落合順平 作品集

現代小説の部屋。

 舞うが如く 第六章 (4)あらたな旅路

2013-02-01 12:26:39 | 現代小説
 舞うが如く 第六章
(4)あらたな旅路



 旅支度の琴と八重がほとんど同時に振り返りました。
3分の2が廃墟となってしまった若松の城下を見下ろすことのできる峠道です。
ひと月にわたる籠城の末、砲弾の傷跡が無数に残る鶴ヶ城を足元に見下ろせる
峠に差し掛かりました。



 山本八重は兄の覚馬を頼って単身、京都へ行くことを決意しました。
琴も、庄内に先住している兄を訪ねることになりました。
それぞれの行き先がここから分岐をする峠の道で、どちらからともなく寄り添って
眼下の廃墟に眼をこらしています。


 「栄華をきわめた街並みが
 わずかにひと月で、焦土と化してしまいました。
 2000人にもおよぶという会津兵の死骸も、
 埋葬することが許されず、放置されたままと聞きおよんでいます。
 敗戦ゆえの処置とは言え、むごいことにありまする。
 会津はこの先一体、どうなるのでしょう、
 この荒廃と、どん底の失意から立ち直ってくれるのでありましょうか。」


 「八重殿、
 案ずることはありませぬ、
 男たちが、生命をかけて壊したものは、
 おなごと子供たちが築き直すことになるでしょう。
 街並みが消え、多くの命が失われ、城ががれきの山と化しても
 生命の営みが終わったわけではありませぬ。
 また、たくましく復興して以前よりも美しい会津の町が
 きっとうまれることになるでしょう。
 ただし、
 そのために、
 待っているのは厳しい試練の数々ですが、
 会津の魂は、それらを逞しく乗り越えて、きっと
 それらを成し遂げてくれることでありましょう。」

 琴が八重の肩を抱き、焦土から目を離さずにそう締めくくります。
しかし、その目にもかすかに濡れるものがあります。

 「門出に、
 涙は不吉です。
 わたしとしたことが・・・」

 目がしらをぬぐう琴に、
八重も思わず我が目をこすりあげました。
分岐した道が、それぞれの行く先を見え隠れさせながら
ゆるやかに下り始める地点にまでやってきました。
別れる前にと、八重が懐から一枚の短冊を取り出しました。

 「何もお返しができませぬゆえ、
 辞世の句と思い、開城のおりにひそかに詠んだものでございます。
 稚拙ではありますが、八重の本音が籠っています。
 妹からのものと思い、
 笑ってお受け取りください。」

 
 琴が笑って受け止めます。



 「京都までは、
 20日と少しの旅路にありまする。
 上州、信州、甲斐と、険しい山道なども続きまするが、
 いずこも、明媚なる街道にございます。
 2度も往復をしてきた、この琴が言うのですから、
 それを楽しみに、どうぞ道中をご無事でお過ごしください。
 お気をつけて。
 お兄様と早く会えるとよろしいですね」


 くるりと背を向けた八重が、勢いよく数歩あるいたところで、
はたと、また立ち止まってしまいます。



 「琴様。
 またお会いできますか?
 八重には、女兄弟が無いゆえに、
 琴さまをお姉さまのように、心よりお慕い申しておりました。
 これからも、そう思い続けてもかまわないでしょうか・・・
 いままで、言いそびれてまいりましたゆえ。」


 琴が、笑顔で返します。

 「私は、あなたにお会いをした、
 その最初のときより、すでにそのように思っておりました。
 大切な妹に会うために、私ははるばると、
 この会津にまで旅をしてきたのです。
 さァ行くがよい、
 我が妹。」


 大きく手を振りながら、八重が元気に遠去かっていきます。



 こののち京へ上洛を果たした山本八重は、
失明をした兄、覚馬の手足となって甲斐がしく働き始めます。
後に、禁制であった渡米から無事に帰還をはたしたキリスト教の先駆者・新島襄と知り合い、
洗礼を受けたのちに、結婚をすることになります。

 近代的知性と教養を身に付けた八重は、新島襄をよく助けて、
京都において、教育と女性の地位の向上のために、数々の功績を残します。
なかでも、兄の覚馬とともに同志社大学の前身となる
新島のキリスト学舎の設立のために奔走したことは、きわめて有名な逸話です。

 明治23年(1890年)、襄が病気のため急逝をします。
2人の間に子供はおらず、更に新島家には襄以外に男子がいなかったため
養子を迎えますが、この養子とは疎遠関係になってしまいます。


 その後、同志社を支えた襄の門人たちとも
性格的にそりが合わなくなり、同志社とも次第に疎遠になります。
この孤独な状況を支えたのが、女紅場時代に知りあった円能斎であり、
この後に、円能斎直門の茶道家として、茶道教授の資格を取得します。
茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、
裏千家流を広めることに貢献をします。


 日清戦争、日露戦争では篤志看護婦となり、
その功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に、
銀杯を下賜されることにもなります。
その4年後に、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去をします。
明治、大正と激動の中を走り抜けて、86歳までの人生をまっとうしました。
葬儀は「同志社の母」葬として、4000人もの参列者があったと、記録に残されています。
墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内・同志社墓地にあります。





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