小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

法務省官僚と国会が世論とマスコミに屈服して、とんでもない法律を作ってしまった。 ⑤

2014-01-17 06:00:39 | Weblog
 さてこの長い連載ブログ記事も今日で間違いなく終える。
 私がネット検索で調べた結果分かったことは、日本の(日本だけではないと思うが)裁判での判決は間違いなくその時点の世論の動向を反映しているということである。まず日本の確定死刑囚(最高裁で死刑が確定した囚人)の推移を見てみよう。
1950年代(1950~1959年.以下同様)   232人(年平均23.2人)
1960年代   154人(15.4人)
1970年代   50人(5人)
1980年代   41人(4.1人)
1990年代   47人(4.7人)
2000~2004年   20人(4人)
2005~2009年   82人(16.4人)
2010~2013年(4年間)   49人(12.25人)
この間の無期懲役確定囚についての公的記録がないようで、どなたか奇特な方が2012年と13年の2年間だけ新聞報道などを頼りに調べられた数字がある。わずか2年間の、それも新聞報道を頼りにということなので世論の動向との関連性をうんぬんできないが、参考までに引用しておこう。
2012年   17人
2013年   22人
 死刑確定囚の推移をご覧になって(すでにお調べになった読者もいると思うが)、ちょっとびっくりされたのではないだろうか。私自身も正直びっくりした。予想していた以上に裁判官や裁判員は世論を反映した量刑を科しているな、という感じが否めない。50年代、60年代の死刑確定囚が70年以降04年までと比べて異常に多いのはおそらく戦後の混乱がまだ収まっていず、凶悪犯罪を抑え込むための「見せしめ判決」で極刑が多くなったのではないかと考えられる。が、70年代以降22世紀初頭までは死刑確定囚が大幅に減少している。この時代になって戦後の混乱が急速に終止符を打ったとは考えにくいので、量刑の目的が②の「反省の機会を与え、社会復帰への努力を促す」に重心が移っていったのではないかと考えられる。また「死刑廃止」運動が活発化していったのもこの時代だったように思う。ここまで書いて私は「死刑廃止」を検索することにした。
 その結果分かったことは死刑廃止論は私が予測していた通り法理論での主張ではなく人道的主張など感情論がほとんどだと言っても過言ではないということだった。私は量刑の目的は三つあるということを最初から主張している。私は法曹家ではないが人道的主張としてではなく①の「社会的制裁」、②の「犯罪抑止力」の観点からしか死刑問題は考えない。私は別に死刑制度を全面的に肯定しているわけではないが、かつて法務省の刑法担当者に死刑より「仮釈放を認めない終身刑」のほうが「社会的制裁」としても「犯罪抑止力」としても有効ではないかという疑問をぶつけたことがある。法務省の方は「死刑と無期懲役の量刑の差が大きすぎるという観点から中間に終身刑を設けるべきだという議論はあり、法務省としても検討すべき事項として考えていますが、そういう観点からのご指摘は初めてです。非常に重要なご指摘だと思いますので上司に伝えます」と言ってくれた。
 このとき私が主張したのは、「遺族の感情は二分される。早く殺してくれという感情と、簡単に死なれてたまるか。獄中で死ぬまで苦しみ続けさせろ」という感情だ」ということだった。その時の法務省の方とのやり取りを思い出して再びネット検索することにした。今度のキーワードは「加害者」と「被害者」、「遺族」である。
 この検索で分かったことは、加害者や加害者の家族も「自分たちも被害者だ」と声を上げていることだ。たとえば大津市立皇子山中学校で生じたいじめ自殺を巡って、加害者生徒の一人の母親(大津市女性団体連合会会長)が、校門前で「うちの子供は被害者です」というビラをまき、被害者遺族に対し「あんたの子供は死んだけど、私の子供は生きていかなければならない。子供の将来をめちゃくちゃにしてくれた」と主張していたことが分かった。
 一方この事件ではないが、交通事故で死んだ被害者の遺族がネットにこう書きこんでいる。
「11年前兄が交通事故で死んだ。目撃者、証拠などから相手の25歳男の信号無視が分かったが、それ以外も酷かった。反省の色なしで、通夜に来たときヘラヘラ笑っていた。『お互い運が悪かったッスねー俺も怪我してんスよ』と言いながら包帯アピール。(私の)両親は落ち着いた表情で『それは大変でしたね。死んだら楽になりますよ』とだけ返した。加害者と話したのはそれが最後だった」「地獄は今年の春終わった(結婚した加害者家族が車で3分の場所に引っ越してきて両親は近所で買い物もできなくなっていた)。加害者は一般国道を80㎞で信号無視し停車中の大型トラックに正面から突っ込んだ。意識がある中苦しんで数時間後に亡くなった。一報を聞いた母親が泣いたのが修羅場だった」「(なのに)母は(中略)初盆に加害者の墓参りに行ってたらしい」
 加害者の家族にも「三分の理」があるのかもしれないと思うと同時に、被害者遺族の切ない感情が私の胸を打った。
 国連総会で死刑廃止条約が採択されたのは1989年。ただし日本をはじめアメリカ、中国、イスラム諸国などが反対し、日本は批准していない。なおアメリカには刑法は連邦法と州法があり、州内での犯罪に対する裁判は州裁判所で行われ州法に定められている量刑が適用されている。
 連邦法には死刑の刑罰があるが、州によっては死刑制度を維持している州もあれば廃止した州もあり、いったん廃止したものの復活した州もある。とくにキリスト教徒が多い州では人道的立場から死刑を廃止し、死刑に代わる犯罪抑止力として、それぞれの犯罪に対して量刑を科し、合計すると懲役数百年になる判決を下せる州もあれば、仮釈放を認めない終身刑を刑罰に定めている州もある。日本も含め死刑廃止論は人道的立場からの主張が多いようだ。また一見理論的主張に思わせるおかしな屁理屈もある。具体的には「殺人を犯した犯罪者に対して国家が殺人行為をするのは矛盾している」といった主張である。なぜ矛盾していると考えるのか、私にはわからない。そう主張する人に聞きたい。「脱税した人(あるいは法人)に対して国家が重加算税を取るのは矛盾しているの ?」と。人道的主張なら、それだけで止めておけばいいのに、下手に屁理屈を付けをようとすると、こういう結果になる。
 いずれにしても死刑制度を容認するかどうかは難しい問題ではある。ただ先ほど列記した数字だけでは、死刑制度が③の「犯罪抑止力」としてどのくらい効果があるかどうかは不明のようだ。ネット検索によれば、アメリカでは死刑の犯罪抑止力についての研究論文がいろいろ出されているようだが、説得力のある論文は出ていないということだ。ただ、危険運転致死傷罪の新設によって飲酒運転事故が激減していることは疑いのない事実である。ただし、この例は刑事事件としてはむしろ例外的事件と考えるのが妥当だろう。というのは、これまでにも述べてきたように飲酒運転は人を殺傷することをあらかじめ目的にはしていないからである。だから私は「未必の故意」を適用して一般刑法の殺人罪、傷害罪で起訴、裁判を行うべきだと考えている。
 死刑か無期かで裁判官が一番悩むのは、被告に更生の可能性があるか否かである。それは懲役囚(あるいは少年院の収容者)が社会に復帰したのちの結果で判断するしかない。現時点でネット検索で分かるのは2011年における再犯率(交通事故などを除く一般刑法犯)は、過去最悪の43.8%だった。では裁判で下した量刑が甘かったのか。そう考えざるを得ないのだが、一方でそういう結論を出すのは矛盾している。一つは犯行意志がない交通事故に対して最高20年の懲役刑を設けた結果、他の刑事事件の量刑も軒並み厳しくなったという事実がある。また裁判員制度の導入によってこれまで②の「反省の機会を与え、社会復帰への努力を促す」という量刑の尺度から①「社会的制裁」と②「犯罪抑止力」を重視する方向に量刑の尺度が移行しつつある事実(それを無視したのがこのシリーズの冒頭で述べた東京高裁の1審判決の破棄)があり、さらにそのことと表裏一体の関係にあるのだが、これまでの裁判は「加害者の人権を被害者の人権より重視しすぎている」といった世論の動向も無視できない。
 だから読売新聞も産経新聞も高裁判決に対し「裁判員制度の趣旨を無視しており、先例主義だ」と批判したのである。ではいったい何が原因で再犯率が大幅アップしたのか。仮釈放の基準が甘くなったのか。仮釈放については刑法28条に「懲役や禁固の刑を受けた囚人は、反省し更生の可能性が高いと見なされた場合、有期刑は刑期の3分の1、無期刑は10年たてば仮釈放できる」(要旨)とある。で、ひょっとしたら刑務所の収容能力不足が原因で囚人を厚生の可能性がそれほど高くないのにどんどん仮釈放してしまったのかと思い、すでにプリントしておいた「仮釈放」の検索結果を調べてみた。が、データ的には再犯率の大幅アップを裏付けるものは見つからなかった。ちょっと古いデータしか見つからなかったが、07年末の時点では無期懲役囚の総数は1670人で過去最多になり、その年には89人の無期懲役確定囚が出たのに仮釈放は3人で、出入率は3.3%に過ぎず、仮釈放者の平均収容年数は30年を超えている。一体どこに問題があるのか。仮釈放者も含めて出所した元囚人を受け入れる社会体制が整備されていないからだろうか。確かにそういう指摘は最近テレビのニュースでしばしば見るようになった。だとすれば、そういう社会体制を整備しないままに一定期間たった囚人を仮釈放してしまうことに問題はないのか。あるいは収容期間中に釈放後の社会復帰が可能になるだけの能力を身に付けさせないまま釈放してしまい、「あとは司法の知ったことか」と居直るつもりなのか。そういう視点で、もう一度東京高裁の判決理由を見直すと(私も全文を読んでいるわけではない。ネット検索で知り得た範囲で書いている)、1審の死刑判決を破棄して無期懲役に変えたということは、被告に更生の可能性を高裁の裁判官たちは認めたということであり、その結果に対する責任を高裁の裁判官はとらねばならない。その覚悟があっての1審判決の破棄なのか。
 
 私には専門的な法律知識はまったくない。それでも、ネット検索だけで、現在の司法制度の問題点をこれだけ浮き彫りにできた。私より若い人たちができないはずがない。できないのは、くだらない知識や既成概念で物事を簡単に理解してしまおうとする癖が付いているからではないだろうか。
 とりあえず5回にわたるシリーズはこれで終わりにする。読者の皆さんにとって、人間が動物に勝る唯一の資質「人間は考える葦である」(パスカル)を磨いていただきたい。そのための練習問題をお出しする。これはネット検索の方法を学ぶための問題ではない。ネットに限らず新聞やテレビの報道などから得た情報をどういう思考力を働かせれば、真実が見えてくるかのテストである。間違えてもいい。とりあえず自分の頭で考えて自分なりの答えを出してほしい。答えが思いついたらコメントに書いていただきたい。

問題:子どもの頃、家での生活は苦しく、両親や兄弟から暴力を振るわれて育った少年が凶悪犯罪を犯した場合、弁護士は裁判で、恵まれなかった子供時代の出来事をことさらに強調して情状の酌量を求めるケースが少なくない。
さて、この弁護士の弁護方針は正しいだろうか。

ヒント:この裁判で裁判官は私が上げた三つの目的のどれを重視すべきか。東京高裁の裁判官のように、何も自分の頭で考えずに「こういうケースで死刑を選択した先例がない」などというおかしな量刑基準は最初から頭の片隅から消しておいてほしい。

 
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