この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
菅内(すげうち)は大内御堀の小字名で、域内を菅内川が北流する。東に岳山、南西に今山
があり、北を中国自動車道が東西に走る。(歩行約8km)
JR防府駅からJRバス山口大学行き20分、鯖地バス停で下車する。
県道21号線(山口防府線)を台道方面へ向かう。
問田川の沖田橋袂に鎮座する地蔵尊。丸彫坐像で台座に刻字されているようだが判読不
能である。
その隣の祠には小粒の地蔵尊2基が祀られている。(この地は下小鯖)
交通量の多い県道を避けて菅内団地内に入る。
正面に岳山を見ながら農道を利用する。
市道を横断して菅内台団地を過ごすと、県道194号線(山口秋穂線)に突き当たる。
コミュニテイバス真行バス停の先に、太神宮の灯籠と三連の石祠が並べられているが、
詳細は知り得なかった。
向い側には、1969(昭和44)年に竣工した菅内灌漑揚水記念碑と、「馬頭観音堂参道
入口」の案内があるが、山中に入るようなので残念する。
現在の仁平(にんぺい)寺は、1883(明治16)年の復興とされる。寺伝によれば、平安期
の1151(仁平元)年に創建されたと伝え、年号をもって寺号としたという。開基・開山と
もに不詳とされるが、南北朝期の1352(観応3)年大内弘幸が本堂を修造し、伽藍も備わ
り、塔頭も多かったという。
大内氏滅亡後、諸堂は廃退して本堂跡に小庵が残り、小鯖の禅昌寺から番僧が来て堂守
をしていたという。1868(明治元)年には寺跡は荒廃して観音堂のみが残っていたが、禅
昌寺に引き取られた。
玄関に木板(もっぱん)と思われるものが置かれているが、表面には
謹白大衆 (官位のない僧)
生死事大 (生と死は、仏の一大事である)
無常迅速 (時間は、無常にして迅速に過ぎ去っていく)
各宜醒覚 (各々は、このことに目覚めて)
慎勿放逸 (努め励み、決して無為に過ごしてはならない)と墨書きされている。
その先で菅内川に沿って下流へ向かう。
布袋様の向い側に旧仁平寺跡を示す説明板がある。これによると、本堂に至る道に坊が
並び、寺境内には五重塔もあったという。その礎石が残されていたが、溜池築造のため取
り除かれたと記す。
鳥居には「享保5庚子(1720)▢月吉祥日 益田織部藤原就高」と刻字されている。益田
就高(1661-1723)は萩藩寄組・間田益田家の3代であった。
石造灯籠に歴史を感じる。
日吉神社の由緒によると、1151(仁平元)年大内家の家臣・河野某が、京都の比叡山よ
り勧請し、仁平寺の鎮守社として建立したとする。
1666(寛永6)年に益田氏が再建し、現在の本殿等は益田織部就高の造立である。18
71(明治4)年に山王社を現社号に改める。
庚申塔と2基の猿田彦大神碑が集められているが、集落内にあったものであろう。他に
末社として、人丸社、河内社、弁天社が祀られている。
菅内川に沿う。
説明書きがないので詳細はわからないが、このクスノキは山口市の保存樹に指定されて
いるようだ。根元に弁財天(財運の神)が祀られている。
小野地蔵院(曹洞宗)は、室町期の1397(応永4)年大内義弘が創建したとされる。説明
書きによると、本尊は地蔵菩薩で、里の人は「腹帯地蔵」「子安地蔵」とも呼び、安産の
守仏とされ、地蔵尊の腹部をさすりながら祈願するという。
本堂は施錠されて窓越しの拝見となる。「毎月24日妙鑑寺住職のおつとめがあり、本
堂を開放しております」という張り紙がある。
散歩だと地元の方にお会いして、いろんなことをお聞きしたり、雑談を交わすことがで
きる。
石像を見せていただいて、菅内川に架かる志多里橋を渡る。
アオサギが参道で羽根を休めていたので、飛び立つまでしばし歩を止める。
左手の石灯籠には「安政六年(1859)九月 清輝 世話人河村喜蔵」とある。
志多里(しだり)八幡宮の由緒によると、南北朝期の1352(観応3)年大内氏の家臣・小野
和泉守が宇佐より勧請したとある。
石碑が3つ並ぶが、奥側は明治維新頃に国学者として、石見や豊前まで講説して歩き活
躍した神主の佐伯八雲の碑。亀趺に乗った碑は神社の由来を記したもので、手前は従軍者
紀念碑だそうだ。
中国自動車道の函渠を潜る。
問田川に架かる光円寺橋を渡ると、右手に高さ35㎝位の小さな石碑がある。表面に「
江良丹後守 梛良祖先」と刻まれているが、屋敷跡を示す石碑とのこと。
江良房栄(ふさひで・1517-1555)は、陶氏の重臣・江良家に生まれ、大将として幾度も出
陣して活躍する。毛利氏が大内・陶氏の勢力から独立すると、陶晴賢は対決姿勢を鮮明に
する。これに対し、房栄は慎重論を唱えたため、毛利氏への内通者として疑われる。15
55(弘治元)年水軍を率いて厳島を攻撃し、岩国に帰陣した翌日の3月16日、弘中隆兼に
よって誅殺された。(この付近は大内矢田)
問田川右岸を上流に向かい、神田(こうだ)橋で左岸に移動する。
櫻木神社の由緒によると、平安期の931(承平元)年大内氏11代当主・大内茂村により、
御堀村小野の地に創建された。一説に宮野仁壁神社の行宮(あんぐう)であり、桜木山とは、
宮野の桜畠の樹種を移したことによるという。
天文年間(1532-1555)頃には、当社・仁壁神社・今八幡宮を山口三社といい、流鏑馬
(やぶさめ)などが盛んに行われた。1730(享保15)年現在地に遷座したと記す。
本殿右手に神馬が奉納されているが、由緒書きによると、1817(安政14)年山口市木
町在住の安永貞ニが神馬を奉納するにあたり、仁保八幡宮の神馬をお手本にして制作する。
当宮の他に長野八幡宮、山口大神宮、今八幡宮に奉納したとされる。(説明書きより)
山口市大内地区の町並み。
社務所奥にひっそりと祀られているのが「がん封じ堂」
問田川左岸を上流に向かうと薮小路橋があり、その先に自動車道の函渠がある。
産廃処分場に入り、左手の草地を歩けば鳥居が見えてくる。
鳥居右柱に「奉寄進 秋葉権現 願主▢▢」、左柱に「文政▢▢‥(判読不能)」とあり。
鳥居の先に「神田(こうだ)山古墳群」の説明板には、円墳4基のうち、1基を移築し、他
は埋め戻されて保存されているとある。
登山の素人でも10分もあれば、標高90mの神田山山頂に到着できる。ちょっとした
広場の正面に秋葉権現(防火の神)が祀られている。
藪小路橋まで戻ると、北詰の先が工事中のため右折して問田川右岸を進む。川には大き
な黒鯉が泳いでいる。
最初の民家前で畔道を通って妙鑑禅寺前に出る。室町期に創建された曹洞宗のお寺で、
1920(大正9)年5月火災に見舞われ、本堂ほか大部分を焼失したという。
被災から1年半後に本堂・庫裏は木造で再建されたが、位牌堂は火や線香を使用する機
会が多いため、耐火性に優れた煉瓦が採用された。
位牌堂はイギリス積みの平屋建で、屋根は寄棟造赤色桟瓦葺きである。中央の塔屋は窓
の少ない内部への明り取りとしての機能を有している。内部は白漆喰塗り、天井は不燃材
の亜鉛鉄板仕上げと防火に優れた建物となっている。(国登録有形文化財)
近くに大内中学校バス停があり、山口駅、防府駅方面へのバスに乗車できる。