落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(72)

2013-08-31 10:42:26 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(72)
「天神通りのアーケードの下、気になる出会いの千尋と庭園」



 上機嫌の貞園が、お昼を過ぎたばかりの天神通りのアーケードを歩いています。
いつになく上機嫌なのには、ちょっとした理由が潜んでいます。
空調設備会社の社長で遊び人としても名を馳せている林光太郎氏の離婚話が、
ようやくその最終段階へ入ったからです。
貞園が愛人生活に入ってすでに10年。結婚を露骨に夢見ていた訳ではないものの、
やはり心のどこかで、淡い期待などを抱いています。
一層の険悪化を生じてきた光太郎氏の夫婦仲は、やがて決定的な破局と呼べる段階を迎え、
お互い合意の上での別居も始まり、そうした経過のまま、すでに丸1年が経ちました。


 弁護士同士の話し合いも、ようやく最終の局面を迎えています。
離婚はすでに確定的なものとなり、誰が見ても秒読み段階へ突入をしたとさえ思われています。
油断は禁物と心に自重をしながらも、何故か笑顔が多くなってきた最近の貞園です。
光太郎氏との早めのランチを終えた貞園が、久しぶりの電話で美和子から呼び出されました。
約束のコーヒーショップへ向かう途中ですが、早すぎる時間を調節するために、
鼻歌交じりの貞園が、ウインドウショッピングなどを始めています。


 7月半ばを迎えた商店街は、夏休み商戦の真っ只中へ突入をしています。
原色の水着やリゾート用のジュニアの洋服などが通りの前面に出て、賑やかに店頭を飾ります。
貞園のお気に入りのショップでも、いつのまにか夏休み用品の大安売りがはじまっています。
群馬から栃木県を経て茨城県まで続く北関東高速道路が開通をしたために、海までの時間が大幅に
短縮をされたことで、今年は茨城県への海水浴がちょっとしたブームの兆しなどを見せています。
(わたしの欲しいモノが、海水浴のブームに負けて全てお店の奥へ撤退しているわ・・・)
ショップの奥へ移動しようとした時、見覚えのある麦わら帽子が貞園の視線の中を、
なにげへなく、ふっとした雰囲気のまま横切っていきます。




 (あら。・・・・見覚えのある、あの大きなつばの麦わら帽子です。
 先日は目深に被っていたため、顔が半分くらいしか見えなかったけれど今日は胸に抱えている。
 短い髪ですねぇ。たしか・・・ベリーショートと言う髪型だ。
 ふぅん。ちよっと小洒落た雰囲気の持ち主です。色気はないけれど成熟感は漂っています。
 ということはもう小娘の年齢ではなく、似たような年頃か、もう少し上の歳だわね。
 たまたま今日で2回目の遭遇だけど、なんとなく気になる女です・・・・
 いったいどこの、何者だろう?)



 後ろ姿を追うようにして、貞園がショップの店頭へ出ます。
小柄な体型によく似合っているブルーのワンピース姿が、特別に急ぐ様子なども見せず、
光沢の良い布袋を下げて、アーケード通りを北の出口へ向かって遠ざかります。
(洒落た布袋です。和風の『巾着』と言うのかしら。生地の光沢がまるでシルクのような輝いている。
 へぇぇ。洋服に和風もアイテムを合わせているんだ、まさに和洋折衷の見本です・・・・
 なんとなくサマになってるから、なんとも不思議な組み合わせです。)


 興味を惹かれた貞園が、麦わら帽子のあとをつけようと歩きはじめます。
その時、バッグの中の携帯が、軽やかなメロディで着信を告げはじめました。(誰だろう。今頃)
人ごみの中で見え隠れを繰り返す女の背中姿を目で追いながら、貞園が携帯を取り出します。
液晶画面に表示されたのは、美和子からの携帯番号です。


 『もしもし、貞ちゃん。
 予定よりも早く着いたの。今、天神通りの北からアーケードを歩き始めたところです。
 貞ちゃんは、どこなの? いま』


 『あたしも早めについて、いま、アーケードの真ん中で立ち往生中。
 ある人物を追跡中なのよ。悪いわね、すぐまた後でかけ直します。とっても急ぐのよ』


 『もしもし。貞ちゃん。探偵社じゃあるまいし、なにやってんのよ真っ昼間から』


 『とにかく事は至急を要するの。いい女が見えなくなっちゃうわ。』



 あわてて携帯を切り、もう一度前方を貞園が確認します。
その目には、呑竜マーケットの角をいままさに曲がろうとしている麦わら帽子の
女性の背中姿が飛び込んできました。
(呑竜マーケットの角を曲がる? 昼間から何の用事で飲み屋横丁へ入っていくんだろう・・・・)
小走りになった貞園が、軽やかに呑竜マーケットの入口まで走り寄ります。


 呑竜マーケットの路地道で、この時間帯に営業をしている店舗は一軒としてありません。
80mにも満たない通り抜けの形を持った、この飲んべいのための横丁の小道は、
まったく静かな気配を保ったまま、人っ子ひとり見えずにひっそりと静まり返っています。
(あらまぁ。女性の姿が消えちゃった。おかしいわね・・・たしかにここを曲がったはずなのに)
狐につままれたかのように、呆然とした貞園が呑竜マーケットの入口で立ちすくみます。


 「なにしているの。まっ昼間から。
 意味がわかりません。いい女を追跡中だなんて、いったい全体何がどうしたの」


 携帯を片手に、怪訝な顔で美和子がアーケード通りの北から現れました。


 「大きなつばの麦わら帽子を胸に持って、和風の巾着を手にしたブルーのワンピース女が
 美和ちゃんが歩いてきた方向へ行かなかった?」

 「ずいぶんはっきりとした特徴の持ち主ですね。いくつぐらいの女かしら?」

 「歳は、あたしと同じか、少し上だと思う。
 ベリーショートの髪型だけど、後ろから見たので顔はよく見えなかった」


 「顔も見えないのに、なんでいい女と判明するの」



 「なんとなく雰囲気が良いし、この間もたまたま見かけたばかりだから気になるの。
 先日も呑竜マーケットの路地から出てきたし、今日もまたこの路地の中へ入っていったのよ。
 見失う距離じやないと思ったのに追いついたと思ったら、また、いつのまにか消えちゃった。
 変よねぇ。でもね、なんだかとっても気になる女なの」


 「ふぅ~ん。不思議なこともあるものです。
 そうすると呑竜マーケットの新しいママさんか、お店の従業員さんじゃないかしら。
 このあたりでよく見かけて、行き会うということなら」


 「水商売をするようには、とても見えません。
 美和ちゃんやあたしたちの雰囲気ともまったく別物で、清楚な感じがしているし、
 女として見ても、無視ができないような良い雰囲気が漂っているだもの。
 やっぱり、なんだかとても気になるのよ」


 「悪かったわね、私が清楚でなくて。
 愛人と人妻というふたりなら、そう言う意味では、誰が見ても汚れた女です。
 貞ちゃんと同じくらいで、30歳近くになるというのに、そういう汚れた雰囲気を
 まったく持ち合わせいない清楚な雰囲気のある女、と言う意味になるのか。
 ふぅん。思いがけない突然というべき、清純派女優の登場ですね。
 たしかに私たちから見れば、別の魅力を持った強敵ということになりそうです、その女は。
 でも、まったくの赤の他人でしょ。気にしてもしかたないじゃないの」


 「でもねぇなんて言うか。妙に怪しい胸騒ぎがするの。
 わたしたちの間に、割り込んで来なければいいなと思うような、そんな、何かが」



 「康平に、恋人でも出来たような口ぶりですね」


 「まさかぁ、康平に限ってそれは、ありえない話でしょう。
 ただ私が気になるだけの話です。
 まぁいいか。ただの危惧かもしれないし、今のところ我々には何の関係もないもの。
 こんな処で立ち話をしていても仕方ありません。で、なんなの美和ちゃんのお話って。
 わざわざ呼び出されるなんて、康平のお店以外では初めてだもの。
 ゆっくりしましょうよ。いつものコーヒーショップで」




・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(71)

2013-08-30 09:51:08 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(71)
「ヤキモチ焼きの白衣大観音と、ふたりの小指を結ぶ赤い糸」




 伊勢崎市から郊外ののどかな道を
15分ほど走ると、前方に上越新幹線が乗り入れている高崎駅が見えてきます。
北陸新幹線の起点にもなっている真新しい高崎の駅ビルは、整備された高架とともに新しい街づくりを
すすめている高崎市の最新のシンボルにもなっています。
千尋が見つけたのは、その後方に連なる丘陵地で白い姿を見せている観音像です。


 「信越線の車窓からもよく見えます。国道18号からも何度も見上げたけれど、
 まだ一度も、観音様の足元まで行ったことがないのよ」


 「白衣大観音」と呼ばれ、市内のどこからでも見ることができる丘の頂上に立つ観音像は、
高さは41.8メートル。重さは6,000トンにおよぶコンクリート製です。
観音像の胎内を、肩の位置まで登れることでも知られています。
1936(昭和11年)年に建立されて以来、長い間にわたって高崎市のシンボルとして愛され、
慈悲深く優しいまなざしは、まるで人々の平和を見守っているかのような印象さえあります。
だが、さすがに、康平が二の足を踏みます。


 「千尋ちゃん。群馬県人のジンクスというやつを知っているかい?
 結ばれる前の恋人同士が観音様を見学に行くと、ヤキモチ焼きの白衣大観音が
 怒って、ふたりを別れさせてしまうんだ。
 恋人同士や若い男女のデートコースには適さない場所として敬遠されているんだ」



 「あら。知らないの康平くん。観音様が変わったことを。
 縁結びの観音様として、クリスマスやバレンタインデーの日には、
 観音様の小指から、恋人たちのために願いを叶えるという赤い糸が垂らされるのよ。
 この赤い糸を求めて、恋人たちが行列を作るという噂です。
 あなたって、意外なほど情報に疎い古典的な上州人ですねぇ。遅れてますよ。うふふ」



 ねぇぇ、行こうよ。と甘える千尋についに負け、康平が観音山を目指します。
小指に絡む絹糸は、ふたりをむすんで切れた糸・・・・と、美和子の作詞した夜の糸ぐるまの
一節を口ずさみながらバックシートの千尋はかなりの上機嫌です。
背中へ伝わってくる千尋のぬくもりまで、いちだんと急接近をしたような感さえあります。
標高200mあまりの観音山の頂上までは、ゆるい坂道のすべてに桜並木がどこまでも続きます。
5分足らずで着いてしまう頂上からは、全方位にむけて視界が開けています。


 特に、遮るものが何ひとつない観音山の頂上からは、関東平野の雄大な広がりが一望できます。
足元には高崎市のすべての市街地が広がり、北へ目を転じれば長く裾野を引く赤城山の雄姿が見え、
その麓のすべてを埋め尽くすように、前橋市の広大な市街地が横たわっています。
ひとつだけポンと槍のように突き出しているのは、最近完成をしたばかりの33階建ての群馬県庁の姿です。
またここからは、上毛3山と呼ばれる赤城山、榛名山、妙義山の山容の全てを見ることもできます。


 白衣大観音の全容を足元から見上げた千尋が、あらためてその大きさに、
思わず、感嘆のため息などを漏らしています。
足元から見上げた観音様には想像をはるかに超えた大きさがあり、さらに上空30メートルの
高さにある観音様の白い小指からは、裏手側にある小さな建物に向かって、
一本の赤い糸が垂れ下がっているのが見えています。



 「え?。赤い糸が見える・・・・」千尋の目が一瞬にして輝きます。


 「2月14日からはじまったという『赤い糸祈願祭』はとうに終わったはずなのに、
 でも不思議ですねぇ。観音様の背後には、いったいなにがあるのかしら・・・・」



 期待を込めて観音様の裏手へ、小走りの千尋が消えていきます。
例年2月14日からはじまる『赤い糸祈願祭」は、観音様の小指と縁結びを願う人たちの
小指を赤い糸で結び、その願いが叶うようにと祈るものです。
祈願祭の期間中は足元にある香炉堂の屋根と結ばれており、そこから小分けに出された赤い糸が
それぞれの参拝者たちの小指と結ばれるような形をとっています。


 観音様の裏手には『光音堂』という聖観音菩薩が本尊の、六角堂が設置されています。
特に、縁結び・恋愛成就・良縁成就などの祈願をすると良いと言われ、別名を「一願観音」
とも言われています。千尋が見つけた赤い糸は、この六角堂から観音様と参拝者を結ぶもので、
イベントの好評に応え、一定期間だけを延長してあえて常設化をされたものです。

 
 すこし興奮気味の千尋が、赤い頬を見せたまま赤い糸の端を握りしめます。
運命の赤い糸とは、中国に発し東アジアで広く信じられている人と人を結ぶ伝説のことで、
中国語で「紅線」と呼ばれています。
昔からの言い伝えで、「運命的な出会いをする男と女は、生まれたときからお互いの
小指と小指が目に見えない『赤い糸』で結ばれている」といういわれのものです。
「赤い糸」の由来は、このように、なかなかにロマンチックな話です。
いかにも東洋風な趣や伝承と思いがちですが、実は日本の「古事記」や「日本書紀」にも
たびたび登場をしてきます。


 その昔、イクタマヨリヒメという未婚の娘が妊娠してしまい、
両親が問い詰めると、見知らぬ男が毎晩、部屋に通って来たことを打ち明けます。
両親は一計を案じ、寝床の周囲に赤土を蒔いておき、男が忍んで来たならば、
その衣服のすそに糸を通した針を刺すようにと、娘を言い含めました。
翌朝、娘の部屋から出発した赤い糸を手繰ってみると、遠く三輪山の神の社まで続いており、
その男は、大物主(オオモノヌシ)の大神であったと判明をします。
この三輪山の伝説から、赤い糸の言い伝えが始まったと伝えられています。
また、小指は本来「契り」そのものを意味しているようです。


 中国の「続幽怪録」に出てくる「赤縄足をつなぐ」という言葉が、語源だという説もあります。
韋固(いこ)という若い男が、月の夜、大きな袋にもたれて本を読んでいる老人と出会います。
その老人の持っていた大きな袋の中には赤い縄が入っていて、それは
「男と女の足を結ぶと、どんなに憎しみあっている敵同士でも、
どんな遠くに住んでいても、夫婦になってしまう能力」を持っていると言うのです。
そして、運命が見えているという老人は、その男に将来妻になるはずの女性のことを教えます。
そしてその予言通りに14年後に韋固(いこ)は、その女性と結ばれる事になったのです。
この逸話から、将来夫婦になる男女は赤い縄で足が結ばれていて、
その運命は、最初から定められていると言う伝説になりました。
結ばれているのが「小指」となったのは、話が伝承されている内に変化していったのではないか?
ともいわれています・・・・


 しかし、思いがけない出来事に、当の千尋は上機嫌です。
上空30mの白衣大観音の小指から垂らされた運命の赤い糸は、すでに願い事が叶うという
六角堂を経由して、千尋の手の中へしっかりと収まっています。
くるりと自分の小指へ赤い糸を巻きつけた千尋が、上気した目で康平を呼びつけています。
気配に呼ばれ思わず近づいた康平へ、千尋が小さくつぶやきかけます。



 「こんなわたしでよければ、この先も、付き合っていただけますか・・・・」

 「はい。私でよければそのつもりで、います」


 お願いね、とさらに小さな声でつぶやきながら、
赤い糸の先端を康平の小指へ、くるりとひと巻き、心をこめて巻き付けてしまいます。
「叶うといいですね。わたしたちの季節はずれのお願いが」と、風に揺れる赤い糸の先をたどり、
はるか頭上にある観音様の小指を見上げています。





・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(70)

2013-08-29 11:36:21 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(70)
「食後の腹ごなしに、康平のスクータは群馬県内を東から西へと走る」




 「悪いわ。お昼はご馳走になっちゃうし、
 そのうえ私の住んでいる安中市まで送ってくれるなんて、恐縮しちゃいます。
 途中のJRの駅で降ろしてくれれば、いつものように電車で帰れるのに」


 「滅多にない機会です。
 こいつ(愛車のフォルツァ)も、久しぶりの遠乗りで喜んでいますから」


 関東平野の最北端に位置している群馬県の地形は、きわめて変化に富んでいます。
県の南部一帯には標高50m前後の平坦地が広がりますが、県都の前橋市と隣接をする高崎市を
北限にして山間地と山岳部がはじまります。
千尋の住む安中市は群馬県の西部に位置し、西は長野県の軽井沢町と接しています。
標高は安中市役所で180m。碓氷峠の登り口に当たる松井田町で297m。
長野へ通じる県境の道路『碓氷峠』の最高点は、960m。



 明治の初めに脚光を浴び始めたおおくの器械製糸とは一線を画し、
座ぐり器を用いた生糸の生産が、安中市を中心にひとつの時代を築いてきました。
その歴史の中で代表格的な役割を果たしたといわれているかつての『碓氷社』は、明治時代、
磯部に住む有志によって組織をされた、農民による座繰り糸の共同組合です。


 碓氷社で生産された製糸は、輸出量で日本一を誇りその品質でも最高級の評価を得ています。
養蚕農家で育てられた蚕から、上州座繰りで生糸を紬いで仕上げたものが『五人娘』や
『二人娘』などのブランド名で輸出され米国や西欧で、大変高い評価を受けてきました。


 現在も使われている上州座繰り器には、細糸用と太糸(玉糸)用の2種類がありますが、
ハンドル一回転あたりでの小枠の回転数が、7回転と4回転半という仕様の差があります。
碓氷郡や甘楽郡、富岡地方あたりでは、輸出用に細糸を繰糸した為に、
7回転のものが主で、これらは「富岡式座繰り」と呼ばれています。
前橋や中毛地域では営業製糸や器械製糸が多く、二等繭や玉繭の座繰り繰糸の比率が高かったために、
このような原料を繰糸するには、トルク(力のこと)のある4回転半が好まれ、
こちらは「前橋座繰り」と呼ばれました。


 「私が上州座ぐり器というものを初めて見たのは、2000年の夏です。
 松井田町にある碓氷製糸農業協同組合というところで、器械製糸とは対極にある、
 手作りの「座繰り糸」の挑戦が始まりました。
 私ともうひとり、美和子さんという同年代の女性と2人でコンビを組み、
 上州座繰り器で糸をひく修業がはじまりました。努力の甲斐があって2年ほどで
 ようやく商品として、出荷ができるようにもなりました」


 「美和子・・・・。美和子とコンビを組んでいたのですか。あなたは」


 「うふふ。驚くにはあたりません。
 美和子ちゃんには作詞の才能があり、そちらへ進むことを助言したのも実は私です。
 毎日毎日、糸を引くだけの単調な暮らしの中で、美和子ちゃんはいつも明るく歌を唄っていました。
 心に浮かんでくる言葉を上手に織り上げ、詩を作ることにも熱中をしていました。
 埋もれさせるのにはもったいないほどの作品たちでした。
 2年間、私たちがお世話になった碓氷製糸を巣立つ時に、座ぐり糸の作家としてではなく、
 歌手と作詞の道へ進むように、私は彼女にすすめました。
 実は、徳次郎さんのお宅を訪ねるようになってから、あなたたち2人が
 古い馴染みの、初恋同士の仲良しだったということを聞かされました」


 「全部、知っていたのですか・・・・」


 「彼女について、それ以上の詳しいことは知りません。
 先日あるところで、たまたま『夜の糸ぐるま』を聞きましたが、いい歌だと思いました。
 やっぱり才能のある人は羨ましい。そう、つくづく痛感しました」

 「座ぐり糸作家という仕事も、才能やセンスを問われる大変な仕事のひとつだと思います」

 「いまだに、荒れ狂う大海を流されていく難破船のようです。私は」



 「それは、座ぐり糸を取り巻く環境が過酷だという話ですか。
 なんの仕事でも、これで生きていくとなれば、心に葛藤は生まれてくるようです。
 ましてや養蚕が衰退をし、生糸の需要も減り、高価な絹製品の前途が危ぶまれています。
 でもあなたを見ていると、糸を引くことに強い誇りをお持ちのように見えます。
 『天職』に携わっているという輝きさえ、感じる時があります。
 あなたと座ぐり糸は、運命の糸で結ばれているのかもしれません」


 「うまいことを言いますね、あなたも・・・・うふ」


 順調に走る康平のスクーターが、焼きまんじゅうの町・伊勢崎市の中心部を抜け、
そのまま高崎市へと向かう郊外の道路へ出てきました。
ふと黙り込んでしまった千尋の様子を心配して、康平が会話のきっかけを作ります。


 「あなたのお話を、聞きせてもらえますか。
 さしつかえなければ、座ぐり糸を始めた頃のことなどを教えてください」


 
 「では、そのあたりの昔話でもしましょうか。
 努力の甲斐があってようやく自分のひく糸に、碓氷製糸からお墨付きをもらえた時には、
 頑張ったかいがあったと思い、美和子とふたりでおおいに喜びました。
 そしてその後も、意気揚々と毎日のように座繰り器を回し続けました。
 一日7時間。手首の疲れもまったく気になりませんでした。
 ところが座繰り糸の生産量は1人当たり、いくらがんばっても1日に200グラム前後です。
 器械製糸なら、その70倍の14キロ前後。座繰り糸の方が高値で売れるとはいえ、
 差は歴然とついてしまいます。当然のことで、
 座ぐり糸の部門は、会社の中で不採算部門となってしまいました。

 生産量を増やすことが、プレッシャーにもなりました。
 『碓氷製糸のため、たくさん糸をひきたい。でも座繰り糸は量よりも質のほうが大事。
 焦ってひいたら、いい糸はできない』。
 わたしの心にも、美和子ちゃんにも、同じように心の葛藤が生まれました。
 それとともに、大きな疑問と迷いも生じてきました
 『自分の糸はどこで何に使われたのだろう。いい糸だったのだろうか。
 もっと、糸を使う人とコミュニケーションを持ちたい。
 このままでほんとうにいいのだろうか』

 次のステップを目指すために、わたしたちは、2年間で碓氷製糸を巣立ちました。
 あの2年間は、自由に勉強をさせてもらった貴重な時間だったと今でも感謝をしています。
 碓氷製糸がなければ、今の私はないと今でも私はそう思っています。
 巣立つ前に、わたしたちは碓氷製糸の職員たちに技術を伝えました。
 でもわたしにはまだ、この先でどういう糸が必要とされるか、いまだに分かりません。
 特徴のある糸を作れることが大切だとは思いますが、まだ現実にそうした姿は見えてきません。
 でも私なりに、充実をした糸作りができているとは考えています。
 収入は多くありませんが、何とか生活はできます。
 急げば1日500グラムの糸をひけますが、400グラムに留めています。
 心の余裕が大事ですので、焦らず、丁寧にが私の持っているスタンスです。
 あら・・・・ねぇ、あれ。
 美和子ちゃんが歌った、白衣観音でしょ、あれって。ほら、あの山の上に見えるのは!」





・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(69)

2013-08-28 10:50:05 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(69)
「大田市の名物焼きそばは、太麺でイカ墨のようにまっくろけ」




 「これから行く石橋という地名は、石橋を叩いて渡る時のあの石橋です。
 そこは老舗のひとつで名店と呼ばれていますが、特徴的な麺を使った焼きそばですので、
 もしかしたら、軽い衝撃などを受けるかもしれません」


 「衝撃的な焼きそばですか?
 想像がつきません。いったどのようなものでしょう」


 「百聞は一見にしかず。
 出てくるまでは一切秘密です。何が出てくるか楽しみにしていてください」



 太田市には、個性豊かな焼そば店が揃っています。
伝統の味から新しい味まで、それぞれの店舗でそれぞれの味を楽しむことができます。
大田市で、これほどまでに焼きそばの文化が根付いてきた背景には、自動車メーカー
『富士重工』の存在が、きわめて大きいと言われています。


 工業の町として古くから栄えてきた太田市には、各地から沢山の人たちが働きにやって来ました。
雪に閉ざされる冬場、東北地方から働きに来る人たちが特に多かったと言われています。
東北地方は横手焼きそばや黒石つゆ焼きそば、石巻焼きそば、なみえ焼きそばなどが有名で、
日常的に焼きそばが食べられてきた地域としても知られています。
横手焼きそばで知られる秋田県からこの太田に働きに来ていた人たちの数が多く、そうした人々の
流れの中で、自然に焼きそばも入ってきたというのが今日の定説です。


 汁のない焼きそばは伸びることもなく、安くてボリュームがあり、手軽に
お腹も一杯になったために、工員の間で広く受け入れられてきたという経過もあります。
こうしたことから市内の定食屋や駄菓子屋などでも提供されるようになり、やがて定着をしてきました。
今日では、太田市内で焼きそばを提供する店は80軒を越えるといわれ、
いかに地元の人々に愛されているかが、このことからもわかります。
昭和20~30年代には、「子育て呑龍」で名前を知られている大光院の参道にも、
屋台をはじめ、数多くの焼そば屋が軒を並べたと伝えられています。



 康平のスクーターが到着をしたのは、太田焼きそばといえばここをあげる人も多い、
太田焼きそばを代表的するお店の一つです。
混んでいる時には随分と待たされるので、慣れている人は電話であらかじめ注文し、
テイクアウトで食べるのがいい、というアドバイスをするほどです。
覚悟はしていたものの、日がよいのかお昼の時間をだいぶ過ぎていたためなのか、
店内は奇跡的にも空席がひとつだけありました。
その席へ座った康平が、早速2人前の焼きそばと焼きまんじゅうの注文を出しますが、
メニューを食い入るように見つめている千尋が、『ちょっと待って。うふふ』と
なぜか意味ありそうに微笑んでいます。


 「ねぇぇ。トコロテンがなんと1皿、120円ですって!。
 うふ。なぜか食欲をそそられてしまいます・・・・こちらにも」


 「了解です。お姉さん、トコロテンも『特大』でひとつ追加をしてください」



 大きな窓に囲まれた店内には外の日差しがさしこみ、明るい雰囲気が溢れています。
チャン、チャン、チャン、という鉄板にヘラがあたる音をおぼろげに聞きながら、
壁にはられたポスターを眺めたり、メニューを覗いたりしながら二人が時間を過ごします。
千尋も歩きつかれた足を伸ばし、ようやく肩の力を抜いてリラックスなどをしています。
ちょっと平和でのんびりとした空気が、二人の間に流れていきます。


 待つこと10分あまり。
のんびりとした昼下がりの穏やかな空気の中、突如として、どっしりとした
きわめて存在感のあるものが、千尋の目の前に運ばれてきました。
「何これ!」「黒い!」「しかも太い!!!」突如として現れた太田市の焼きそばは、
千尋の持つ焼きそばという概念を、はるかに超えた、まったく別次元と呼べるシロモノです。


 通常の焼きそばの麺の、二倍近くはあろうかという太い麺。
そして何よりもインパクトが強いのは、その濃厚なまでに麺を染めあげた黒い色。
黒っぽいといっても、イカ墨の様な黒さではありません。
焦茶色がかった黒色で、家具ならば、かなりの趣を感じさせそうな色合いです。
しかし焼きそばの麺として見たときには、やはり常軌を逸した黒さがそこには潜んでいます。
頭の中にある通常の焼きそばの、ソースがからんだ白い麺のイメージから見ると
あまりに濃すぎる黒色に思わず、「黒すぎる」と、千尋が絶叫をします!。


 一通りの衝撃を受けたあと、ようやく落ち着きを見せた千尋が、やがて試食に入ります。
ずっしりとした麺を箸でこわごわと持ちあげ、たぐりよせるようにして口の中に入れていきます。
ハフハフと麺をたぐります。もぐもぐと咀嚼をします。
驚ろき放しの尋の瞳は、いまだに丸く点になったままその全神経は、ひたすら咀嚼中の
真っ黒い焼きそばの味覚に集中をしていきます。


 「あら・・・・」



 初めて見た時の驚きが、ここで初めて味への驚きへと変わります。
予想外と思えるほどの美味しさに、緊張を見せていた千尋の顔へようやく笑顔が戻ってきました。
見た目だけのインパクトで、味は二の次くらいなんだろうと高をくくっていた疑心の顔から、
食いしん坊丸出しの千尋の顔へ、ようやく戻ってきます。


 「美味しい!
 話題性だけが先行して、味があまり伴っていないような、一度きり食べ切りの
 B級グルメかと実は、勝手に思い込んでいました。
 でも、口の中に広がるソースの香りと、キャベツの芳醇な甘みがとても素敵です。
 もっちりとしていて、食感が旨みを倍化させる極太麺の味わいも、いう事がありません。
 色から想像したしょっぱすぎる感じもないし、やぼったい感じもありません。
 ねっとりと濃すぎることもなく、くどすぎる感じもしません。
 私、これならやみつきになりそうです」


 さして期待をしていなかった反動もあるのでしょうが、思わぬ美味しさに
箸は一向に止まらず、千尋は次から次へと黒い麺をたぐりたぐり食べすすめてしまいます。
スパイシーな辛さや酸味などはあまり感じられず、どちらかというと優しくさっぱりとした
独特の甘みのあるソースは、飽きが来ずに食べやすい食感です。
思い込みへの反省は、やがて少しずつ美味しさへの悦びに変わっていきます。
千尋の顔には、麺が体に取り込まれていくたびに、なんだかちょっとずつ
嬉しそうな表情が増して来るから不思議です。


 お皿の上に残るのが、何片かのぴったり張り付いた青海苔のかけらだけになる頃には、
いい感じの満足感が、千尋の身体から満ち溢れてきました。
それは、こんがりと日焼けして真っ黒になったどこかの遊び人に見える兄ちゃんが、
誰も見ていないところで、とびっきりの優しい笑顔で見知らぬおばあさんの手を引いて
横断歩道を渡っていたのを目撃した時の様な、なぜか心がほっこりする、
そんな「イイ感じ」の、心持ちのようにさえ見えてしまいます。




 さらに、焼きまんじゅうとトコロテンが『お待ちどうさま』の声とともにやって来ると
千尋の喜びは最高潮へと達し、ついには笑顔がはちきれそうになってきました。



  

・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/



からっ風と、繭の郷の子守唄(68) 

2013-08-27 09:40:19 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(68) 
「古墳時代にヤマトから伝わってきた絹が、やがて群馬の源となる」





 「絹は、その頃にヤマトの軍勢により持ち込まれたと考えられています。
 船で川を遡ってきたヤマトの大軍勢は、湿地がひろがるこの一帯への上陸を余儀なくされました。
 利根川は、ここから上流へ行くと流れが急に強くなり、川幅もさらに狭くなります。
 湿地の一帯は稲作の水田に適し、大地が乾き始めるこの地より北が桑の畑にされたようです。
 事実、この天神山古墳がつくられた100年ほど後に、ここで生産された太古の絹、
 『仁田山絹』が、朝廷へ上納されています。
 仁田山はここから10キロほど北に位置し、現在の桐生市にあたります。
 桐生市に残っている織姫伝説は、都へ仕えた若者が宮中で働らいていた女性を嫁にめとり、
 田舎へ連れ戻り、絹の織り方を教えたことがそのはじまりと記されています」


 「その絹の伝説なら、私も聞いたことがあります。
 守り神にもなっているご神仏の岩からは、今でもトンカラりという音が鳴るそうです。
 隣接している足利市の高台に、朱塗りの織姫神社があります。
 自然豊かな公園にもなっていますので、散策がてらそちらも何度か訪ねました。
 足利もまた、歴史に登場をしてくる有名な足利一族の発祥の地ですね」


 「渡良瀬川を挟んで、鎌倉幕府を倒した新田義貞の一族と
 その後に覇権を握った足利氏が、わずかな距離でここの北と南に拠点を構えていました。
 古墳時代にヤマトからの大軍が、この地へやってきたという記録がありますから、
 もともとは同族か、血の通った東国の一族と言えるでしょう。
 いずれにしても、東国武将へとつながる血はそのころからの定着だと言われています。
 足利にある織姫神社に祀られている2人の祭神も、ヤマトから伝えられたものです。
 太古の昔から機織を司る天御鉾命(あめのみ ほこのみこと)と、
 天八千々姫命(あめのやちち ひめのみこと)という、二柱の神様です。
 この二柱の神様は、もともと皇太神宮御料の織物を織って奉納をしていた
 伊勢国の渡会郡出井の郷にある、御織殿の祭神と言われています。
 1200年の歴史と伝統を誇る足利の全産業の守護神として、この二柱の神を勧請し、
 その分霊を祀っているのが、現在の織姫神社です」



 「あら、詳しいですね、康平くん。
 お料理ばかりか、古代史にも造詣をお持ちのようです。かなりの博学です」



 「ほとんど、徳次郎爺さんからの受け売りです。
 農家のくせに、昔から中国に伝わる易学の研究が大好きで、それに飽きたのか
 最近は古代史にも興味を持ち始めてきたようです。
 近所で発掘調査が始まると聞けば、手弁当で応援に駆けつけるほどの熱に入れようです。
 出動をしてくるたびに、仕入れてきた新ネタを聞かされる羽目になります。
 いやでも、古代史にも詳しくなります」


 「そういうことなら、私もひとつ。
 嵯峨野でまだ、美術学校の生徒をしている頃に聞いたはなしです。
 丹波(たんば)のしずかな山里につたわる、桑の話です。
 和泉式部(いずみしきぶ)という有名な歌人が、旅のとちゅうでこの村に立ち寄りました。
 京の都から、役人として丹後国(たんごのくに)にいる、夫の元へ行くところです。
 ちょうどその時、ひどい嵐がやってきました。
 何日も大雨が降り続いて、川はあふれ、村にあった橋はみんな流されて、
 和泉式部は村から出ることができなくなってしまいました。
 困りましたがどうすることもできません。
 そのころは、ひとつの橋をかけるにも何年もかかったのです。
 親切な村の人たちは、式部に家を貸してくれました。
 それだけでなく、畑でとれた野菜やら、山でとれたいのししの肉やら、お米やら、
 かわるがわる食べ物も持ってきてくれました。
 それで、式部はなにひとつ不自由なく、安心して過ごすことができました。

 日がたつにつれて、式部にも村のようすがわかってきました。
 もともとが小さな山の村です。
 ただでさえ十分でない田畑が大雨で荒れて、作物も思うようにできなくなっていました。
 それでも村人たちは、自分の食べる分を減らして、式部に食べ物を持ってきてくれていたのです。
 何とかして村を豊かにできないものか。式部は考えました。
 そして、村人を集めると、こんなふうに話しました。
 「桑(くわ)の木を植えてみませんか。蚕(かいこ)を育てて、絹糸を作るのです。」


 村の人たちは、これまで蚕など見たこともありません。
 「わしらにできるんやろか。」
 「お金がもうかるんやろか。」
 「糸なんか、どないしてつくったらええんやろ。」
 みんなが口々に話していると、村でいちばんの年寄りがこんなふうに言いました。
 「初めてのことやけど、式部さんが言わはるんやからまちがいないやろ。
 みんなで力合わせて、頑張ろうやないか。」

 次の日から、大人も子ども力を合わせて山を開き、桑の木を植えてゆきました。
 三年がすぎるころ、山には立派な桑畑ができ、どの家も蚕を飼うようになっていました。
 村人たちはみんな一生懸命に働いたので、繭もたくさんとれるようになってきました。


 「うそみたいやのう。」
 「みんなでよう頑張ったおかげや。」
 「式部さんのおかげや。」


 村の人たちは、暮らしが豊かになることを夢に見ながら、喜び合いました。
 繭からつむいだ糸で、きれいな布を織ることも覚えました。
 やがてあの大雨で流された橋もできあがり、式部が丹後へ旅立つ日をむかえました。


 桑原の 里に引くまゆ 拾い置きて 君が八千代の 衣糸にせん

 こんな歌を残し、なごりをおしみながら、式部は村を去ってゆきました。
 それからもみんなが力を合わせたおかげで、桑畑はよくしげりましたのでだれ言うとなく、
 この村は桑原と呼ばれるようになりました。
 今でも桑原村のまんなかには、式部をしのぶ供養塔があって、
 村の人たちが、いつもきれいな花をおそなえしているそうです」





 「なるほどね。
 日本中にはたくさんの織姫伝説と、絹発祥の逸話があるようです。
 古代の農業は、穀物を育てることと、桑を育て蚕を飼って生糸をとり、
 衣を織り上げるのが主な仕事だったようです。
 さて、なんだか長い話をしているうちに、お昼が過ぎてしまいそうです。
 それでは、ようやく本日のメインイベント。
 焼きそばと焼きまんじゅうのそろい踏みといきますか。
 太田市は焼きそばの街で、個性豊かな焼きそば店がたくさん揃っています。
 その中の老舗のひとつで、黒い焼きそばが有名なお店があります。
 なぜ黒いのか、どうして黒いのか、それは食べてみてからのお楽しみです。
 ただしお嬢さん。美味しいもののためには、若干、行列などをする覚悟が必要です。
 覚悟のほど、よろしくお願いします」


 「あらぁ~。さすがに群馬ですね。
 たかが焼きそばと、焼きまんじゅうのために、みなさんで行列をするのですか!。
 はい!。しっかりと覚悟のほどを、たった今ですが決めました」


 「いいね、君のその『はい』という返事は。何度聞いても、とても素敵な響きがある」




  
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/