小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

いま、日本が直面する四大危機ーー内閣支持率急回復・働き方改革への野党対応・世界貿易戦争勃発か?・オウム死刑ーーについて考えてみた。

2018-07-09 01:43:04 | Weblog
 前回のブログ記事を投稿してから、もう2週間以上が過ぎた。その間、猛暑で体調を崩していたわけではない。
 米朝首脳会談後の米朝の動向や働き方改革の問題など、すでにいくつかの記事を完成させていた。が、前回のブログの閲覧者数が一向に減少せず、また訪問者 : 閲覧者の比率が200%をいまだに切っていない状況で、今日まで更新の機会を得られなかっただけのことだ。
 そういう状況の中で、最近の諸問題について、いくつかの雑感を今日は述べておきたい。

 まず内閣支持率の急回復。「人のうわさも75日」(『成語林』による)と言われる。私自身は49日と思っていた。念のためネットで調べてみた。75日説は「五行思想」によるというが、根拠は不明。49日説は仏教儀式に根拠があるようで、人の死後49日間は喪に服す期間からきているという。いずれにしても科学的根拠は薄い。
 もう少し論理的に考えると、高齢化が進んで日本人の記憶力が平均的に衰えているのではないか。そう考えると、メディアがモリカケ問題をあまり扱わなくなったころから徐々に内閣支持率は回復基調に入っていったのではないかと思われる。メディアの世論調査は成人を対象に行われるから、調査対象者の平均的記憶力は日本人全体よりかなり劣っていると考えてもいいだろう。そうした状況を考慮に入れると、私に言わせれば「人のうわさも初7日まで」という感じだ。
 安倍内閣を窮地に追い込むためには、野党だけでなく与党内の反安倍勢力も連携して勢力の拡大を図る必要があるのに、そうした動きが一向に見えない。どうせ今年9月の総裁選では勝ち目がないから、「次の次」のために泡沫扱いされようと旗をあげることに意味を見出しているのかもしれない。オリンピックと違って政治は「参加することに意義がある」わけではないはずだが。おっと、最近はオリンピックも「勝つために参加する」ことに意義がある、に変わってきているようだが…。

 次に働き方改革の問題点を二つ。いまの状況だとせっかく書いた原稿を没にせざるを得なくなりそうなので、野党側の追及の問題点に絞って書いておく。ポイントは「高プロ制」と「同一労働同一賃金制」の二つ。
 高プロ制を、企業側の権利ではなく、労働者側の権利にしたらどうか、という「逆転の発想」による提案なり追求が野党からまったくなかった。夏ボケしたのか。
 高プロ制を「私の仕事の成果は時間では測れない。だから高プロを適用してもらいたい」という要求を労働者が行える権利にしたら、どうなっていたか。その要求は、正当な理由がなければ企業側は拒否できないとしたらどうか。企業が拒否しようとした場合は、公正な第三者機関の審査にゆだねればいい。
「高プロ制」をそういう制度にひっくり返していたら、1075万円以上の高収入労働者に限定して適用する必要もなくなる。もし野党がそういう提案をしていたら、おそらくメディアはこぞって支持したであろうし、働き改革をめぐる議論は一変していたであろう。
 もう一つの「同一労働同一賃金制」。これは私自身多少忸怩たる思いがある。「高プロ制」の前身は「成果主義賃金制」である。その時期から野党もメディアも「残業代ゼロ制度」と批判していた。この「成果主義賃金制」について、私はその前提として「同一労働同一賃金制」を導入・定着しなければだめだ、とブログで主張してきた。この時期はまだ正規・非正規の格差問題は社会問題化していなかった。企業業績が回復の途に就いたばかりで、どの企業も正規・不正規の格差是正どころではなかったからでもある。
 が、企業業績が急回復するようになって以降、その恩恵を蒙れた正規社員と、ほとんど「蚊帳の外」に置かれてきた非正規の、社会福祉を含めての賃金格差が大きな社会問題になるようになった。で、安倍内閣が「同一労働同一賃金制」の導入を打ち出して以降、大企業のいくつかは非正規社員の正規社員への転換を進めていった。そのことを、私は問題にしているわけではない。
 ただ非正規社員の正規社員への転換を進めた大企業のほとんどは急成長を遂げつつあり、人手不足と人材難がさらなる成長にとって大きな壁として立ちふさがっていた。はっきり言って正義感からではなく、「背に腹は代えられない」行為としての正規社員への登用だった。
 誰もまだ気づいていないことを書く(もっとも、私はいくつかのメディアに同一賃金同一賃金が包含している問題点を指摘し、メディアの大半から「指摘はもっともだと思います」との好意的返事をもらっている)。それは同一労働同一賃金の対象は正規・不正規の格差是正にとどまらないということだ。パートやアルバイト、外国人労働者も、平均時間給に対して「同一労働同一賃金」を適用しなければ、画竜点睛を欠くことになる。しかし、その一方企業が支払う全従業員に支払う賃金はゼロサム(総額が変わらないこと)である。言うなら企業内弱者の賃金を上昇させれば、企業内強者の賃金を相対的に減少せざるを得なくなる。若手の有能な正規社員の賃金を減らすことは出来ないから、間違いなくしわ寄せは年功序列で管理職になった中高年社員に向かう。そのことへの社会的同意がいま出来ているとは思えない。
「内部留保を吐き出せばいい」という議論も聞こえてくるような気もするが、そうすれば企業間の強弱がはっきりしてしまい、優秀な人材(学生も含め)は好業績の企業に一極集中してしまう。企業内格差は縮小しても企業間格差が拡大し、日本全体で考えると格差はかえって拡大せざるを得ない。その格差を税金で埋めるというばかげた議論はまだ出ていないが、そういう状況になるとそういうばかげた議論が噴出しかねないことが危惧される。そうした懸念についての議論はまったく出ていない。野党やメディアはもっと勉強してほしい。
 これまでの「弱者救済横並び」型の経済政策(私が1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇』で指摘したころに比べれば、アメリカの圧力もあってかなり傾向は変わってきたが)は一切捨てて、アメリカ型の弱肉強食型経済政策に大転換するというなら、まず社会的合意を得てからの話だろう。
 少子高齢化時代を迎えて、そろそろ日本の政治は経済成長を目指すべきではない時期に来ていることを考慮しなければならないと思う。人の「幸せ感」はさまざまであり、何も高級車や高級ブランドの衣服で身をつつむことだけにあるのではない。GDP至上主義から、政治家だけでなくメディアもそろそろ脱皮してもいいころだと思う。野党に求められているのも、安倍政権のGDP至上主義的経済政策に対して、「これからの日本という国の在り方(国の形ではない)」について、「国民の幸せ感」が今どういう方向に向かっているのかを基点に、自公とは別の土俵を作って見せることにあるように、私は思う。言っておくが、「国民の幸せ感」はこうあるべきだなどという押し付け議論は一切禁止だ。

 次にアメリカ発の、兵器を使用しない世界大戦勃発の危険性について。
 トランプ大統領は確かに大統領選挙のときから「アメリカ・ファースト」を連呼していた。が、「アメリカ・ファースト」政策がここまで拡大するとはだれも想像もしていなかっただろう。中間選挙を控えてなりふり構っていられないのかもしれない。実際ある調査によれば、中間選挙で与党(現在は共和党)が勝利するには、大統領支持率を60%台に乗せる必要があるようだ(中間選挙で敗れても次期大統領選で敗北するとは限らない)。トランプ氏としては、大統領就任以来40%前後で推移してきた支持率が、一向に上がらないことで焦っているのではないかという観測もある。
 北朝鮮の核廃棄問題が一向に進展しないことについては、すでに書きあげている原稿があるが、これは賞味期限がまだ残っているので時機を見てアップするが、日本やアメリカでは「北朝鮮はこれまで何度も約束を破ってきた」と、北への不信感をあらわにしている政治家や評論家、メディアが少なくない。それは事実だから、事実として主張しても構わないが、では一方のアメリカはどうか。
 トランプ大統領になってから、アメリカはTTPから離脱し、パリ協定からも離脱し、NAFTA(北米自由貿易協定)も一方的に破棄し、さらにイラン核合意からも離脱して対イラン制裁を強めている。トランプ大統領の約1年半で、アメリカは国際的な約束をいくつも破ってきた。今後も大統領権限を行使して何をやらかすか、誰にも予測不能だ。北の変節を責めるのは自由だが、同時にアメリカの変節も俎上に上げないと、議論のやり方としてはフェアでない。
 アメリカの変節は昨今のことだけではない。安倍総理も尖閣諸島が日米安全保障条約5条の範疇に入るという言質を、いったんオバマ大統領から取り付けながら、政権が変われば政策も変わる、国家間の約束もいつ反故にされるかわからないことを熟知しているから、改めてトランプ大統領からも言質を取り付けた。そのくらいアメリカとの約束は当てにできないことが分かっていながら、アメリカ発の世界貿易戦争に対しては、日本は話し合いで問題を解決するつもりのようだし(ということはゴルフで戦争回避が出来ると思っているからかも…)、日本にとって重要な石油輸入国であり友好的な関係にあるイランへの訪問予定を一方的に取り消して、トランプ大統領のご機嫌伺いに必死だ。
 実際には安倍総理も一国の総理だ。日本の国益よりアメリカの国益を重視することはあり得ない。問題は「アメリカに追随する姿勢を見せておくことが、安全保障を含め日本の国益になる」と思い込んでいることだ。実際に安倍総理がそう言ったわけではないが、総理の言動を見ている限り論理的にはそう思い込んでいるとしか考えられない。そうした言動が、トランプ大統領をご機嫌にはさせても、ヨーロッパをはじめ諸外国から「日本はアメリカの属国になったのか」という軽蔑の目で見られていることも分かっているのだろうね。
 なお、これは非常に重要な問題なので書いておく。EUが報復処置としてハーレーの大型バイクや世界トップ・ブランドのリーバイスのジーンズに25%の関税をかけると発表し、ハーレーはEU向けの輸出バイクの生産をアメリカ国外で行うと発表、トランプ大統領を激怒させている問題だ。「ざまぁみろ」などと溜飲を下げればいいという問題ではない。ハーレーのような決断は、日本ではできないからだ。
 アメリカの企業は自由に労働者をレイオフしたり、工場閉鎖したりできる。日本では会社が潰れたり潰れそうになったりしない限り、従業員の雇用を守らなければならない。高度経済成長時代には、そうした雇用関係が従業員の会社に対するロイヤリティの高さの土壌になっており、「会社のために払った犠牲は必ず後で返してもらえる」という信頼感が労働者側にあった。いまそれは薄れつつあるが、経営者が「昔の従業員は…」と嘆いたところで、日本経済が成長期を終え、成熟期から後退期に差しかかっていることを明確に自覚する必要がある。今後、従業員との雇用関係はどうあるべきかを、経済後退期を前提に再構築していく必要があるだろう。アベさんの「働き方改革」には、そういう視点がまったくない。依然として高度経済成長時代の再現を夢見ているからだ。
 なおハーレーと違ってリーバイスは何の動きも見せていない。そもそもジーンズの生産拠点の大半は中国に移しているから、中国から輸入する場合の関税が高くなっても手の打ちようがない。せいぜい生産拠点を中国からベトナムに移すくらいのことで、すでにそうした動きは始めているかもしれない(日本では報道していないが)。

 最後にオウム死刑執行問題について。
 13人の死刑囚のうち、一気に7人が6日に死刑を執行された。メディアの解説によれば、平成に起きた大事件は平成のうちに処理しておきたいという政府の思惑があったというが、だとすれば残りの6人も新天皇が誕生する前に死刑執行という事態になる。新天皇即位の直前というのは避けたいだろうから、少なくとも年内には死刑執行が確定したと考えてもいいようだ。
 私がオウム裁判について疑問に思うのは、最高裁判事までもが世論に迎合したと思えることだ。死刑判決の基準としては、長い間「永山判決」が重視されてきた。この判決で最高裁が示した死刑判決の基準は9つある。難しい裁判用語は避けて、多少正確性を欠くかもしれないが、要点をまとめる。
①  犯行の方法(残虐性など)
②  犯行の動機(身勝手さ、同情できる余地の有無)
③  計画性(殺意の程度)
④  被害者の数(犯行の重大性)
⑤  遺族の被害感情(幼い子供の親とか配属者などが抱く感情)
⑥  社会的影響(メディアの取り上げ方?)
⑦  犯人の年齢や学歴、生育環境
⑧  前科の有無と事件内容
⑨  犯行後や逮捕後の態度(自首、反省の姿勢)
これらの9項目に合致するオウム死刑囚は13人のうち何人いたか。私ははなはだしく合理性に欠けると思わざるを得ない。
決定的なのは、犯行の実行者であり、かつ明確な殺意があったか否かの認定である。犯行の実行者というのは、実際に殺害行為を行った人物でなければならない。凶器となったサリンを車で運搬した行為が共同正犯に相当するのか。こうした解釈が最高裁で認められるということになると、いわゆる「共謀法」より恐ろしいことになる。今後の事件で、オウム事件の判例に従い「凶器を運べば、即共同正犯」という解釈が正当化されかねないからだ。
いや、そもそも凶器としての認識すらなかったと主張した被告もいた。「認識していたはずだ」と認定するだけの合理的証拠はあったのか。
殺意を真っ向から否定した被告もいた。サリンの猛毒性を科学的に熟知していなかったら、「こんな方法で何人もの人が死ぬとは思ってもいなかった」と主張したら、そういう主張を合理的に否定できる証拠はあったのか。
メディアや訳知り顔の評論家たちは「なぜこうした事件が起きたのか、高学歴のまじめな若者がなぜこういう凶悪な犯罪を起こしたのかの根源が解明されていない」と死刑執行の時期尚早を主張しているようだが、この問題の解明は永遠に不可能だ。犯人一人ひとりの深層心理を解明する必要があり、現在の犯罪心理学のレベルでは解明は不可能だ。
むしろオウム判決は、共謀法より恐ろしい判例となりうることへの警鐘を、だれも鳴らさないことへの強い憤りを私は抱いている。
最高裁判決は、ほとんどの人が正しいと思っている。とんでもない。オウム事件に関しては、一種の魔女狩りを求める空気が社会に醸成されていた。そうした空気に、最高裁判事も逆らえなかったのか、あるいは判事自身がそうした空気に呑み込まれていたのか。
この判決が今後、権力に対する市民の抵抗運動に対する弾圧を正当化する基準になりうる危険性を、私は最後に指摘しておく。

※昨夜『NHKスペシャル』でオウム死刑問題を取り上げた。やはり事件の真相は闇のままという内容だった。当時の事件裁判官も「真相を解明できないまま終わった」と悔いの言葉を発した。
放送終了後、Nスぺ担当者に電話して前記ブログ原稿を読み聞かせた。担当者は率直に「ご指摘の通りだと思いました」と、認めてくれた。Nスぺ担当者が認めてくれるより、事件裁判官に痛烈な反省をしてもらいたかった。このブログについては首相官邸を通じて法務省に伝えてもらう。