落合順平 作品集

現代小説の部屋。

オヤジ達の白球(29)大暴投

2017-08-24 19:28:00 | 現代小説
オヤジ達の白球(29)大暴投


 
 準備運動もしないまま、坂上が投球の態勢に入る。
身体はまっすぐ伸ばしたまま。棒立ちだ。
ポンポンとグローブの中でボールを弾ませたあと、2本の指でボールを握る。


 「なんだぁ、あの野郎。2本の指でボ―ルを握ったぞ・・・」

 「えっ、2本じゃまずいのか。ソフトボールの場合は?」


 「当たり前だ。2本で握るのは野球のボールだ。
 ソフトのボールは、野球のボールよりはるかに大きい。
 だからソフトの場合は3本の指で握る。指が短いやつは、4本で握ってもいい」

 「3本の指で握るのが基本で、4本で握ってもいいのか!」

 「そうだ。握り方は、人差し指と中指をV字に開く。
 指先の腹をボールの縫い目にしっかりかける。
 親指は反対側をはさむように握る。それが基本的なソフトボールの握り方だ。
 それから投球前に、あんな風に棒立ちというのも、すこぶるまずい」

 「棒立ちじゃまずいのか?」


 「投げる前はまず、軸足のひざを軽く曲げておく。
 膝をやわらかく曲げておくことで、次への動きがスムーズになる。
 棒立ちというのは足腰を使わず、ただ、上半身と腕っぷしで投げることになる。
 誰が投げても、かならずの最悪の結果を産む」


 「最悪の構えなのか?、棒立ちは。本当に最悪なのか?」

 「見ていりゃすぐにわかる。結果が出るから。
 見てろよ。あの構えじゃ、まっすぐの球なんか絶対に投げられないから」



 熊がグビリと2本目の山崎を呑み込む。
堤防の上でそんな会話が交わされているとも知らず、坂上が投球動作にはいる。
ぐるりと腕を回したあと、力任せの白いボールがコンクリートの壁に向かって飛んでいく。

 「ほら見ろ。いわんこっちゃねぇ。予想した通りの大暴投だ」


 坂上の手元を離れたボールが、コンクリート壁のはるか上部へ向って飛んでいく。
4mほどある壁の頂点で、大きな音をたてて跳ね返る。
跳ね返ったボールが坂上の頭上を超えていく。そのままはるか後方へドンと落ちる。

 「言わんこっちゃねぇ。あの態勢からじゃ、いくら投げてもあんな大暴投ばかりだ。
 しかし。あの大暴投は、予想外のメリットを生むかもしれねぇなぁ。
 投げるたびに、うってつけのトレーニングになるぞ」



 「うってつけのトレーニングになる?。いったいどういう意味だ、北海の熊?」


 「考えてもみろ。
 あんな投げ方していたんじゃ、いつまで経ってもボールにコントロールはつかねぇ。
 投げるたびに大暴投する。
 だがその大暴投が、実は、けっこう役にたつ。
 見ただろう。勢いがあるぶん、ボールははるか後方まで転がっていく。
 となるといやでも、ボールを拾うため走っていくことになる。
 つまり。暴投するたび、いやでも結果的に、足腰の鍛錬ができることになる」

 ボールを拾い終えた坂上が、ダッシュでまた投球の位置まで戻って来る。
息が落ち着くのも待たず、また腕をぐるりと回す。
そのまま壁に向かってボールを投げる。
こんどもまたボールはまっすぐ飛ばない。壁の右側へ向かって凄い勢いで飛んでいく。
大きな音をたてて跳ね返ったボールが、強い勢いのまま、ふたたび坂上の頭を越え
はるか後方へ転がっていく。


 「いいかげんな投げ方をしているわりに、球威と球速は有りそうだ」


 「あいつの夢は、火の出るような剛速球を投げることだ。
 元気のいい球を投げて、バッターを全員、きりきり舞いさせることを目指しているそうだ」


 「速い球を投げて三振をとるつもりなのか、あいつは・・・
 ふん。だから素人は困る。
 早い球を投げる前に、制球力を磨いてストライクを投げないと、
 誰もバットを振ってくれないぜ」

 「球威より、制球力をつけることが大事なのか、投手の練習というものは・・・」


 「当たり前だ。100キロの速球を投げてもボールじゃ誰も手をださねぇ。
 それどころか、大汗をかいていくら投げても、四球とデッドボールの山をきずくのが
 せいぜいだ」

 「それじゃ困る。それじゃ、今度の試合に間に合わねぇ!」

 「なに・・・もう坂上に投げさせるつもりでいるのか。おまえらは!。
 ボールがどこへ飛んでいくかもわからねぇ、あんなど素人のピッチャーに!」


(30)へつづく


 落合順平 作品館はこちら

オヤジ達の白球(28)準備運動

2017-08-23 18:08:40 | 現代小説
オヤジ達の白球(28)準備運動




 「なんでぇ。誰が現れるのかと思えば、三日坊主の坂上じゃねぇか」

 面白くネェな。なんでぇ、見る価値なんかゼロだと熊が舌を打つ。

 「まぁそう言うな。これからが見どころだ。
 やっこさんがあそこでいったい何をはじめるか、その眼でしっかり確かめてくれ」

 ただとは言わねぇぜ、ほらと目の前に2本目の山崎12年ものを差し出す。
今度はミニボトルではない。180ミリリットルが入っているハーフサイズだ。


 「なんでぇ。ドラえもんのポケットみたいだな。
 ボトルがだんだん大きくなるじゃねぇか。
 ということは次は、山崎のフルボトルということになるのかな?」


 「すべては、おめえの対応次第だ。
 付き合ってくれるなら、フルボトルを出してやってもいいぞ」


 「俺の対応次第だって?。
 なんでぇ。坂上のピッチング練習の見学とは別に、まるで何か俺に
 別の頼み事でもあるみたいだな?」



 「勘がいいな。相変わらず。
 たしかにお前さんに、別件の頼みごとが有る。だがその件は後回しだ。
 まずは坂本の投球の様子を、つぶさに見てくれ」


 「こんな場所でこそこそウインドミルの特訓をするなんて、了見の狭い奴だな、坂上も。
 ど素人がいきなり見よう見まねで投げたって、絶対に上手くなんかならねぇ。
 まずは自分の師匠になってくれる人を探して、徹底的に教わることだ。
 スタートからして考え方が間違っているな、坂上のやつ」
 


 「なるほど。お前さんもそう思うか。やっぱりな・・・
 あいつ。全日本女子ソフトボールチームの監督だった宇津木妙子が書いた
 ソフトボール入門という本を買って来たそうだ。
 その中にあるピッチングの心得という部分を読み、ピンとひらめいたと、
 坂上は言っている」


 「本を読んだだけでウインドミルが投げられると思っているか、あの野郎。
 どこまで発想が未熟なんだ、あの野郎は・・・」


 熊が口を、への字に曲げる。
坂上はウインドミル投法を、甘く見過ぎている。
腰へ手を当てて手首を返す独特のタイミングを覚えるだけでも、1年以上かかる。
投手を目指すものは、この独特のタイミングを身体で習得するため、歩行中も欠かさず、
腰に手を当てるこの動作を繰り返す。


 土手の上から熊と岡崎が見つめていることに気づかず、坂上が投球練習に入る。
しかし。準備運動をするわけではない。
いきなり腕をぐるりと回したあと、ポンポンとグローブの中で白いボルを躍らせている。


 「あの野郎。準備運動もしないでいきなりピッチングをはじめるつもりかよ!。
 ますますもって呆れ果てた野郎だ・・・」


 「いきなり投げ始めると駄目か、やっぱり」


 「全てのスポーツにおいて、ウォーミングアップと言って運動の前に準備運動をする。
 ウォーミングは、温めるという意味がある。運動する前に、体を温める必要がある。
 運動していないとき筋肉内を流れている血液の量は、およそ15%。
 血液はおもに、内臓や脳を流れているからだ。
 身体を温めていくことで、筋肉へ流れていく血液の量が増えていく。
 スポーツをはじめる前にかならずやること、それが身体を動かすための準備運動だ」

 「詳しいなぁ、お前」


 「当たり前だ。
 チームで投げていたころ、ちゃんと協会の指導者講習を受けたからな」

 
 「指導者講習・・・そんなものがあるのか?、ソフトボールには」


 
 「これだから素人は困る。
 ソフトボールだけじゃねぇ。すべてのスポーツに指導者講習は有る。
 無知な人間は準備運動もろくにしないで、いきなり動き始める。
 肩も温めずにボールを投げる。
 そんな練習を繰り返していたら、そのうちどこかを故障することになる」

 「我流や自己流のスポーツは、あまりにも危険すぎるということか?」
 
 「そういうことさ。
 なかなかに理解が早いな、おまえは。単細胞の坂上と違って」


(29)へつづく


 落合順平 作品館はこちら

オヤジ達の白球(27)12年ものの「山崎」

2017-08-20 17:23:50 | 現代小説
オヤジ達の白球(27)12年ものの「山崎」



 それから数日後の日曜日。
岡崎が渡良瀬川の河川敷へ、北海の熊を呼び出した。
時刻は午後の5時。


 このあたりの川幅はひろい。しかし水の流れは細い。
上流にダムがつくられたためかつての流れが、半減している。


 ひろい河川敷に、サッカー場と軟式野球のグランドがある。
隣接する駐車場の片隅に、薄汚れたテニスの壁打ちの壁が残っている。
待つこと10分。
サングラスをかけた熊が自転車にまたがり、駐車場が見渡せる堤防へやって来た。



 「なんだよ。急に人を呼び出して。
 俺に見せたいものが有るというのは、いったいなんだ?」

 堤防に立っていた岡崎が、こっちへ来てくれと熊を手で招く。

 「悪いな。実はな、おまえさんを見込んで是非とも、見てもらいたいものが有る」


 「見ろと言われても、見えるものといえば、ガキどもがサッカーしてるだけだ・・・
 他にはなにも見当たらねぇぞ。
 こんな辺鄙な場所へ俺を呼び出して、いったい何を見せるというんだ?」


 熊がサングラスを下へずらす。
レンズの下から、不機嫌そうな熊の両目が出てきた。


 「ガキのサッカーなんかにゃ、まったく興味はねぇぞ。
 あとは何もねぇただの河川敷だ。
 何が有るっていうんだ。こんな場所によう・・・」


 「そう言うな。まもなく時間だ。
 そのうちに、面白いものが観られるから」


 「そのうちに?。
 なんだ。人を呼び出しておきながら、主役は俺の後から登場するのか?」


 「毎日、午後の5時半になると、ある男がここへやって来る。
 あらわれるのは、ここから見下ろすことができるテニスの壁打ちの前だ」


 「壁打ち?。ああ、駐車場の隅にある、薄汚れたあのコンクリートの壁のことか。
 たしかテニスコートは、新しく作られた運動公園へ移動したはずだ。
 あんな薄汚れた廃墟、いまじゃ誰も使わねぇだろう。
 そんな場所へ毎日、5時半になるとやって来るやつがいるってか?。
 呆れたねぇ。なんとも物好きな人物がいるもんだな」


 「そう言わずもう少し待ってくれ。面白いものが見られるから」



 1杯やるかと岡崎がポケットから、ミニサイズのウィスキー瓶を取り出す。
取り出したのは、シングルモルト 山崎 12年もののミニチュアボトル。
50ミリリットル入り。


 「おっ。気がきくねぇ。洒落たものを持っているじゃねぇか。
 道理で自転車でやって来いと、何度もしつこく念を押したはずだ。
 ごちそうになるぜ。
 山崎の12年ものか。いいねぇ、貧乏人には垂涎モノのウィスキーだぜ」


 どれ、と熊が土手にどかりと腰をおろす。
織物の町・桐生市は、関東平野の最北端に位置している。
北にそびえる赤城山は谷川連峰を経由して、やがて越後の山並みへつながる。
遠くに見える榛名山と妙義山は、そのまま信州の山並みへとつながっていく。


 西に活火山が見える。いまも噴煙をあげている浅間山だ。
ここから見える山容は、まるで富士山とうり二つ。冬には真っ白に雪化粧する。
他県から来た人はこの山を見て、思わず「富士山が見える!」と驚嘆する。


 ほんものの富士山が見えないわけでは無い。
前日に強風が吹き荒れ、空気が澄んだ翌日にかぎり、南へつらなる山脈のはずれに、
小さく富士山を見ることができる。
運が良ければ熊が腰を下ろした土手からも、遠くに富士山を臨むことができる。



 「お・・・5時半になったぜ。
 ほれ。噂の人物が時間通り、テニスの壁の前に現れたぜ」

 岡崎が、熊に声をかける。

 
(28)へつづく


 落合順平 作品館はこちら

オヤジ達の白球(26)不謹慎発言

2017-08-15 17:44:25 | 現代小説
オヤジ達の白球(26)不謹慎発言



 「好きだねぇ、江戸時代の庶民も池上正太郎も。男女の不義密通が!」


 「あんたほどスケベじゃないと思うよ。小説の中の話だもの」


 「どう言う意味だ。聞き捨てならねえなぁ、陽子!」


 「あら、気に障ったかしら。でも、感じたことを素直に口に出しただけのことよ。
 ホントはスケベなんでしょう、あんたって?」



 「まぁな。大好きとは言わないが嫌いとも言えねな。
 第一よ。この世に生まれた男と女は、みんなスケベに出来ているから子供が出来るんだぜ。
 生命の再生産は、人類が成し遂げなきゃいけねぇ大切な使命だ」


 「よく言うわよ。子供をひとりも作らなったくせに。
 そういうあたしも同罪だ。あたしも子どもを産まなかったもの。
 でもさ。極道の愛人が子供を産んだら、この子がこのさきどんな人生を送るのか、
 産まれる前から、だいたいわかっているからね」

 
 「淋しかねぇのか。これから先、たったひとりで生きていくのは?」



 「そういうあんたはどうなのさ?」

 「俺は淋しかねぇ。俺にゃこの店が有る。
 日暮れになると酒が飲みたくて集まって来る、常連のよっぱらいどもが居る」

 「いつまで商売をつづけるつもりなの?」

 「生きている限りは現役だ。のんべぇも、酒が呑めなくなったらそこでお終いだ。
 この世にのんべぇがいるかぎり俺の仕事も、死ぬまで生涯、現役だ」


 「ふぅ~ん。じゃ、あたしが手伝ってあげようか。
 そこへ置いてある忘れ形見の割烹着を着て、カウンターの中から、
 のんべぇたちに愛嬌をふりまいてあげる」


 陽子の目が、厨房の隅に置いてある割烹着へ飛ぶ。
女房が愛用していた白の割烹着だ。
すでに役目は終わっている。だが捨てることも出来ず、いつも女房が置いていた位置へ
いまでもそのままそっと置いてある


 「駄目だ。女房が愛用していた割烹着だ。他人に貸すつもりはねぇ」

 「今は他人でも、結婚すれば女房だ。
 そうなれば、そこへ置いてある割烹着をあたしが着ても、別に何の問題もないだろう?」

 「正気か?。本気でそんなことを言ってんのか、おめぇは?」

 「本気と言ったら、あんたはいったいどうするの?」


 「いそいで市役所へ行く。婚姻届けの用紙をもらってくる。
 ついでに、散婚届けもいっしょにもらってくる」



 「それはいい考えだ。結婚しなきゃ離婚することもできない。
 でもさ。わたしと長くつづかないって、どうしてあんたはそう思うのさ?」


 「俺の性格と、お前の気性だ。
 どこからをどう考えても、絶対に長くつづくはずがねぇ」

 「わかっているじゃないの。
 それでもさ。本当はわたしと一度くらい、結婚してもいいと考えているんだろ?」

 「考えていないと言えば嘘になる。だがその気が有ると言えば、それもウソになる。
 一緒に暮らしてみなければわかんねぇだろう。男と女の相性なんか。
 でもよ。それを考えると、女を口説くのが重くなる」


 「あたし、床は上手だよ。それにさ、見かけによらずしつこいよ」


 「おいおい。なんとも不謹慎すぎる発言だな。
 誰も居ないからいいようなものを、よく恥ずかしくもなく、そういうことを
 男に向かって平然と言えるよな・・・信じられないぜ、まったく」

 「あら・・・調子に乗り過ぎて、ついホントのことを言っちゃった・・・」

 (これだもんな。おれたちは絶対に、一緒になんかなれないはずだ)
ビールを飲んでいた祐介が、苦笑を洩らす。

 「だってしょうがないでしょ。ぜんぶ、ホントのことだもの」
 
 ヒョイと伸びてきた陽子の指が、祐介の手からビールの瓶を奪い取る。


(27)へつづく

 落合順平 作品館はこちら

オヤジ達の白球(25)不義密通

2017-08-14 17:57:28 | 現代小説
オヤジ達の白球(25)不義密通



 「男女の不倫も、江戸時代じゃ不義密通か。
 なんだか、いかにも犯罪という雰囲気が、ムンムンしているなぁ」


 「あたりまえよ。
 今も昔も不倫は、道に外れた男と女の関係だ。立派な犯罪さ。
 でもね。この不義密通を奉行所へ訴え出ると、家の恥を世間にさらすことになる。
 士農工商の頂点にたつ武家の場合、とくに不具合がおおい。
 『家内不取締り』を理由に、減俸されるなど、上から厳しい処分が出てくる。
 商家の場合もやっぱり同じ。世間体が悪くなることで、店の評判が落ちてくる。
 藩への出入りが差し止めになれば、商売上に大きな支障が出てくる。
 公にすることで被害者も、大きなリスクを背負う。
 このようないろんな弊害を考慮して、金で解決しょうという妙案がうまれた。
 それが「内済金」。
 金で解決したケースが江戸時代、けっこう多かったといわれている」


 「なるほどねぇ。
 姦淫は罪が重いがそれを公にせず、金でケリをつけるか。
 そんな便利な方法が江戸時代に有ったんだ。
 だがよ。悪事を働いても金でキリがつくとわかれば、不倫する奴は後を絶たねぇ。
 道理でいつの時代でも、男と女の火遊びは、際限なく発生するわけだ」

 「それがそうでも無いのよ。ぜんぶがそんなに上手くいかないの。
 とくに、江戸時代においてはね」

 陽子が、黒い瞳を光らせる。


 「そうでもない?。どう言う意味だ。
 男女の不倫は、金でかたがつくはずじゃなかったのか?・・・」


 ビールグラスを手にしていた祐介が、ぴたりと固まる。
固唾を飲み、陽子の言葉を待つ。

 「夫の側に特別な権利が有るの。
 姦淫の現場を発見すれば間男と妻を殺害しても、罪には問われないの」


 「何だって。斬り捨てても構わないのか、江戸時代は!」



 「剣客商売シリーズ十三巻の『波紋』の章に、その場面が登場する。
 桶屋の七助が、自分の女房と二階で姦通をしていた剣客の関山百太郎を
 殺害してしまう事件が起こる。
 でもね。桶屋の七助は、法的になんの問題もないと結論されるのよ」

 「2人を殺しても無罪か。なんだか急には信じられねぇ話だな・・・」


 「桶屋の七助は最初の結婚と同時に、自分のお店を持つ。
 でもね、運が悪いのよ、この男。
 実の弟が店の金を持ち逃げしてしまう。さらに借金の肩代わりまでさせられる。
 そのため江戸には居られず、夫婦2人で駿府城下へ逃れる。
 駿府で住み込みで働く。でもね無理がたたって、女房が亡くなってしまう。
 女房の死後。江戸へ戻って来た七助は、品川で店を持つ。
 たまたま博打で大もうけをする。その儲けた金で、お米をいう女を身請けし女房にする。
 ところがこのお米が、なんとも性根の悪い女だ。
 七助の目を盗んで、剣客の関山百太郎とただならぬ仲になってしまう。
 その場面がまた、なんとも色っぽく書かれているんだよ」


 「姦淫現場の描写か。やるねぇ、池上正太郎も」


 『そんなに飲んでは、傷に悪いんじゃないかえ』
 『なあに、傷というほどのものではないよ』  
 冷酒を飲み干した茶わんを置いた手を伸ばし、関山は女の身体を引き寄せた。
 女は髪を、無造作な櫛巻にして、子持ち縞の素袷の腕をまくり、
 これも茶わん酒を飲んでいる。
 はだけた胸もとから乳房がはみ出しかけてい、酒の火照りで喉元も
 胸も赤く染まっていた。
 『ああ、百さん、たまらないよう』  女は、ふとやかな双腕で
 関山百太郎の頸を巻きしめ、嬌声をあげる・・・・』


 「まずいなぁ。そんな現場へ亭主の七助が乗り込んで来れば、切り殺されても、
 何の文句もいえねぇな」


 「関山がいつまでも家に居座り、お米を抱いていることを知り怒り狂った七助は
 隙を見計らい、関山を刺し殺してしまう。
 妻も殺したあげく、江戸から逃げ去ってしまう。
 でもね。このケースでも、間男である関山百太郎を殺してしまった夫の七助は、
 全くの無罪と言われています」


 「間男は、亭主に殺されても江戸時代では仕方ねぇのか・・・・
 なるほどねぇ、
 悪事は自らの身を滅ぼす元になるんだ、怖いねぇ、まったく」


 「もうひとつ。八巻目の『狐雨』にも、男女の姦淫事件が登場してくるんだよ」

(26)へつづく

 落合順平 作品館はこちら