ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

呉は海軍呉鎮守府があった町

2021年10月04日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         呉は南に倉橋島、西に江田島を望み、域内に二河(にこう)川と堺川が西流し呉港に注入す
        る。
         地名の由来は、低温地を示す地形を「くれ」と呼んだことによるとか、往古には灰ヶ峰
        より桶・船材の榑(くれ)の木が産出されたことによるという説もある。
         さらに海外からの渡来者を呉人と呼んだことなど諸説あり。(徒歩3.4km) 

        
         JR呉駅は、1903(明治36)年海田市と呉間の開業により設置される。1945(昭和
        20)年7月の呉空襲により駅舎が全焼するが、翌年に3代目の地上駅舎が竣工する。19
                81(昭和56)年現在の駅ビルが完成する。

        
         海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)は実物の潜水艦を陸上展示したもので、艦内の士
        官室など構造の一部を見ることができる。(コロナ感染拡大防止対策により入れ替え制のた
        め入館できず)

        
         てつのくじら館と大和ミュージアムは、JR呉駅の改札口を出て連絡通路(ゆめタウン呉
        内を利用)徒歩約5分。

        
         呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」の10分の1模型が展示されている。1941(昭
        和16)年12月に建造され、原寸は全長263m、全幅38.9mで46センチ主砲を搭載
        していた。

        
         1945(昭和20)年4月7日沖縄方面に出撃したが、アメリカ軍機動部隊の攻撃を受け
        て撃沈される。

        
         零戦62型は、1978(昭和53)年に琵琶湖から引き揚げられ、その後、嵐山美術館に
        展示されていたが閉館したため、和歌山県白浜ゼロパークに引き継がれたが、ここも閉館
        したため大和ミュージアムに引き取られたという。
         零戦が採用された1940(昭和15)年は、神武天皇即位紀元(略称。皇紀)2600年に
        あたり、その下2ケタ「00」から「零式」とされた。

        
         特殊潜航挺「海龍」も展示されている。

        
         大和ミュージアムの芝生広場に潜水調査船「しんかい」が展示されている。1968(昭
            和43)年に竣工した戦後初の本格的潜水調査船で、1977(昭和52)年に解役した後、海
        上保安大学校に永い間保存・展示されていたが、2003(平成15)年ここに移設された。
         「しんかい」は潜航深度600m、乗員4名で潜航時間約10時間であった。小松左京
        作の「日本沈没」(1973年公開映画)に登場する潜水艇「わだつみ」のモデルとなった。

        
         桟橋と造船用大型クレーンが並ぶ。

        
         自治体の表示がない呉市のマンホール蓋。

        
         左手に呉教育隊(旧呉海兵団)。

        
         美術館通り(旧海軍病院坂)は赤煉瓦敷の並木道に彫刻が置かれている。右手の旧海軍練
        兵場跡は入船山公園となっている。

        
         赤系塗料で塗られた建物は、旧呉海軍下士官兵集会所(青山クラブ)で、下士官のための
        娯楽室、物品販売所、入港した艦艇乗組員の宿泊場所でもあった。
         隣接する建物は、日露戦争で沈没した軍艦吉野と高砂から吉野の桜と高砂の松より「桜
        松館」と命名されたホールがある。

        
         1890(明治23)年5月から1年8ヶ月、東郷平八郎が呉鎮守府参謀長として住んでい
        た家の離れ。正円寺から公園内に移築されて休憩所として公開されている。(国登録有形文
        化財
)

        
         正面入口より続く坂道の石畳は、1909(明治42)年から1967(昭和42)年までの5
        7年間、呉市内を走っていた電車の敷石が移設されている。

        
         1921(大正10)年旧海軍工廠造機部の屋上に設置され、終戦まで工廠とともに時を刻
        んできた。高さ約10mの塔時計は、現在も時を刻んでおり、電動親子式衝動時計として
        は国産で最古のものといわれている。

        
         番兵塔は長官官舎の警備を目的に設置された。

        
         旧チケット売り場は番兵用の建物だったのだろうか。

        
         1号館(旧火薬庫)は、1902(明治35)年陸軍が音戸に近い休山に建設した高鳥砲台跡
        にあったものが移築された。

        
         1889(明治22)年に呉鎮守府が開庁されると、軍政会議所兼水交社として建てられた
        が、1892(明治25)年司令長官官舎として使用されるようになる。
         1905(明治38)年の芸予地震で崩壊したため再建築されたもので、呉は軍港のた空め
        襲を受けたが、近くに海軍病院があったため難を逃れたという。

        
         応接室はごく簡単に客と話したり、打ち合わせをしたりする部屋であったようだ。

        
         賓客や要人を迎え入れ、食事会ができるスペースもある。

        
         和洋折衷で表側の洋館に対し、裏手の和室部分は質素そのもので、歴代長官と家族が暮
        らした場所である。洋館の玄関に入ると和の部分に築造された庭が一直線に見えたという。

        
         呉市の歴史的資料、旧海軍関係の資料がある歴史民俗資料館。

        
         入船記念館の向かい側に旧呉海軍病院。呉鎮守府が開庁された1889(明治22)年に創
        設され、1945(昭和20)年終戦により英豪軍に接収される。1956(昭和31)年接収解
        除により国立呉病院として発足し、その後、現在の呉医療センターに名称変更する。

        
         1886(明治19)年横須賀、舞鶴、佐世保と呉の軍港に鎮守府が置かれ、参謀部・軍医
        部・主計部・造船部・軍法会議・監獄所などが置かれた。
         呉鎮守府の開庁は1890(明治23)年4月で、1907(明治40)年築の赤煉瓦造洋風建
        築の建物は、海上自衛隊呉地方隊が継承し、現在も同総監部の第1庁舎として使用されて
        いる。 

        
         かっての呉海軍工廠の造船船渠で、戦艦「大和」が建造されたドックの上屋(左側)を眺
        めることができるが、ドックは埋め立てられたとのこと。

        
         呉が鎮守府に選ばれた理由として、深い入江を有し、山々に囲まれているため防御に優
        れていた。当時、呉の名望家で呉への海軍誘致に活躍した澤原為綱の碑が歴史のみえる丘
        に建立されている。
         その他、大和の船橋をかたどった「噫(ああ)戦艦大和塔」や渡辺直己歌碑、正岡子規が
        1895(明治28)年友人の古嶋一雄が従軍記者として出征するのを見送るため、呉を訪れ
        た際に詠んだ句碑がある。

        
         宮原小学校前の陸橋から呉の町並みを眺めて、子規句碑前バス停前よりJR呉駅に戻る。