入る手前に「辰岩様」とあるが、説明文はないが岩が辰に似ていることによるの
        だろうか。「龍と竜」は読み方が同じ「りゅう」で、神話・伝説の生き物で水を祀る神様
        とされる。
         「辰」は十二支のひとつで、「龍」と「竜」と「辰」は漢字の違いはあっても、どれも
        同じで神話・伝説の生き物である。

        
        
         県道から旧道に入る辺りから三輪市と思っていたが、地元の方に金坂商店付近から東約
        200mが市と呼ばれていると教えていただく。

        
         山陽道の花岡の宿駅から上関宰判に通じる街道の1つとして、目代(代官)と馬4疋を置
        き、藩の公文書の逓送や旅人に対し馬を貸し出していた。
         日用品市は、12,23,28日の3日開かれて三斉の市といわれ、熊毛郡中央部の物
        資集散地として栄えていた。1897(明治30)年山陽鉄道の開通と共に物品市場が衰退す
        る。

        
         1912(明治45)年に村公営家畜市場が開設され、1918(大正7)年からは常設市場に
        発展する。牛馬の取引市は盛況だったが、経済恐慌や日中戦争による経済統制によって、
        村営の牛馬市場は打ち切られる。(市屋敷の町並み) 

        
         当時使われていた共同井戸が残されている。面白い塀だなとみていたら、通りすがりの
        人が、もともとは木が植栽されていたが撤去され、その表面をコンクリート貼りされたと
        教えていただく。

        
        
         稱(称)名院は浄土宗の寺であったが、現在は無住で市集落の方により維持管理されてい
        るとのこと。右手に地蔵尊、左手に市恵比須のようだ。

        
         寺跡付近が三輪と田布施町宿井との境界のようである。

        
         養蚕業が盛んな地で、全盛期の1921(大正10)年頃には村内で全戸の半数にあたる1
        60戸が養蚕を営んでいた。1926(大正15)年には朝日製糸工場も設立される。
         しかし、1932(昭和7)年の世界恐慌により衰退したという。