落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (95)最初で最後の作戦会議 

2015-07-31 10:03:47 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(95)最初で最後の作戦会議 
 


 コンコンという乾いたノックの音が、ドアから響いてくる。
朝7時の定刻に、恵子と多恵がやって来た。
なんとも響きのよい木製のドアも、60周年を迎えた老舗ホテルならではのものだ。



 「ようこそ」とすずが笑顔で、ドアを開ける。
「すんまへんなぁ。朝早くから新婚さんの部屋へお邪魔して」と多恵が片目をつぶって笑う。
「6階からの眺めは格別どすなぁ。ウチ等の部屋とは、大違いどす」
先頭で入って来た恵子は、わき目もふらず、カーテンが開け放された窓へ寄っていく。



 窓から見下ろす英虞湾の夜明けには、幻想的なものがある。
アコヤ貝の養殖いかだをはじめ、ハマチやタイの養殖いかだが黒い群れをなしている。
東の空が明るくなるにつれて、鏡のような水面に冬の冷たい輝きが戻って来る。



 「朝食は7時30分までに済ませましょ。
 支度を整えて、8時15分にロビーへ集合してくださいな。
 今日は熊野灘に面して走る国道42号線を、ひたすら南下いたします。
 42号線は紀伊半島をぐるりとひとまわりして、和歌山市までの海岸線を走ります。
 海の見えるどこか綺麗な場所で、ゆっくりと昼食をとりましょう。
 最終目的地の和歌山市へは、午後4時頃までに到着すると思います。
 本日の予定は、ほぼ、そんなところどすなぁ。
 何か質問などは有りますか?」



 「完璧なプランだ。それからもうひとつ、実に驚いた。
 君の京都なまりはいつも美しいが、標準語の話し方にもなめらかさが有る。
 へぇぇ。器用な人なんだね君は。
 プランに依存はない。ただひとつだけ質問が有る。
 なんで今朝が、最初で最後の作戦会議なんだ。
 最初というのは分かるが、最後と言う意味が俺にはよくわからない」



 「和歌山市で電車に乗り換えるか、それともフェリーに乗って徳島港へ行くか、
 いまだに決断に迷っています。
 けど、いずれにしても、和歌山か徳島で私たちは別れます。
 あなたたちは新田義貞の弟、脇屋義助の足跡を追って愛媛の伊予まで足を伸ばします。
 どちらかであなたたちと別れて、わたしたちは神戸へ向かいます。
 今日がわたしたちが行動を共にする、最後の日になる可能性があります」



 「よく分かった。で、ついでにもうひとつ、質問が有る。
 真珠産地の英虞湾で買い求めず、わざわざ神戸まで出て真珠を買い求めるのには
 なにか特別の意味が有るのかい。
 そのあたりの事情が、俺にはもうひとつピンとこない。
 できたら、いつもの京都のなまりで語ってくれないか。調子が狂う」



 「養殖真珠ができた昭和3年頃の真珠は、まだまだ高級品扱いどしたなぁ。
 高すぎて、日本国内では普及しませんどした。
 そのため作られた真珠のほとんどは神戸港から、ヨーロッパやアメリカへ輸出されたんどす。
 養殖真珠の登場によって、欧米の真珠の需要が一気にひろがったんどすなぁ。
 真珠輸出の増加により、三重や四国、九州などの真珠養殖場から、地理的に一番近い
 国際貿易港の神戸港に、自然と日本中の真珠が集まってきたようどす。
 選別・穴あけ・連組みなどの真珠加工業が、神戸北野町付近を中心に発展しました。
 北野町付近は、真珠選別に適した北からの光線を六甲山をバックに、
 安定して得られたからどす。
 英虞湾は養殖真珠の発生の地どすが、日本の真珠の加工と流通の80%を
 神戸が取り扱っとるんどす。
 世界一の真珠の町。それがウチ等がこれから行く、神戸どす」



 「なるほどねぇ。君は何事に関しても完璧だね。
 最初で最後という意味も良く分かったし、わざわざ神戸まで足を伸ばす意味も理解できた。
 大晦日の夜に聞かせてもらった、太平記の知識も凄かった。
 新田義貞の足跡を存分に学ぶことが出来た。
 しかも今回の旅の最後は、弟の義助の足跡を追って伊予まで行けと言う。
 完璧すぎる君の旅のプランにも、心の底から、脱帽だね」



 「完璧やなんて、恥ずかし過ぎますなぁ。ウチかて欠点だらけの女どす。
 吉野の秘湯の宿で逢ってもろた女の子。
 あれ、実は、ウチが若気の至りで産んでしもうた不遇の子どす。
 けど。秋に結婚が決まったそうで、なによりやとひと安心などをしております。
 秘密を守っていただき、おおきにはんどす。
 今日一日。楽しい旅をいたしましょう、うふふ。ではのちほどに」



 ニコリとほほ笑んだ恵子が、多恵の背中を押して部屋から出ていく。
最初で最後の作戦会議を経て、和歌山か徳島港で、4日間の4人の旅が終る。
突然別れを宣告されたような気分だな・・・と勇作が、朝日がきらめきはじめた
真珠の海へ視線を転じる。



(96)へつづく
 


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (94)旅の4日目 

2015-07-30 10:22:09 | 現代小説

つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(94)旅の4日目 




 旅の4日目。2015年、3日目の朝が明けた。
高台に立つホテルの6階から見下ろす英虞湾の景色は、幻想的だ。
白みはじめた空の下。雲の隙間から、オレンジ色の光が遠慮がちに差し込んでくる。
漆黒の養殖いかだが、明るくなってきた海面上にいくつも浮かび上がる。
複雑に入り組んだリアス式の水際を、乳白色の朝霧が流れていく。



 「生きていてよかったぁ。そんな想いを、実感させるような夜明けですねぇ」



 隣のベッドで目を覚ましたすずが、ポツリとつぶやく。
時計が深夜の1時を回った頃。すずが愛用の枕を抱えて4階の和室からやって来た。
愛用の枕でないとすずは、旅先で眠れない。
「恵子さんに、私たちに遠慮するのも大概にしなさいと怒られました。
今夜はこちらに泊まるようにと、命令されてやってまいりました。
ご迷惑なら帰ります。でもまさか、夜中に訪ねてきた女を追い返さないでしょうね?」

あなたは」と、すずが勇作の瞳を覗き込む。



 どうぞとドアを開けると、「やっぱりね。そうこなくっちゃ」と嬉しそうに
愛用の枕ごと、勇作の胸の中へ飛び込んできた。
『天然の真珠は人魚の涙ですが、養殖の真珠は、それを作った人の涙なのだそうです』
と胸の中で、訳の分からないことを突然言い出す。



 「何の話だい?。いきなり?」とすずの顔を覗き込むと、
「御木本夫妻の夫婦愛が、養殖真珠を成功させたという話です」と勇作を見上げる。


 「妻のうめは、自分の着物をすべてアコヤ貝に変えて、夫に尽くしました。
 おおくの苦労の末、夫婦は明治26年。5個の半円形の真珠養殖に成功します。
 それが今日の、アコヤ真珠の原点だそうです。
 そこまで話をしたあと。鈍感や女やなぁあんたもと部屋を追い出されました」



 「行くところがないんじゃ、しょうがねぇな。こっちへ来いよ。
 俺もちょうど、そろそろ君と話がしたかった」



 「こんな夜中に話がしたいなんて、変っていますねぇ、あなたも」



 「秘湯の湯の若女将が、恵子さんの娘だという話を思い出していたところだ。
 なんだか急に胸が騒いできて、眠れなくなってきた。
 夜景でも見れば気がまぎれると思ったが、寂しすぎて、ますます眠れなくなってきた。
 ちょうどよかった。君が訪ねて来てくれてさ」



 「やっぱり親子だったのですねぇ、あのお2人は」


 
 「口止め料は払ってあるから内緒にしろと、多恵さんから厳しく言われている。
 君にばらしてしまったが、恵子さんを追い込むような詮索などはしないよね?」



 「あたし。それほど性格は悪くありません。
 花街と言うのは、特殊過ぎる世界です。
 そんな風に人生を送る親子が、ひとりやふたり居てもすこしも不思議じゃありません」



 「親子として名乗りあえないのだろうか、あの2人は、一生」



 「たぶん、子どもの居ないあなたには、一生わからないことだと思います。
 でもね、そんな親子もこの世には居るの。
 わたしたちが心配することじゃありません。
 先の事はきっと、何かの拍子に、きっとうまく片付くと思います」


 「わるかったな。俺に子供が居なくて」


 「真似事はできるけど、もう産めませんよわたしは、もう58歳だもの」



 ウフフとすずが、嬉しそうに勇作の胸に顔をうずめる。
愛用の枕をベッドに投げ捨てたすずが、突然、「あっ」と大きな声をあげる。



 「明日の朝。7時から、旅の最後の打ち合わせをするそうです。
 時間になったら訪ねていきますので、お願いだから、ひとつのベッドの中で
 抱き合ってなんかいないでね、と、ことづかってまいりました」


 うふふ。でも大丈夫よね、もう少し早い時間に起きてしまえば・・・
と、すずが妖艶にほほ笑んで見せる。


(95)へつづく
 


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (93)真珠の町

2015-07-29 10:08:59 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(93)真珠の町




 紀伊半島を東に向かって走ること、3時間。
鳥羽市から志摩市まで続く、パールロードの起点にようやくのことでたどり着く。
海沿いの壮大なドライブの道がはじまる。



 前方に英虞湾に浮かぶ最大の島、賢島の姿が見えてきた。
夕陽が綺麗に見えることで有名な賢島大橋が、すぐ目の前に現れる。
午後4時を過ぎたばかりだが、すでに海面が茜色に染まりはじめている。


 「まぁ綺麗。涙が出ちゃうほど、美しい」とすずが、溜息をつく。
(涙が出ているのは、後部スペースに居る恵子さんのほうだろう・・・)と
勇作が、もごもごと口の中でつぶやく。
「え?」と怪訝そうな顔で振り返るすずに、「いや。何でもない、ただの独り言だ」
と勇作が、あわてて苦笑いを浮かべる。



 夕日を見る、ちょうどよい時間帯に橋へ到着した。
賢島大橋は、日本夕日百選に選ばれている夕日を見るための景勝地だ。
勇作が、キャンピングカーを路肩に停める。
賢島大橋から、養殖真珠の筏を浮かべた英虞湾(あごわん)の様子が一望できる。
女たちが、窓ガラスに額を寄せてくる。
オレンジ色に染まった海原に、真っ赤な夕日がゆっくりと沈んでいく。



 賢島(かしこじま)は、本土と短い橋でつながってる。
電車も乗り入れてるから、離島という感じがまったく漂ってこない。
英虞湾といえば真珠が有名で、たくさんの真珠が養殖されている。
目抜き通りに、老舗真珠屋「松井眞珠店」の古い和風の建物が、いまでも残っている。
松井眞珠店の創業は明治38年というから、かれこれ100年になる。
ここはまた映画『男はつらいよ 寅次郎物語』(39作)の、舞台にもなった。


 陽が落ちて、名残惜しそうにオレンジ色が褪せていく頃。
恵子が後部キャビンから運転席へ、顔を出した。
「今日の泊りは、賢島どす。行く先は、志摩観光ホテル クラシック。
わざわざ泊まりに行くのは、実は、特別な事情が有んのどす」と、意味深く笑う。





 「特別な事情がある?。何だい、特別な理由とは」



 「ホテルは、2015年の5月から2016年の春まで、耐震補強と客室の改装で
 1年間ほどお休みになるんどす。
 泊まるのなら、いまがおすすめ、ということになるんどすなぁ」


 「耐震補強工事に入るホテルへ、わざわざ泊まりに行くのかい。
 物好きだなぁ、君たちは」


 「行けばわかります。志摩で開業60周年をほこる老舗のホテルどす。
 最上階から見下ろすリアス式海岸のシルエットは、涙が出るほど美しいおすえ」



 「今日もホテルに泊まるのか・・・」勇作が、ふっと吐息を洩らす。
「ホテルに泊まるのが、気に入らないみたいどすなぁ。勇作はんは」
と恵子が、チラリと勇作を睨む。



 「別にかまへんえ。ウチ等は、すずさんと3人で泊まりおす。
 あんたは勝手にキャンピングカーの中で、膝を抱えてひとりで寝たらええやろ。
 まだお正月の2日目どす。初夢を見るための大切な日どす。
 6階にある最上級の部屋を予約してあげたというのに、欲のない人やなぁ、
 あんたはんというお方も」



 6階の最上級の部屋と聞いて、勇作の気持ちが揺らぐ。



 「そういうことなら考える。泊まってやってもいいぞ。
 もちろん、すずと一緒の部屋なんだろうな?」



 「阿保、女3人は、4階の和室どす。ウチなぁ、ベッドは苦手やねん。
 夜中に一度ベッドから落ちて以来、布団でないと寝られない女になったんどす。
 堪忍してな。今夜もご期待に添えなくてぇ・・・」


 うふふと嬉しそうに、恵子が声をあげて妖艶に笑う。


(94)へつづく

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (92)芸妓の隠し事

2015-07-26 06:24:41 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(92)芸妓の隠し事


 
 「もうお気づきでしょう。
 若女将の優奈ちゃんは、恵子が25年前に産んだ子供どす」

 
 多恵が、ずばりと結論を口にする。
「不倫ではおへん。自ら望んだうえでの、出産どす」
毎年ここへやって来るのはあの子の成長を確認するためどす、と多恵が付け加える。
ということは親子であることを、まだ若女将は知らされていない可能性が有る。


 「一年間休んだのは、恵子が決めたことどす。
 お相手は、秘湯の湯の跡取り息子。
 2人が出会ったのは、恵子が芸妓に襟替えをした最初の夏のことどす。
 祇園祭りの雑踏の中で、2人はたまたま出会いました。
 何か惹かれるものが有ったんでしょうねぇ。
 目が有った瞬間。京都の大学へ来たばかりの跡取り息子と、恋に落ちたそうどす。
 一時的なものとばかり思っとたのですが、おもいのほか長続きしました。
 跡取り息子が大学を卒業して、吉野へ戻っても、2人の熱は一向にさめません。
 2人の関係は水面下で、ひっそりと続いていたんどす」



 「相思相愛のロマンスが有ったのか、恵子さんには・・・
 ということは恵子さんは、あの子が産まれる前からここへ足を運んでいたわけか」


 「そうどす。吉野の山奥に通い始めて、足かけ30年になりますなぁ。
 都おどりが終わったあとの短いお休み。
 年末年始の4~5日の休暇を恵子は決まって、ここで過ごしていたんどす」



 「25歳の時。その人の子供を身ごもったというわけか」



 「覚悟のうえでの、妊娠どす。
 病名は知りませんがお相手の男性が、余命3年と医師から宣告されたそうどす。
 よせばよかったのにあなたの子供が欲しいと、恵子のほうから
 妊娠を望んだんどす」



 「それほどその男の人に惚れぬいていたという事か・・・恵子さんは」



 「生まれてきた子が、若女将の優奈ちゃんどす。
 父親がなくなるまでの5年あまり、彼女はここで、跡取り娘として育てられました。
 祇園へ連れて帰らなかったのは、恵子が、花街の暮らしに不安をおぼえたからどす。
 恋をすることは出来ても、芸妓のうちは所帯を持つことができません。
 子供が生まれても、我が子として手元で育てることは出来ません。
 そんな環境に、恵子は絶望していたんどす。
 手元で育てるより、跡取り娘として秘湯の宿で育ててもらうことを選択したんどす。
 もちろん。終生、親子として名乗らないことを誓約して。
 花街に、内縁の子として生まれ、育った子はたくさんおります。
 けど。花街に育った子供の全員が、幸せになったとは言い切れません。
 恵子は我が子が、秘湯の湯の子として育つほうを選択したんどす」



 「残酷な話だ。なにかもっと別の選択はなかったのか、もっとうまい方法が」


 
 「ええんやないどすか。
 わが子の笑顔を見るために、一年間、必死に花街で働きぬく。
 我が子であることは秘密どすから、せいぜい4~5000円の土産物を持って
 訪ねるのを楽しみにする。
 恵子はそんな風に、我が子を見つめる決心をしたんどす。
 そんな恵子をウチは25年間も、じっと見つめ続けてきたんどす」



 「芸妓の隠し事に、長年、黙ってつきあってきたということか・・・
 義理堅いんだねぇ。花街の同期の桜の付き合いは。
 恵子さんの毎回の吉野まいりに、必ず同行してきたということか。
 じゃあ吉野から鳥羽を経由して神戸まで行くのも、毎回の決まり事なんだね?」

 
 「その通りどす。若女将の優奈ちゃんは、6月の生まれ。
 6月の誕生石と言えば、パール(真珠)どす。
 世話になったお礼にとパールを買い求め、若女将に送ってあげるのも、毎回の事どす。
 今年も、25個目の真珠を神戸で買い求めることになりますなぁ」



 「25個目の真珠・・・」



 「宝石の王様がダイヤなら、パールは女王どす。
 他の石のように研磨を必要とせず、そのままで美しく輝く真珠は、海からの贈り物どす。
 内緒どすが鳥羽の海で恵子は、真珠の養殖いかだを見ながら、泣くんどす。
 もちろん。ウチも一緒に、同じように涙をこぼします・・・」


 
(93)へつづく
 

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (91)口止め料

2015-07-25 11:00:20 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(91)口止め料



 結局。勇作は何の手がかりもつかめず、秘湯の宿の夜が明けた。
あれほど激しく降りしきっていた雪も、夜明けとともに小やみになった。
朝一番の陽ざしが射す頃は、吉野の峯の上に青空が広がった。
眩しい朝の陽ざしの中。雪の塊を抱いた木々の梢が、あちこちでキラキラと輝く。


 庭の積雪は、20センチを超えている。
「午後になれば、除雪車が来てくれるそうです。
本街道まで出られるようになれば、少し遅れますが、鳥羽へ向かうことができるでしょう!」
朝の7時を過ぎた頃。携帯電話を抱きしめて、若女将の優奈が離れの部屋へ飛んできた。



 温暖な吉野地方の山奥に、除雪車が配備されているわけではない。
農家が持っているトラクターの前方に、地面すれすれの除雪板を取り付ける。
そのトラクターを使って、地元の消防隊員たちが、それぞれの道の雪をかく。
温泉街へ通じる本街道は、降り始めのころから融雪剤がまいてある。
だが奥地へ向かう細い路や、集落をつなぐ街道などは、めいめい自力で雪かきを行う。
凍てついているわけではないので、手製に近い雪かきの装置でも、
充分に除雪の役割を果たすことができる



 「午後から行けるなら、なんとか今日のうちに真珠島までいけそうどすな」



 多恵がほっと、安堵の胸をなでおろす。
鳥羽へ出て、英虞湾を観光する予定を立てているからだ。
紀伊半島の最南端まで行き、さらに真珠加工が盛んな神戸市を目指す。
それが女たちが昨夜話し合っていた、旅後半の2日間の日程だ。



 吉野から鳥羽まで、紀伊半島を130キロほど東へ走る。
ナビで検索すると、国道ルートを使い、2時間30分あまりと言う予測が出た。
午後2時に出発しても、日暮れ前には目的地の鳥羽へ着く。
「余裕だな」出発を前にもう一風呂あびておこうと、勇作がタオルを肩に部屋を出る。



 午前中を、4人が思い思いに過ごしていく。
山奥の宿は、朝風呂へ入る以外、これといった時間の潰しようがない。
風呂から出てくれば、退屈なだけの時間が待っている。
すずは朝から窓際の椅子に座り込み、時々窓の外に眼をやりながら読書にふけっている。
恵子は朝食が済んだ後から、姿が見えない。
本館で、若女将と話し込んでいるような雰囲気がある。
多恵だけが、どうにも時間を持てあましているだ。
ときどき思い出したように、勇作のまわりに姿を見せる。


 「なぁ。秘密が聞きたいとは、思わへんか?。
あんたさんときたら、口止め料を払った甲斐がおまへんなぁ、まったくぅ~」
と多恵が、可愛い唇を尖らせる。
昼食が終わり、時計の針が午後の2時を指した頃のことだ。
しびれを切らした多恵が、のこのことまた、勇作の側へ這い寄って来た。



 「ん・・・口止め料?。何のことだいったい・・・」


 「忘年会で出た不足金、100万円の事や」



 「100万といえば、大金だ。
 君たちをキャンピングカーに乗せて3~4日気ままな旅に出るだけで、
 チャラになったとは、俺も思っていないさ。
 そうか。100万円には、口止め料という意味も含まれているのか。
 それでは聞こう。どんな秘密で、いったい誰の秘密なんだ?」


 「やっと、喰いついてきましたなぁ」と多恵が、嬉しそうに笑う。
「君が無理矢理、秘密を聞けと、言い寄って来たくせに」と勇作が顏をしかめて見せる。



 「京都の五花街で働く女は表向きは、全員が独身どす。
 花街は、女の華を売る世界どす。所帯じみた匂いを漂わすのは厳禁どす。
 結婚する場合、芸妓の仕事から引退して、花街を離れるのが昔からの決まりどす。
 ですがこれとは別に、花街で働く女が、一年間仕事を休むことがあんのどす。
 この場合、どんなことが考えられますか?」
 


 「女が一年間仕事を休むと言えば、たいていの場合、出産だろう?」


 「ウチの良く知っている芸妓が、まる一年間、休養したことがあんのどす。
 休養したのは、当時の売上ナンバーワンの売れっ子芸妓。
 休養した先は、吉野の秘湯の湯どす」
 


 「え・・・」勇作の眼が驚きのあまり、小さな丸い点になる。

 

(92)へつづく
 

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