この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
玖珂は島田川の支流笹見川が形成した扇状地上に広がった町で、町内を旧山陽道、国道、
岩徳線が東西に走っている。古くから山陽道の宿駅・市場町として発達する。(歩行約8.9
㎞)
欽明路駅は、1990(平成2)年に玖珂ー柱野間に新設された駅で、地元が全額負担して
建設された請願駅である。時間帯は昼であったが乗降客は誰もいなかったので、ホームで
山々を眺めながら昼食休憩する。
駅から柱野方向へ歩くこと1.2㎞、最奥部にある日蓮宗の欽明寺は、山門が鐘楼門形式
である。
昔は観音堂の一宇だけで、鎌倉期(1186-1333)には禅宗であったという。室町期の14
91(延徳3)年に焼失し、1603(慶長8)年長門国の僧が再建し、大僧正日相上人より曼陀
羅を受けて日蓮宗の寺になる。
1940(昭和15)年の欽明路集落の大火で、本堂・観音堂などすべて焼失し、現在の寺
院は、1958(昭和33)年に再建されたものである。
玖珂郡志よると、飛鳥期の552(欽明天皇13)年に欽明天皇(在位539-571)が九州から
御還幸(ごかんこう)の際、御輿を建てられたので欽明寺という。
欽明天皇が腰掛けたといわれる石は、欽明路の沿道にあったが、現在は観音堂と本堂の
間に移設されている。
欽明寺は周防源氏武田氏の菩提寺であり、観音堂の屋根には家紋の武田菱がみられる。
トタン屋根の民家も少なくなってきた。
武田屋敷跡は旧山陽道の北側、欽明路川右岸の微高地にある。旧正門、白壁の塀、墓地
などが残されている。(県道入口に標柱あり)
1221(承久3)年の承久の乱(後鳥羽上皇の朝廷と鎌倉幕府の戦い)で軍功を上げた第5代
武田信光は、幕府から甲斐と安芸の領国を賜り、安芸国には守護代を置いた。(第4代が武
田を名乗る)
信光から5代目の武田信宗は、鎌倉後期の1329(元徳元)年安芸国に銀山城(現広島市安
佐南区)を築き入城する。信宗の孫・信成が甲斐国を継ぎ、甲斐源氏武田氏の祖となり、氏
信が安芸国を継ぎ、安芸源氏武田氏の始祖となる。
氏信から第8代目の光広の時、毛利元就により攻略されて安芸武田氏は滅亡する。(門
の左手に「周防源氏武田家旧址」)
門を潜ると、正面に「文政元年(1818) 稽古屋敷創設之地 創立者 武田宗左衛門」の
石碑がある。武田屋敷の東側に稽古屋敷(玖珂小学校中野口分校の前身)を設ける。
明治末期には玖珂実科女学校、大正の初めには中学を創設して教育の振興に力を注ぐ。
1917(大正6)年には呉市に移住して「呉港学園」を創設して現に至る。
安芸源氏第7代光和が亡くなると、正室八重女との間に男子がなく、甥の光広が家督を
継承する。しかし、光和に恩顧を受けた八木城主香川光景は、光広は城主としての将器に
乏しいので光和の愛妾との間に生まれた小三郎を城主にしようと、その助勢を毛利元就に
求めた。
元就は援助を約し、1540(天文9)年11月小三郎と義母八重女、主従数人とともに欽
明路のこの地へかくまい、周防源氏武田氏の祖となる。元就は小三郎を銀山城主に迎える
ことはなく、柔術に優れていたので元就の影武者として元就の身辺を護ったという。玉垣
に囲まれた基壇の上に信宗の宝篋印塔(右)、光和の五輪塔が、安芸国の銀山城から移設さ
れている。
その西側に、周防源氏武田家の歴代の墓所があり、裏山に武田小三郎(宗慶)と正妻、八
重女の墓標があるという。辺り一面ヌスビトハギ(ひっつき虫)が大量に繁茂しており、進
むことができず残念する。
県道の右手に注連縄が架けられたお堂のようなものが見えたので、近所方にお聞きする
と荒神社とのこと。NTTの鉄塔までは行けるが、その先は荒れ放題とのことで、ここも
行くことを諦める。
旧山陽道は岩国から柱野、二軒屋を過ごし、中の峠を越えると欽明路峠である。
昔は「かねり」という丸い木の桶に魚介類を入れて、藤生、通津の漁夫の妻女たちが頭
上に載せて、峠を越えて玖珂に行商にきていたという。
民家の片隅に2つの石碑が建つ。右は「日本全国著名人物鑑 著者 岡部新五左衛門
大正7年(1918)9月30日発行」とある。岡部新五左衛門はこの地で生まれ、東京で新聞
社を始めて成功した人物のようだ。
左側は「学制頒布50年記念碑 大正11年(1922)10月30日 岡部新五左衛門建之」
とある。明治政府は明治5年(1872)8月に日本初の近代的学校制度を定めた基本法令を発
布する。旧野口小学校の土地を岡部家が寄付し、その50年を祝して石碑を建立したとさ
れる。
玖珂東部コミュニティセンターの地に玖珂小学校中野口分校があった。1886(明治1
9)年に小学校令が公布され、その翌年に中野口簡易小学校として創設された。簡易小学校
では、全国児童の約3分の2が授業料を払うことができない貧困家庭にあり、授業料を徴
収せず、教科書は学校が貸与するとした。これは差別を助長するような制度で、わずか数
年で消滅する。
その後、文教場、尋常小学校、分校を経て、1972(昭和47)年に休校(廃校)となる。
右手に鳥居が見えたので、参道を上がって行くと、参欽明路道路(県道15号線)が横断、
車の往来が多いので引き返す。上野宮神社は古くに上宮大明神といい、欽明天皇を祭神と
しているようだ。
岩徳線はこれまで南を走っていたが、上野口(かみのくち)第2踏切から県道の北側とな
る。
旧山陽道・竪ヶ浜往還道は丈六踏切で岩徳線の北側を通り、岩隈八幡宮参道入口に至っ
ていたようだ。踏切名は付近に丈六寺があったことに因むそうだ。
岩隈八幡宮の参道は社務所前を国道2号線が横切っている。
参道の石段を上がると、花崗岩製の大鳥居がある。右柱には岩隈八幡宮の移設に関する
銘文があるというが読めない。
もとは周東町下祖生の岩隈山にあったが、1691(元禄4)年岩国領主・吉川広紀が当宮
を参詣し、社の荒廃を見て現在地へ遷座させたことが刻まれているという。鳥居は、16
93(元禄6)年に吉川公が寄進したとされる。
平坦だが長い参道を歩くと、諏訪神社と奥手に稲荷神社の小祠がある。
往古は熊毛宮と呼ばれていたが、奈良期の714(和銅7)年に宇佐神宮より勧請して岩熊
八幡宮と改称する。さらに現在の岩隈八幡宮に改めたとされる。
街道は岩徳線下を潜り、自動車会社前のY字分岐を右へ進む。
1855(安政2)年に田坂市良右衛門は、代官の悪政を改めるように進言して幽閉された
が、屈せず、村民は家老・吉田菜女に訴えて4年2ヶ月の刑が解かれた。無罪となって積
年の弊害も取り除かれたとされるが、1869(明治2)年に40歳で死去する。(自然石に義
民田坂市良右衛門頌徳碑とある)
玖珂の町並みは3つのブロックに分けられ、東側から本郷市、新町市、阿山市に区分さ
れた。本郷は7日と24日、新市は11日、阿山は2日と20日に市が開かれ、三市には
商売の神様である「市えびす」を祀り、地元の人は繁盛を願った。
中央に玖珂町時代の町章、周りに町の花だったツツジがデザインされたマンホール蓋。
市頭から西へ50mほどの所に蓮光寺(真宗)があるが、1661(寛文元)年毛利の家臣・
千代延喜代輔が創建したとされる。
蓮光寺すぐ西北に祥雲寺(曹洞宗)がある。もとは玖珂町谷津(やつ)にあったが、室町後期
の1555(弘治元)年毛利元就に攻められた鞍掛の戦いで焼失する。
後に野口の地に城泉寺として再興されたが、1701(元禄14)年に現在地に移転して寺
号・祥雲寺が復活する。その後、無住職となり破損したので規模を縮小して改築される。
境内には江戸期の1717年、1743年、1750年と連続して大火に遭ったことか
ら、防火の神である静岡県の秋葉神社から分霊を勧請して祀ったとされる。
同寺は鞍掛城主・杉家の菩提寺であったので、鞍掛合戦で戦死した杉隆泰・父宗珊(そう
さん)の墓がある。
JR玖珂駅前交差点。狭い旧街道は車が行き交う。
明覚寺(真宗)は、15世紀の戦国時代初期に玖珂町谷津に創建され、江戸初期に現在地
に移転する。1717(享保2)年の大火で焼失したが、その後に再建される。
明覚寺入口には本郷市の市えびす、寛保元年(1741)建立の鳥居が建っている。
社が2つ並ぶが、右は榎地蔵で堂内には木造の地蔵菩薩が安置されている。女性の乳を
かたどった供え物は、妊産婦の乳の出を願う信仰とも、耳の病を治す信仰ともいわれてい
る。左手の祠は柿本神社である。
大師堂は、周防八十八ヶ所霊場第78番榎大師として、堂内には弘法大師像と薬師如来
像が祀られている。
旧玖珂町役場の向い側に、かつて玖珂脇本陣を務めた布屋(宿)があった地である。本瓦
葺門のある建林家には、本門の脇に通用口があり、門から中庭に敷石が7基据えられてお
り、正面に駕籠を据える幅2間(約3.64m)の式台があるという。
玖珂本陣は旧山陽道の北側にあったが、明治になって廃止された後、跡地は玖珂町役場、
玖珂小学校などが建設された。(総合支所は移転、跡地は駐車場に整地中)
旧町役場の先に柳井への道が旧竪ヶ浜往還道である。玖珂本町と新町の境界でもある。
大福寺(浄土真宗)は鞍掛合戦ゆかりの寺とされる。鞍掛城主・杉隆泰と共に討死した家
老・児玉筑前守を弔って、合戦に出陣し生き延びた長男・児玉佐渡守が出家して、亦了(え
きりょう)と改めて建立したとされる。
境内にある自然石碑の正面には「柳門四世栗陰軒(りついんけん)貞六翁之塔九十四歳」、右
脇に辞世の詩「花にくらし日に あかして楽しみや 心のこらずきよい雪の世」とある。
側面には嘉永4年(1851)辛亥12月15日とあり、門人が建立したもので「柳門」とは狂
歌の結社である。
古風な文房具屋さんだったが、2020(令和2)年に訪れた時に売却の案内が出ていたが
姿を消していた。
新町下にある浄土宗の浄光寺は、昔は現在の阿山北側、古郷という地にあったという。
古記に「延暦24年(805)6月伝教大師(最澄)が唐から帰朝の際、浄光寺に立ち寄り、寺の
南の地に施薬院(薬師堂)を建立し、北の岳に山王宮(現在の比叡神社)を造営するように」と
ある。
寺は、奈良期の760(天平宝字4)年創建とされ、安土桃山期の1594(文禄3)年現在地に
移転する。もとは天台宗であったが、後に浄土宗に改宗された。
薬師堂は、旧山陽道の南の地から、浄光寺境内に移建されている。
新町の西端である水無川の袂にある高村酒場。以前は杉玉があったが取り除かれている。
新町と阿山の境が水無川で、長さ10mほどの橋が渡されていたとのこと。
水無川を渡り阿山市に入ると、T家西側の玄関先に共同井戸がある。
阿山市の市えびすは萬久寺入口にある。
萬久寺(浄土真宗)は、1555(弘治元)年の鞍掛合戦で毛利氏に敗北した鞍掛城主・杉家
の家老であった宇野筑後守正常の次子・正五郎が出家し、西念と称して亡父の菩提を弔っ
て諸国を遍歴する。1594(文禄4)年に萬久寺と称する菩提寺を建立し、1671(寛文11)
年に寺号の免許を経て、現在地に移転する。
吉川元光(吉川家一族)の篆額による岩国藩士・江木俊敬の奉公碑。高杉晋作挙兵の際、
藩命で萩藩の内情や萩藩主の本意と徳山藩の動向を探り、役目を終えて帰途の際に間諜と
間違えられて重傷を負い、萬久寺で自刃する。
死後、書状により徳山藩の動向が明らかになり、岩国藩の態度決定に寄与したという。
宇野泰信上人(萬久寺住職であった人)は、明治期に塾を開いて子弟の教育に尽くした。
「学んで厭(いと)わず 教えて倦(う)まず ああこの人 これ徳の人なり」の銘あり。
田中家は江戸期には豪商として、岩国藩の専売品であった玖珂(岩国)ちぢみ、茶等を販
売、明治期には呉服、金物、油などを販売した。建物には格子戸などがあったようだが改
修されている。建物は1857~8(安政4~5)年に建築された。
ミフヂ醤油醸造元・藤川醤油醸造場の建物は歴史を感じさせる。
菅原神社は、江戸期に疫病の流行と、天候不順による凶作が続いたため、世情の回復を
願って、野口村の庄屋・岡家が屋敷内に天満宮を勧請して祀ったのが始まりと伝える。
岡家が玖珂を去るにあたり、岩隈八幡宮の境内に移したという。1880(明治13)年11
月に現在地へ遷座する。
拝殿に向かって左右2本のモミの木がある。地元の方にお会いすると、高さが27m以
上もあったが、台風等で倒木していけないで上部が伐採されたとのこと。
駅通りからJR玖珂駅に戻る。