ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市綾羅木ー中山神社から史跡の道

2024年10月01日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         綾羅木は響灘に注ぐ綾羅木川下流に位置し、流域の沖積平野・洪積台地と海岸の砂丘に
        立地する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、石原・有富・延行・伊倉・熊野・稗田・綾羅
        木村の7ヶ村が合併し、豊西下村が発足する。1914(大正14)年に豊西下村が川中村と
        改称する。現在は下関市に編入されて、都市化に伴い住居表示が行われたため、さらに細
        分化されている。(歩行約8.4㎞、中山神社を除けば約5.4㎞)

        
        
         JR綾羅木駅は、1914(大正3)年に長州鉄道の駅として開業、1925(大正14)年に
        国有化される。1面1線の単式ホームである。

        
         駅前の県道248号(旧国道191号線)を横断し、響灘方面へ向かう。

        
        
         中山神社の祭神は攘夷派公卿の中山忠光で、忠光の姉は明治天皇の生母である。天誅組
        の首領だった忠光は、1863(文久3)年8月大和国で倒幕の兵をあげたが、挙兵は失敗に
        終わった。その後長州藩に逃れたが、長州藩内に俗論派が台頭すると、1864(元治元)
        11月8日の夜、長府藩の俗論派刺客によって、田耕(たすき)村(現下関市豊北町)の山中で
        暗殺される。享年20歳。
         遺体は長櫃(ながびつ)に詰めて下関方面へ運ぼうとしたが、綾羅木で夜が明けたので、人
        目を恐れて綾羅木川近くの砂浜に葬られる。1865(慶応元)年長府藩が遺体を埋めた場所
        に墓と小社を建立し、のちに社地を墓の東側500mの位置に移して分離したが、192
        3(大正12)年現在地に移転する。

        
         1865(慶応元)年建立の墓には「藤原忠光卿神霊」とあるが、中山家を辿れば藤原家の
        出になること。或いは長府藩が埋葬したことを隠したかったという説もある。

        
         中山忠光卿の時世に適当な和歌として選ばれた歌碑が建立されている。
               「思ひきや野田の案山子の梓弓
                      引きも放たで朽ちはつるとは」

         
         境内摂社として「愛新覚羅社」が祀られているが、祭神は中国清朝最後の皇帝・宜統帝
        (薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑(あいしんかくら ふけつ)。彼の妻で忠光のひ孫にあたる浩(ひろ)
        その長女である慧生(えいせい)の三神とする。
         忠光は長府藩潜伏中、現地女性の恩地トミを侍妾とし、トミは忠光死後に遺児となる娘
        ・南加を出産する。南加は後に中山家に引き取られ、嵯峨家へ嫁ぐが、南加の孫が浩であ
        る。慧生は伊豆の天城山において不慮の事故(心中死)に遭遇する。

        
         参道には松の木が植栽され、周囲は静かな住宅地になっている。

        
         綾羅木川が三途の川ではないが、河畔に高さ55㎝、幅124㎝の六地蔵が祀られてい
        る。「咳が出るのを鎮めてくださる」とかで、お参りする人が多いとか。

        
         綾羅木川は鬼ヶ城山の南東麓、内日上(うついかみ)に水源を発し、石原地区辺りで西流し
        て響灘に注いでいる。全長約9.5㎞の河川は、灌漑用や上水道に活用されている。

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。

        
         JR梶栗郷台地駅は、1935(昭和10)年に梶栗駅として設置されたが、第二次世界大
        戦において燃料統制のあおりを受け、1941(昭和16)年廃止された。
         その後、下関市街地のニュータウンエリアとして宅地開発が進み、2008(平成20)
        月に開業する。場所は旧駅と異なるが、旧梶栗駅名に綾羅木郷遺跡周辺の地名・郷台地を
        後ろに付すことになった。ホーム1面1線の駅には駅舎が設けられていない。

        
         梶栗川先の三差路を右へ進むと地蔵堂、その北の山陰本線脇に梶栗浜遺跡。

        
         梶栗浜遺跡は、弥生期前期から中期の埋葬遺跡とのこと。名称に「浜」が使用されてい
        るが、現在は響灘海岸線から約600m東に入り込んだところに、石棺が復元展示されて
        いる。
         1913(大正2)年に長州鉄道(現山陰本線)が敷設される際、国内では初めて石棺から銅
        剣、朝鮮半島で制作された多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)という青銅の鏡が発見された
        という。(国指定史跡)

        
         梶栗第2踏切から駅裏手より綾羅木郷遺跡へ向かう。国の史跡に指定された遺跡は、綾
        羅木台地の古砂丘に立地する。弥生前期の中頃から中期初頭に営まれた環濠集落遺跡で、
        その西北端付近に若宮古墳とよぶ前方後円墳と陪塚がある。

        
        
         当台地は鋳型の材料となる珪砂(けいさ)を産出しており、採掘権を持つ名古屋の業者が
        指定前に南部を破壊してしまったという。 
         この墓は、弥生中期から若宮1号古墳が築かれるまでに作られた墳丘墓である。頂上に
        5つの箱式石棺が重なるようにあったというが、遺跡整備にあたって盛土して墳丘を作り、
        石棺や土墳を復元したとある。

        
         若宮1号古墳は全長39.7mの前方後円墳で、5世紀中頃に下関の一体を治めた人物の
        墓だといわれている。
         後円部3段・前方部2段の築成で、周囲には幅4.3mの濠が巡らされていたという。埋
        葬施設は後円部中央に納められた組合せの箱式石棺で、2体以上の人骨のほか勾玉や管玉、
        鉄刀、鉄剣、鉄斧などが出土している。

        
         1号古墳の南側に位置する若宮3号古墳は、直径8mぐらいの円形墳と推定され、その
        中に1基の組合式の箱式石棺が収められていたという。
         高さなどが明らかにならなかったので、若干の盛土と植栽により位置を示したとある。

        
         四阿から見る古墳群。

         
         岩谷古墳は、6世紀後半頃に下関市椋野の岩谷に築造された古墳である。中国自動車道
        の建設に伴い、市立図書館に移設されて当地へ再移転された。

        
         羨門(せんもん)と呼ばれる入口から、奥まで約5m、幅が約1.7mあり、前室と奥室に分
        かれている。奥の壁は1枚の大きな石を立てている。

        
         行橋市の下稗田遺跡の住居を参考に、弥生時代の立穴式住居跡が復元されている。住居
        は直径約8mの円形を一段深く掘り下げ、壁の周りに8本の柱を組み合わせて住居を構成
        している。

        
         敷地内にある下関市考古博物館に立ち寄る。

        
         下関市考古博物館内には出土品などが展示されている。

        
         梶栗郷台地駅に引き返す予定にしていたが、考古博物館で「史跡の道」マップをいただ
        き、新下関駅まで歩くことにする。

        
         浄土真宗の了元寺前を過ごす。

        
        
         上ノ山古墳は、綾羅木川の旧河口近くの右岸に、標高15mほどの洪積段丘が続き、か
        つてはその段丘端近くに造営されていた。1909(明治42)年川北神社が建立された際、
        発見された古墳で、一説には全長100mを超える前方後円墳であったという。
         6世紀前半頃に築造されたもので、横穴式石室と思われる埋葬施設からは、太刀の把手
        (とって)に付けた金属製の三輪玉などが出土し、東京国立博物館で保存されている。現在は
        川北神社が建立されているため、墳丘は削られて目視で存在確認をするのは不可能な状態
        になっている。

        
         右側が「流芳の碑」で、享保年間(1716-1736)に綾羅木村の田圃が長雨の度に冠水するの
        で灌漑用水路が築造される。この碑は建設に尽力した長府藩士・邨(村)田重水と水川信久
        の功績を顕彰したものである。
         中央の祠は水神社、左手には「望洋橋」と刻まれた親柱が建てられている。現在の綾羅
        木橋だそうで、1877(明治10)年県道改修の際に架けられた橋で、望洋橋と名付けられ
        た。1930(昭和5)年にコンクリート橋に架け替えられたが、この橋の完成を祝って橋の
        由来を刻み、神社境内に建てられたという。

        
         青色の道標が設置されているが、土地勘がないため他地へ踏み入れたりしながら進む。

        
         北九州統制通信所延行送信所を過ごすが、海保に関係する施設のようだ。

        
         新下関駅周辺の市街地が見えてくる。

        
         延行町公会堂横に地蔵堂と鳥居の残骸。

        
         民家を過ごすと仁馬山古墳入口。

        
         仁馬山古墳は、綾羅木川の北側、標高20m内外の洪積台地東端の南側斜面に位置する
        前方後円墳である。
         1902(明治35)年に発見されたが、築造年代は出土品から4世紀後半の古墳時代前期
        とされる。域内で最も古い前方後円墳として国指定の史跡になる。小字である「神馬(じん
          ば)
」でなく「仁馬」を当てた理由はわからないとのこと。

               
         後円部の墳頂まで道(踏み跡)があり、墳頂は盗掘坑とされる窪みがある。頂からは新下
        関駅の市街地を見ることができる。

        
         前方部を西に向け、主軸は西北西を指している。全長75mで後円部の直径は47m、
        高さが8mとされ、前方部の直径は後円部の2分の1であるという。

        
         観音堂古墳は、ここから100m北東の下関市大字有富の平野を見下ろす台地上に築造
        されていた。2009(平成21)年市道建設のため移築されたという。
         古墳時代後期に流行した「横穴式石棺」の構造をもつ墳墓である。石室の大きさは幅2.
        3m、奥行き2.8mで、成人3人が埋葬されたと考えられている。

        
         綾羅木川右岸を上流に向けて歩き、最初の橋で秋根新町に入る。

        
         高層アパート群や交通量の多い地区に入る。(新下関公団住宅付近) 

        
         秋根1号古墳は、1892(明治25)年に秋根八幡宮本殿改築時、石室の一部が発見され
        たという。墳丘の一部は残されていないが、直径10~15mの円墳と推定されている。
        (市指定文化財) 

         
         秋根八幡宮の創建年は不詳とされ、長門一の宮である住吉神社の兼務神社となっている。 

        
         「ようこそ!史跡の道へ」の案内板で、歩いたルートを再確認して、JR新下関駅西口
        へ出る。