この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
肥中(ひじゅう)街道は、中世、大内氏の居館地である吉敷郡山口と豊浦郡神田の肥中浦を
東西に結ぶ14里(約56㎞)ほどの街道である。
当時の肥中浦は、明や朝鮮への重要な貿易港であり、筑前博多への船も多くここから発
向したという。(歩行約6.3㎞)
JR山口駅(10:00)から秋吉行きJRバス約40分、吉敷畑バス停で下車する。
バス停から旧国道を離れて丸岳登山道に入る。(見返ると吉敷畑橋)
「この扉は「肥中街道」の大峠(おおたお)方面への出入り口です。イノシシの進入防止の
柵です」とある。
柵を越えて大垰への道に入ると整備されている。
すぐにジグザグ道となるが予想に反して快適な道である。
どなたが管理されているのか倒竹もない。
やがて大垰に上がる。
吉敷の西北境にあって海抜373mは、周防と長門の国境で古くは「大峠」あるいは「
逢坂峠」といった。大内氏はこの地に関所を置き、毛利氏はここに「大垰監門」という関
所を置いた。
1932(昭和8)年山口~大田間に新しい県道が完成すると、人通りが絶えて忘れられた
道となる。大きな石灯籠の竿に「延亨二年(1745)」の刻銘があるが、山口大神宮参拝のた
めの灯籠ともいわれている。
垰から先は草刈りをされていた。
下って行くと広い道(市道?)に合わす。
その先で県道佐々並町絵(ちょうえ)美東線となる。
この先の左手にある擁壁手前から馬路峠への道に入る。この付近は県道造成により旧街
道は大きく変化したようだ。
入口付近は少し藪化しているが歩きやすい道になる。
植林帯の中に細い道が続く。
下って行くと鳳翩山トンネルの出入口上で三差路となる。左が街道筋だが崩落で途絶え
ている。
そのまま谷筋を進むと保安林を示す標柱がある。
馬路垰付近だが案内などはない。
伐採地付近から街道は林道化する。
その林道も薮化している。
江嶺山が大きく見え始めると街道は草刈りされていた。街道から見る江嶺山は、ほんの
3歩の間だけ富士に似て見えることから、長田村の画家・長井江嶺(1762-1852)はその佳景
を愛し、その印象を歌に詠み「三足富士」という別名をつけたという。馬路垰付近に歌碑
があるというが薮化のため見落とす。
碑には 「あづま路にあふぐ高根の 面影の
爰(ここ)に移りて三足富士の名」とあるそうだ。
舗装路に出るがここも県道佐々並町絵美東線である。
右手の民家は無住である。
町絵は西鳳翩山西南麓の谷間に散在する集落で、江戸期には45軒、昭和初期頃には約
30軒の民家があったようだが、今では数軒に生活感がみられる程度である。
多くが耕作放棄されてセイタカアワダチソウ畑となっている。
三差路は左の県道309号線を進む。
見返って町絵集落を後にする。
垰越えすると沖田集落に入り、正面に見える民家前を右折する。
正面に切畑集落。
長田川に架かる月見橋を渡るが、前方に「長田川改修記念碑 平成20年(2008)」の石
碑が建立されている。
山裾の切畑集落(右)と圃場整備された田圃の間の直線道。
三隅小郡線に合わす手前に三界萬霊塔。この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に
供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。
切畑バス停向い側の石碑は、明治天皇に関係するもので地元の方が建立されたものとい
う。残念ながら内容を知ることはできなかった。
切畑バス停に出ると、待ち時間なく新山口駅行きのバス(13:27)に乗車できるので歩きを
止める。
馬路垰へのルートは上がり口が不明瞭であり、崩落地と薮化した道であるため、町絵越
えルートの方がベストのようだ。