落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第七章 (13)朔太郎と広瀬川

2013-02-26 08:22:39 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(13)朔太郎と広瀬川




 群馬県・前橋市の中心部を流れる
「広瀬川」が建設されたのは応永年間(室町時代)から天文の昔といわれています。

 当時の利根川は、
赤城山のすそ野と前橋台地の間、約10数kmを乱流していましたが、
応永年間と天文8年、12年にそれぞれ大氾濫を起こしました。
特に天文12年の大氾濫では、完全に従来からの流路を変えてしまいました。


 出現した広漠たる氾濫原野を、
領主の管理下で、大規模に開拓することになりました。
ここを耕作地に変えるためにかんがい用水として、
旧河道を利用して造られたのが、現在市内を流れている広瀬川です。


 古くは農業用水のほか、
前橋城や城下の生活水や防火用としても使われました。
さらに正保2年には、利根川と結んで舟運も開始されるようにもなりました。
前橋市街地にはいくつもの河岸が開設されて、地域経済や文化の要衝になりました。


 また、時代の変遷とともに、
水車や製糸、発電等の工業用水・水道・養魚等などにも幅広く利用され、
この地域に住む人たちにとっては、豊かさと安らぎを与えてきました。
絶え間のない豊富な水の流れに沿って、心地よい風が、
河畔に並んだ柳を今日も揺らしていきます。

「広瀬川白く流れたり 時さればみな幻想は消えゆかん・・」。


 我が国における口語体自由詩を確立した、
詩人・萩原朔太郎は、前橋市内を流れる広瀬川の様子を
こんな風に詠んでいます。


 「白く流れる」は、製糸工場から流れ出した繭を煮た後に出た、
白く濁ったお湯のことをさしています。
蒸気用のたくさんの水車と共に、帯のように白く流れる繭の濁り湯は、
当時の県都・前橋が繁栄してきたことの証拠です。

 水利に恵まれたこの広瀬川沿いにあたらしい製糸工場の建設が始まりました。
琴たちが富岡に派遣されてから、それはおよそ半年後のことです。
蒸気機関とボイラーの研修のために、前橋からは2名の工男が派遣されてきました。
いずれも、もとは刀鍛冶と鉄砲の職人です。


 初めてみる異国の技術に感心をしながらも、
フランス人の技術技師を捕まえては、身ぶり手振りで質問を繰り返します。
埒の明かない問答ぶりに、見かねた琴が通訳に入りました。
貫前神社の一件以来、親しくなったフランスの女性教師たちから手ほどきを受け、
片言ぐらいのフランス話を、こなせるようになっていたためです。
さすがに、専門用語は解りませんが、意図することくらいは通じたようです。


 生糸工場で使う、糸繰り用の洋式器械などは外国から輸入をされましたが、
蒸気機関やボイラーなどの稼働設備や、パイプや配管などは、
多くが自前で加工するのがこの頃の常でした。
琴に感謝しつつ、あと半年ほどで前橋に民間第一号の製糸工場を立ち上げる予定だと
この二人が、意気込み高い言葉を琴に残してやがて帰路についていきます。



 このころの富岡製糸場では、
すでに400名を越える全国からの工女たちが働いていました。
富岡製糸場は、明治5年(1872年)10月4日に開業して、わが国の期待を
一身に背負って、近代産業化の第一歩を踏み出しました。
まだ産業革命の端緒にさえ着いていなかった当時の日本の現状の中で、
建設されたこの富岡製糸場は、欧州における近代的工場たちを、
いくつかの点おいて、すでに凌駕していました。

 まずは,その工場の規模においてです。
操糸工場は長さが140.4m,幅12.3m,高さ12.1m のレンガ造り平屋建てで、
文字通り、世界最大の規模を誇ります。

 鉄製の製糸器械等においても同じ事が言えました。
すでに産業革命が終了している欧州の器械製糸工場でも、50~150台が通常のところ、
富岡ではその倍近い、300台を所有していました。
当時において富岡製糸場は、すでに世界最大の規模を持ち、世界に誇る
生産能力を持っていたといえるでしょう。


 生産規模ばかりでなく、工場の環境衛生面でもブリューナ氏によって、
その時代としては十分すぎるほどの配慮がなされています。

 創業時,石炭の煤煙を空中に放散する役目を担っていた、
鉄製煙突は、36m 以上もの高さを誇りました
操糸工場の排水や、繭倉庫などの雨水排水用として、当初から地下に
レンガ積み排水溝なども造られていました。

 こうした配慮は,それまでの日本には見られないものです。
環境衛生思想という欧米の文化が根底にあったからこそ、
生み出されたものもたくさんありました。
富岡製糸場は、同じ時代の「女工哀史」などで語られたような
労働環境とは大きく隔たっています。

 福利厚生面での配慮なども、十分になされていました。
開業の翌年の2月頃には、フランス人医師が常駐するようになっています。
また、6畳間の病室を8室も備えた、本格的な病院が敷地内に建設をされていました。


 治療費や薬代は、工場側で負担され食費や寄宿舎も、全額が無料でした。
休日には、芝居小屋見物や貴前神社への参詣なども許されており,
季節ごとの花見や、盆踊りなども盛んに行なわれていました。

 富岡製糸場はその近代的な設備のみならず、
七曜制の導入や、労働時間や服務規律、月給制、寄宿制、診療所など、
労働環境に関わるあらゆる面において、わが国に最初に労務管理法を導入した
近代的な模範工場といえるでしょう。 


 文明開化の夜明けとは、遅れていた日本の製糸技術が、
熱心な西洋人たちの指導によって大幅な器械化が進められた時代のことをさしています。
こののちに、日本の生糸産業が西洋人たちの功績によって
輝かしい夜明けを迎えることになるのです。



 こうして貿易の主役として脚光を浴びた生糸は、
こののちに、至る所での製糸工場の建設へとつながりました。
同時にそれは、日本の歴史上はじめて、女性たちの職業的な働き場を、
大規模に生み出すという成果も生み出します。

 女性たちの社会的進出の最初のきっかけをつくったのが、
富岡製糸場の存在ならば、生糸は、今日の日本の経済的な原点を
作りあげたといっても過言ではありません。


第七章・完

・最終章へつづく




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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (24)市の身の上ばなし
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