ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の二見は河口部の海浜集落 

2021年10月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         二見(ふたみ)は西方を響灘に面し、東・西・北の3方は山に囲まれ、その背後の山間を縫
        って流れる二見川流域の河口部に集落がある。
         古代は荒津庄のうちで、二見の語源は海神を称えるふとうみ(太海)であるという(歩行約
        3.2km)

        
         JR長門二見駅は滝部駅まで延伸された1925(大正14)年に開業する。当時、日本海
        岸沿いに敷設される予定であった本線は、地域の要望などで滝部を経由する本線となった
        ため、二見駅周辺でほぼ90度方向転換している。
         このためホームは崖の中腹にあって、駅舎からは地下道を経由でホームに上がるように
        なっている。

        
         駅前から県道長門二見線を滝部方面へ進むと、線路の壁に描かれた上を列車が走り去る。

        
         第1二見川橋梁を潜る。

        
         1875(明治8)年誘稚小学として創立。その後、豊北町立二見小学校と校名変更するが
        下関市に合併すると、2011(平成23)年休校になる。

        
         当初は赤間関街道を歩いて周回する予定であったが、地元の方が河内神社先の集落から
        は人が通行せず、荒れて通れないのではないかとの指摘を受ける。ここは地元の意見に従
        って二見浦に歩を進める。(駅前付近の町並み) 

        
         県道粟野二見線は集落内を通っていたが、集落内を避ける新道が開通していた。

        
         二見川南側の旧道筋。

        
         二見川と山陰本線橋梁。
 
        
        
         福田モータース前を左折して集落道に入るが、他にみられるような民家が並ぶ。
         防長地下(じげ)上申の絵図(1726-1753)には、河口近くに数軒あったことが記されている
        が、本格的に集落として形成されたのは江戸後期とされる。伝えによると、1769(明和
          6)
年頃対馬の漁人が来住したとか、筑前筥崎の漁人が土着したともいう。

        
         道は左折するが、直進すると二見漁港。

        
         山口県漁協二見支店向い側の集会所には、地蔵尊と「山本興市之碑」がある。 

        
         若宮神社の由来によると、創建時期は過去2度の二見集落火災で、文献等が焼失したの
        で正確な時期は不明だが、江戸中期から後期にかけてと推測されている。祭神は仁徳天皇
        とされ、金毘羅社、秋葉社、龍王社、祇園社が合祀されている。

        
         国道との合流地点で見返る。

        
         海岸線より響灘。 

        
         二見川河口部。(国道の橋) 

        
         1933(昭和8)年5月防波堤築造記念碑。

        
         二見漁港は1種漁港。江戸期には長府藩の津出蔵や炭倉が置かれ、林産物や海産物の積
        出が行われたとされる。 

        
         二見川沿いを歩いて駅に戻る。 


下関市豊北町神田上の和久は「鵜」が越冬する壁島がある地 

2021年10月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         和久(わく)は北西に角島と相対し、西は響灘に面し、海岸線に沿って国道191号が走る。
        (歩行約1.8km)

        
         海岸線より角島。(国道191号線に駐車スペースあり) 

        
         壁島は角島方向700m海上にある岩礁で、大瀬、鳥塗瀬、地の瀬、中の瀬などの総称
        であるが、干潮期には1つの島になる。
         この壁島に「鵜」が毎年11月下旬頃から翌年の3月頃まで越冬する。日中は響灘から
        関門海峡にかけて飛行し、夕暮れ迫る頃島に帰って夜を過ごすという。
         「鵜」が大数なので堆積するグアノ(糞が化石化)は膨大な量に達し、かって燐酸肥料に
        使われたこともあるというが、ここからは石灰岩のように白く見える。(国天然記
念物) 

        
         眼下に和久漁港。

        
         国道筋を下関方面へ向かう。

        
         国道筋に神田上村(萩藩領)の大庄屋格であった吉田家(現在は大野酒造場)がある。吉田
        家は酒造業を営み、1864(元治元)年中山忠光卿が泊ったと伝える。

        
         第2種漁港の和久漁港と集落。

        
         北に角島大橋。

        
         お堂を覗くと「えびす神」のようだが詳細不明。

        
         和久の波戸場に高さ150㎝の築堤記念碑。文政8年(1825)庄屋・吉田兵助、浦年寄・
        中野謙造とあり、3面に世話人多数の名前あり。

        
         海岸から国道への道。

        
         和久集落は国道で海側と山側に分かれている。

        
         善光寺(真宗)は防長寺社由来によると、当寺の開基は宗流という人で、天正3乙亥(15
75)
        の年に一宇を建立する。天台宗であったが浄土真宗に改宗された。

        
         山門近くの五輪塔は、下方の地輪から空輪までの高さ1.98mで、銘文はないが手法か
        ら鎌倉後期のものとされる。
         しかし、水輪・火輪に対して地・風・空輪の大きさがやや不釣合であり、3つぐらいの
        五輪塔の寄せ集めではないかといわれている。この五輪塔は神功皇后社にあったものを後
                年に移転したとされる。

        
        
         この筋が赤間関街道。 

        
         照蓮寺(真宗)は大内義隆の家臣だった俗姓・岡村豊後守広次が、戦国の群雄割拠の争い
        に深く憂い、西本願寺10世に帰依した。創建は室町期の1533(天文2)年とされるが、
        その後、火災に遭うなどして古文書を焼失している。

        
         寺前から海岸線に出ると駐車地。