ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

呉市豊町の御手洗は潮待ち風待ちだった港町

2021年10月05日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         御手洗(みたらい)は大崎下島の東端部に位置する。北東海上数百メートルには御手洗の地
        を囲む形で岡村島(愛媛県)が横たわり、好錨地となっている。
         地名の由来は、神功皇后が三韓出兵の際、当地に船を繫留して手を洗われた説と、菅原
        道真が大宰府へ左遷される際、この地に船を着け、天神山の麓で手を洗い天地神祇に祈っ
        たことによるという説がある。(歩行約2km)

        
         JR呉駅前からさんようバス御手洗行きのとびしまライナーがあるが、帰路、三之瀬に
        立ち寄るため車で訪れる。御手洗の見学可能な施設は火曜日が一斉休館のようで、無料駐
        車場を利用する。

        
         観光案内所の裏にある弁天社だが、由緒書きが薄れて読めないが宗像大社から勧請した
        とある。

        
         弁天社入口に大きな石柱。

        
         無料駐車場近くに観光案内所。 

        
         江戸期の町家だそうだ。

        
         金崎家住宅は切妻造・平入り本瓦葺き。建築年代は不明だそうだが、畳の敷かれた部屋
        が奥の一間だけで他は板の間である。(重伝建を考える会より)

        
         常盤町通りは1666(寛文6)年に成立した町の中心地。

        
         旧柴屋住宅は町年寄役であった高橋家(柴屋)の別宅で、1806(文化3)年伊能忠敬が大
        崎島を測量した時に滞在する。

        
         小西家住宅は入母屋造妻入り本瓦葺き。建築年代は建物の形式から文政年間(1818-1830)
        と推測される。(考える会より)

        
        
         御手洗は江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされてきた。潮待ち館、北川家住
        宅、能地家住宅と並ぶ。

        
         常盤町通りの東入口に洒落た洋館の平野理容店。

        
        
         郵便局の先に新光時計店(昭和初期に松浦時計店から改名)。建物は大正期に建てられた
        ようだが、シンボルである懐中時計を模した木製の赤いフレームが町並みに溶け込む。
         右端に外から見える作業スペースがあるが、見学者のためではなく、自然光が作業に適
        しているので道路側に設けてあるとのこと。

               
        
         乙女座は1937(昭和12)年、当時の御手洗町長が町民の文化向上を目的に私財を投じ
        て建てられた劇場。1965(昭和40)年までは映画館として使用されたが、映画の斜陽と
        ともにみかん選果場となり、しばらくは空家だったそうだが、2002(平成14)年建設当
        時の姿に復元される。(休館のため内部は2008年撮影)

        
         元薩摩藩船宿・脇屋家住宅の建築年代は、形式からみて文政年間(1818-1830)と推測され
        る。

                 
        
         「越智醫院」の看板が目を引く大正期の建物は、薄いブルーの色合いと洋風な建物で大
        正ロマンが漂う。

        
        
         町庄屋・多田家(竹原屋)の屋敷跡。1863(文久3)年8月18日の政変で、三条実美ら
        七卿は長州に落ち延びる。翌年、長州軍が京に進軍したとき、実美たち五卿も入京しよう
        としたが、長州軍は蛤御門の戦いで敗北する。五卿は長州の敗北を知り、途中の多度津で
        引き返し、7月22日から2夜をこの屋敷で過ごす。

        
         恵比須神社は、1707(宝永4)年航海安全と商売繁栄の神として豊前国小倉から勧請さ
        れたという。御手洗で最も古い社で、現在の本殿は1739(元文4)年に建て替えられた。

        
         鳥居の先に小島、その先に愛媛県今治市の岡村島を結ぶ2つの架橋。

        
         恵比須神社の海側に建つ建物は詳細不明。

        
         鞆田家は廻船問屋「鞆幸」を営んでいたが、明治初期頃に建てられた建物になまこ壁が
        見られる。

        
         鞆田家の擬洋風二階建て建物は、大正から昭和にかけて迎賓館的な役割を担ったという。
        普段は中を見ることができないが野口雨情が長期滞在したという。

        
         大東寺は御手洗にあった「登光寺」と「隆法寺」という2つの真宗寺院が、1942(昭
        和17)年に合併した際、時の大東亜戦争に因んで寺号としたという。

        
         昭和初期まで旅館「新豊(しんとよ)」を引き継ぎ、1日1組限定の宿「閑月庵新豊」と、      
        船宿の内部をリフォームした食事処「なごみ亭」。 

        
         船宿風の建物。

        
         この建物(旧村井、旧木村、北川家住宅)の建築年代は文政年間(1818-1830)頃と推測さ
        れ、真ん中に位置するのが旧木村家で、屋号を「若本屋」といい、宇和島藩・大洲藩指定
        の船宿であった。

        
         1832(天保3)年庄屋・金子忠左衛門が寄進した灯明台(高灯籠)で、設置時には千砂子
        波止(ちさごはと)の突端にあった。

        
         波止の付け根に当たる造成地に、1830(文政13)年大坂の豪商・鴻池などが寄進して
        波止鎮守の住吉神社が建立された。

        
         19世紀以降瀬戸内海の港と競合し始め、御手洗の繁栄を取り戻すために、外港側への
        波止の築造は、御手洗にとって画期的な事業であった。藩府の事業として1828(文政1
        1)年5月に取り掛かり、1年を費やして全長120mの波止が完成する。

        
         ピンクの洋館は元医院だったとか。

        
        
         幼・小・中学校があった地で、のち中学校は豊中学校に統合され、小学校も1973(昭
        和48)年に統合されて廃校となったが、半世紀近くになる今も敷地はそのまま残されてい
        る。

        
         校舎の
あった石段を上がると、「志士・星野文平碑」がある。御手洗出身の星野文平(1
        835-1863)は英才の誉れ高く、広島藩学問所の教授となる。
         尊皇攘夷思想に影響を受け、維新の志士として京都に上り、広島藩の蒸気船購入交渉の
        ため伏見にいた勝海舟に会いに行く途中、かって切腹した傷口が悪化して1863(文久3)
        年客死する。(享年29歳)

        
         満舟寺の石垣は、戦国期の築城術である「乱れ築き」と呼ばれる石積みだそうだ。地元
        の伝承では豊臣秀吉の四国攻めの際、前線基地として加藤清正が築いたという。
         他説では伊予国守護河野氏に属していた来島村上氏が、御手洗にある「海関」の警護に
        あたっていたとあり。その水軍の城跡ではないかとされている。

        
         満舟寺の縁起によると、平清盛が庵を結び十一面観音を安置したとされるが、江戸期に
        観音堂が建立され、徐々に鐘楼や庫裡などが整えられたという。

        
               向かって右側の亀趺墓は、耳がついた獣のような頭を高く持ち上げているが、「贔屓(ひ 
                    き)
」で、重きを負うことを好む亀に似た形状の霊獣とされている。左側の墓は首が欠けて
        いるため判別できないが、こちらの墓の主である「大森捜月」は、御手洗出身の江戸中期
        の画家で、養父大森捜雲から狩野派の画法を学んだという。


        
         荒神社には1712(正徳2)年と1724(享保9)年の棟札があるとのこと。

        
         北川醤油は、かって「北喜」の屋号で醤油製造を営んでいた。立派な醤油蔵が若胡子屋
        と向い合うように建っている。

        
         若胡子屋は、1724(享保9)年広島藩から免許を受けたお茶屋(遊郭)跡。他に免許を受
        けた千歳屋(海老屋)、富士屋(藤屋)、堺屋(酒井屋)もあって、全盛期の御手洗には100
        人以上の遊女がいたという。

        
         町年寄・庄屋格の金子家(三笠屋)が賓客接待のために建てた屋敷。1867(慶応3)年9
        月、広島・薩摩・長州の3藩は挙兵の約定を結び、京への出兵を計画する。同年11月こ
        の屋敷で出兵の約定「御手洗条約」を結び、同月26日にそろって出航する。
                
しかし、広島藩は鳥羽伏見の戦いで兵を動かさず、維新の中枢から外れてしまう。

        
         天満神社には御手洗の地名になったという菅公の井戸と、1903(明治36)年日本で初
        めて自転車で世界一周無銭を成し遂げた中村春吉碑(境内横が生家跡)、他に菅公の歌碑、
        力石、手水鉢の句碑、飛騨桃十の句碑がある。

        
         寛永期(1624-1644)の大崎下島東端は農耕地だったが、西廻海運の発展によって、御手洗
                湾に廻船が寄港するようになると、大長村の百姓は寄港船に野菜、薪、水を売ることを始
        めた。御手洗に移住する者も出て、1666(寛文6)年村人による御手洗の町割嘆願が許可
        されると急速に港町が形成された。(御手洗港バス停と右手に港町交流館) 

        
         歴史のみえる丘公園から見る御手洗の町並み。

        
         湾に浮かぶ平羅島、中の瀬大橋、中の島、手前に小島、奥に大崎上島、右端に岡村島。

        
        
         「遊女の塔」の説明によると、弁天社の丘辺りの急傾斜地工事で偶然に掘り出された墓
        石100基余りが並ぶが、2003(平成15)年島内外の善意によって移転することができ
        た。これらの墓石は1730(享保15)年から江戸末期に至るまでの遊女・童子とそれに係
        わるたちの慕標で、発掘場所から若胡子屋ゆかりの人々と想定されている。
吉原と違って
        御手洗では亡くなった遊女を手厚く葬った証でもある。

        
         この塔は若胡子屋多兵衛とその縁者が若胡子屋代々の当主を回向するために、1757
        (宝暦7)年に建立したという。塔には「火の車伝説」と呼ばれる話も残されている。

        
         故郷の親元を離れて二度と故郷の地を踏むことなくこの地に散り、丘に葬られていつの
        頃からか土に埋もれて、陽の光を浴びることもなかった。この地の土となった遊女たちを
        偲んで海が見えるこの地が選定されたという。


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