落合順平 作品集

現代小説の部屋。

忠治が愛した4人の女 (4)       はじめに ④

2016-06-30 10:06:01 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (4)
      はじめに ④




 7歳から寺子屋へ通いはじめた忠次郎だが、学業は大の苦手。
もともと活発過ぎる子だ。長い時間、じっと座っていることなど端から出来ない。
寺子屋の中で、秩序を最初に乱す問題児になる。
それでも住職の貞然はあきらめない。根気強く忠次郎に、学問の大切さを説いていく。


 年があけた8歳のとき。
隣にある赤堀村の、本間道場への入門を許される。
忠次郎の父・与五左衛門は、本間道場の当主、本間千太郎と同い年。
兄弟弟子であることから、特別の配慮が有った。
本間道場は念流の中でも、屈指の存在だ。
まわりが寒村であるにもかかわらず門弟の数は、軽く200人を超えている。



 念流は、屈指の古流。
上州多胡(たご)郡の真庭村に伝わる、剣術だ。
始祖の相馬四朗義元から奥義をゆずられた樋口又七郎貞次が、住まいにしている
真庭村にちなみ、真庭念流と名乗るようになった。
はじまりは、慶長3年。
関ヶ原合戦の2年前の事だから、念流の歴史は400年を越える。



 真庭念流は、上州一帯にひろがった。
14世が当主をつとめたころ、江戸へ進出している。
ちょうどその頃。北辰一刀流の千葉修作が、諸国回遊の武者修行の旅に出ていた。
旅の途中。上州一とうたわれた真庭念流の、小泉弥兵衛を打ち破った。
評判を聞きつけ千葉修作の元へ、100人あまりの入門者が集まった。
勢いに乗り、伊香保神社へ北辰一刀流の額を奉納しようという話が持ちあがる。
額の奉納は、伝播の証だ。



 この噂が真庭村に伝わる。
奉額を阻止しろと、各地の一門に檄が飛ぶ。
周作に入門した者のほとんどが、真庭念流の門人だった。
そのうえ。流派の額を神社へ奉納されたのでは、念流の面目が丸つぶれになる。


 伊香保神社に500人あまりの、念流の剣士たちが集まって来る。
教えを受けたやくざ者や、鉄砲をかかえた猟師まで血相変えて駆けつけてくる。
このとき。隊長格として周作と対峙したのが赤堀村の本間道場だ。
70~80人の門弟が、その場に駆けつけている。



 伊香保の村役や代官所から「待った」の声がかかる。
千葉修作が江戸へ引き上げたことで、騒ぎが落着する。
だがこのときの騒動で、赤堀村の本間道場は血気に熱く、勇猛だとして、
近隣にさらにその名を知られている。



 すそ野の長い赤城山の山麓が、途切れていく。
丘陵にかわるあたりから、丘の狭間のあちこちに水田が見えてくる。
前橋の城下から大間々(おおまま)の集落を経て、桐生へ向かうひとすじの道が有る。
桐生絹街道と呼ばれる山沿いの道だ。
道が赤堀村へ入ると間もなく、背後に杉木立を背負う長屋の門が見えてくる。
そこが忠次郎が学んだ、本間道場だ。



 本間道場へ通いはじめて2年。
忠太郎の父・与五左衛門が、36歳の若さで亡くなる。
このときから忠太郎が、乱暴者に変りはじめたと記録に残っている。
何が有ったのか定かでないが、国定村にひとりの乱暴者が生まれたことになる。



 16歳になると、並みの大人が2人がかりで組みついても
忠太郎にはね飛ばされてしまうようになる。
体躯肥満して、二十貫に近い。
肥えているといっても、全身岩のように固い筋骨に覆われていた。
身のこなしが早く、歩行はまるで飛ぶようで、一日に20里を歩いても
平気だと、広言していたという。



 「俺は親父のあとを継ぎ、生糸の商売をして人生を終わりたくねぇ。
 世間をみりゃ悪賢い奴らが、飲む、打つ、買うの三道楽で遊んでやがる。
 悪い奴ほど、たんまりと金を溜め込んでいる。
 あいつらのやることといったら、力のねえ者を絞りあげる事ばっかりだ。
 俺は、あんな奴らにバカにされたくねえ。
 強え奴を痛めつける、そんな人間になってやる。
 そのためには、まず、撃剣をしっかり身に着けることだ。
 そいつがおいらの生き方だ」



(5)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (3)       はじめに ③

2016-06-29 10:15:55 | 現代小説
忠治が愛した4人の女 (3)
      はじめに ③





 文化13年(1810)1月。
佐位郡(佐波郡)国定村の名主・長岡与五左衛門の次男として生まれ、
7歳になった忠次郎が養寿寺の寺子屋へ入る。
養寿寺は、のちに博徒の忠治をとむらう菩提寺となる。


 「日本教育史資料」に載っている寺子屋の数は、およそ一万五千五百。
寺子屋は宝暦・明和の頃(1751~1771)からはじまり、
文化・文政(1804~1829)の時代に活性化し、
天保・嘉永(1830~1853)の頃に、全盛期に到達している。
文献には記載されていない小さな寺子屋が、全国に多数存在していた。
これらを含めると寺子屋は全国に、五万校以上が存在していたと推計される。



 現在の日本の人口は、一億二千万人。
小学校の数約22,500校に対し、江戸時代の最大人口は、推定で三千万人。
この比較から、江戸時代の寺子屋の数がいかに多かったかよく分かる。


 寺子屋は6歳から12,13歳の子供たちに読み書きと算盤を教える。
年齢別ではなく、子供の習熟度におうじて段階的に教育を施した。
日課の大部分が、習字の学習だ。
文字を上手に書くだけではなく、習字を通して本を読むことを教え、
書くことと読むことを一体として教えた。



 寺子屋における教授の方法は、シンプルだ。
師匠が高座に座る。
寺子は一人ずつ師匠の前へ行き、それぞれが書き方と読み方の指導を受ける。
そののち、自分の机へ戻り自習にはげむ。
師匠は寺子が自習している間は、机の間を順番に回っていく。
寺子の手を取り、運筆を訂正し、丁寧に指導していく。



 学業の進んだ兄弟子が、師匠を補助する。
新参の子供の手を取り、墨の磨り方、筆の持ち方、運筆の順序、書く時の
姿勢などをこまかく教える。
このようなふれあいを通して寺子の間に、兄弟子・弟弟子の密接な関係が生まれる。
一人の師匠が、百名ちかい寺子の教育に当たる事ができたのも、このような
兄弟子の協力があったから可能になった。



 師匠は男女別に、座るべき席を決める。
「師匠様。かしこと以上を、別に置き」という言葉が有る。
この時代。手紙の結語を女は「かしこ」と書き、男は「以上」と書いた。
結語の使い方の違いから、男女の別を言い表した。



 7歳から男女の席を別にするのは、中国の「礼記(らいき)」に起因している。
中国の「席」は、「ござ」や「むしろ」などを意味している。
席の一枚に、四人が座る。
しかもその一枚が寝具代わりになっていたため、同じ「席」に男女が
いっしょにいてはならないとされた。


 7歳で養寿寺の寺子屋に入った忠次郎だが、学問は出来なかった。
それでも住職の貞然は、忠次郎を可愛がった。
学問は出来なかったが、すでにガキ大将として悪ガキたちの中心にいた
忠次郎に、何か特別なものを感じていたようだ。




 後年。住職の貞然は、大戸の処刑場で磔の刑に処せられた忠治の首を
もらい受けている。
ひそかに境内に墓をたて、手厚く供養している。
関東取締出役が探索を強化してくると、貞然は忠治の首を掘り起こし、
別の場所に秘匿している。



 この時代、かなりのレベルで読み書きが出来ていた。
賭場をひらくにも、そろばんとある程度の読み書きが必要となる。
赤城落ちする国定忠治が、最後まで残った11人の子分たちの中から、
信州へ随行する 2人を、投票で選んでいる。
そのとき。文字の書けない1名を除き、全員が自らの手で候補者の名前を
仮名で書き、投票したと記録に残っている。

(4)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (2)       はじめに ②

2016-06-28 09:27:16 | 現代小説
忠治が愛した4人の女 (2)
      はじめに ②



 忠治が育った国定村や伊勢崎市一帯には、ふるくから織られている織物が有る。 
伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)と呼ばれるものだ。
やや厚みのある平織りで、太絹とも呼ばれる。
上質で細い絹糸で織られた絹織物と、厚くてぼてりしている紬の
中間のような風合いをもっている。



 上州は、養蚕が盛んだ。
米麦と養蚕。この3つが上州の農民をささえてきた。
米は年貢として納める。しかし養蚕だけはまったくの無税。
そのため農民たちは、積極的に田や畑に桑を植えて、養蚕に精を出してきた。



 忠治が最初に縄張りを持った伊勢崎市の境(さかい)に、
六斎市(ろくさいいち)と呼ばれる市が根付いた。
取れたばかりの繭が、高値で飛ぶように売れる。
慶安年間(1648~1651)からはじまったもので月に6度、市がたつことから、
六斎の名前がついた。



 市には、全国から絹商人たちが集まって来る。
売買を世話する絹宿や、織物を製造する元機屋(もとはたや)も出現した。
元機屋は、自己資金で糸を買い付ける。
買い付けた糸を紺屋に渡し、染色をしてもらう。
染められ柄のついた糸が、農家の女たちによって反物に織り上げられる。
織り上がった反物は、元機屋の手で着物に仕上げられる。
こうして完成した伊勢崎織が、絹宿を経て、江戸や京都の呉服問屋へ送られる。



 この時代。良質の繭ばかりがとれたわけではない。
当時の技術では、生産された繭のおよそ半分が屑糸になった。
その屑糸が国定村の周辺では、農民用の野良着として利用されていた。
忠治が生まれるすこし前。 
寛政年間(1789年から1801年)の中頃、本格的な織物の技術と
織り器が、国定や伊勢崎市一帯にはいってきた。



 タテに絹糸。ヨコに、捨てる寸前の屑糸を用いる。
伊勢崎一帯の太織縞は、中世のはじめ頃から存在していた。
野良着として、長く定着していた。
伊勢崎の太織が寛政年間の頃から、江戸の庶民たちの間で人気を集めるようになる。



 クズ糸とはいえ絹物であるから、すこぶる肌ざわりは良い。
そのうえ横糸に太い屑糸を用いていることで、生地が丈夫である。
半分が屑糸であることから、値段も安い。
三拍子そろったことにより、伊勢崎の太織は江戸の庶民たちの間で飛ぶように売れる。
この繁栄が後に、伊勢崎銘仙を生み出していく。



 太織は、農家の女たちのよい手間賃稼ぎになった。
全国に普及したことにより、需要がさらに拡大していく。
養蚕で繭を取り、繭から糸を引き、さらに太織縞の生産と、伊勢崎の絹は
より付加価値の高い商品へ進化していく。



 当然、繭と織物に関わる農民の暮らしも、ゆたかになっていく。
しかし。絹に関わる仕事はどれをとっても、すべて女たちによる手仕事だ。
女たちは夜も寝ず、ひたすら働いた。



 同じ養蚕国の信州の場合。繭のまま売ってしまうので女たちは
蚕を育て上げると、とたんに暇になる。
だが上州の女房たちは違う。
とんでもないとばかりに、夜も寝ないで機織りに精を出す。
このことが酒と博打に明け暮れる男たちを、大量に作り出すという
環境を生み出した。



 上州におおくの博奕打ちがうまれたのは、そのためだ。
上州人の博徒性と酒癖の悪さは、稼ぎの良い女房達によって作り出された。
忠治の生家も、養蚕によって財を成した旧家だ。
上州という土地柄と、恵まれた財力が逆に災いして、忠治のような侠客を
生み出してしまった、といえるだろう。

(3)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (1)       はじめに ①

2016-06-27 08:36:47 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (1)
      はじめに ①




 国定忠治は、江戸時代後期に実在した侠客。
博徒として、上州から信州一帯にかけて活動し、赤城山の南麓を
「盗区」として、実質的に支配した人物。



 天保の飢饉で、農民を救済した侠客として名をあげた。
講談や映画、新国劇などが相次いで忠治を取り上げたことで、一躍、
昭和の初めに、国民的なヒーローになった。



 「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、
可愛い乾分の手前たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ・・・」
で知られる、赤城山から落ちていく台詞は有名だ。



 一介の博徒を、国民的なヒーローに仕立て上げたストーリーはこうだ。
飢饉に喘ぐ農民たちを助けるため、博徒の忠治が悪代官を斬る。
当然。大罪を犯した忠治と子分たちは、生まれ故郷の国定村を追われる。
行き先を失った男たちが、赤城の山に立てこもる。
しかし。赤城の山はすでに、捕り方たちによって完全に包囲されている。



 このまま衝突したら、どちらにも多大な犠牲者が出る。
一触即発の緊張の中。義理の親でもある目明しの川田屋惣次が、
忠治をたずねてやって来る。
惣次は、忠治の人柄を十分に理解している。
ご政道に従ってもらいたいと、法を犯した忠治に迫る。
惣次の苦しい胸の内を察して、忠治も縛につく覚悟を固める。



 2人のやりとりを聞いていた日光の円蔵が、その後をとり仕切る。
300人の子分たちが忠治に盃を返す、国定一家は、その場で解散を決める。
そして忠治はただひとり、赤城の山を落ち延びていく。
「赤城の山も今宵を限り、生れ故郷の国定の村や・・・」ではじまる名台詞は、
こうした背景の中から生まれたものだ。



 だが伝えられている史実は、すこし、異なる。
忠治が生まれたのは、いまから200年前の文化7年(1810)。
佐位郡(さいごおり)国定村の豪農・長岡家の次男坊としてこの世に生まれた。
幼いころの名は、長岡忠次郎。
貧農の子として生まれたという説がある。
だがこれは、のちになってから作られた講談上でのつくり話。



 長岡家は、農民でありながら苗字をもっていた。
由緒をもつ名家であったと考えられている。
鎌倉幕府を滅ぼした新田一族の血を引くとも言われているが、根拠はいまだに
明らかにされていない。



 豪農の家に産まれたとはいえ、忠次郎は生まれついての乱暴者。
その性格ゆえ、やがて無宿者の道をあゆむことになる。
この時代。武家でも農家でも、跡目を継ぐのは嫡男と決まっている。
次男や三男は、たんなる保険。
長男が無事に家督を継げば、あとにに残った次男や三男はただの厄介者になる。



 土地に縛られていたため、勝手に土地を離れてしまった者は、
身分を証明する戸籍を失い、無宿人と呼ばれる。
生まれついての乱暴者で、跡目を継げなかった農家の次男坊。
忠治は産まれた瞬間から、侠客になる道が運命づけられていた。



 1枚の人相書きがのこっている。
体重は、二十三貫(およそ86㎏)。身長は五尺五分(152㎝)の短身。
ズングリした、力士のような体型。
ひげが濃く、胸毛が垂れるように伸びている。
眉は太く濃い。眼玉はギョロとして大きく、色の白い無口な男。



 足利の勤王画家・田崎草雲が、忠治に一度だけ出会っている。
そのときの印象を元に描いたものが、この人相書きで現存している
国定忠治の、ただひとつの肖像画だ。
「目つきに凄みがある。虫も殺さないようでいて、人を寒からしむる
凛然たる気のみなぎる真の侠漢なり・・・」と、感想を述べている。




 義に生きた上州の侠客・国定忠治の本当の姿を史実をたどりながら、
検証していきたい。

(2)へつづく



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居酒屋日記・オムニバス (97)        第七話  産科医の憂鬱 ⑰

2016-06-25 11:04:37 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (97) 
      第七話  産科医の憂鬱 ⑰



 
 「歳の差婚?。
 もしかしてあたしのことを、結婚対象として見ているの?」



 智恵子が助手席から、潤んでいるような瞳を向ける。
騙されてはいけない。智恵子はただ、コンタクトを入れ忘れているだけだ。
極度の近視なのだ、智恵子は



 「一般論を言っただけさ。本気じゃねぇ。
 残念なことだが、お前さんと結婚することは出来ない。
 女房は俺と娘を置いて、8年前に失踪した。
 だが籍はいまだに抜いてない。
 ということで俺はいまだに、女房持ちという身の上だ」



 「7年たてば裁判所に申し立てて、失踪宣告が出来るはず。
 手続きが済めば、晴れてあなたは独身。
 そうしないのは、あなたにまだ、奥さんへの未練が有るからでしょう。
 いまでも厨房に奥さんの割烹着が置いてあるのは、その証明だわ」



 「片づけるのが面倒くさいから、そのまま置いてあるだけさ」



 「嘘ばっかり・・・
 しかたないなぁ。本妻が無理なら、ときどき通っていく愛人でもいいわ。
 それならあなたの重荷にならないでしょう。
 あなたの人生の重荷には、なりたくないのよ、あたしって」



 「いいかげんにしないと、本気で信じるぞ」



 「その気があるから、神の手へ連れて行ってくれたんでしょ、あなたは。
 青空を見るために、安達太良山まで行こうと言い出したのも、そうでしょ。
 その気がなければ、そこまで親切にしてくれないと思うもの」



 「勘違いするな。ただの気まぐれだ。
 仕事をさぼり、美人とドライブをしたい気分になっただけだ。
 分かった様なことばかり言うと、あとで絶対ひどい目に遭う。
 甘く見ないほうがいい。男はみんなオオカミだ。
 痛い目にあってからでは遅い。その時になって後悔しても、もう手遅れだ」



 「後悔なんかしません。本気だもの。
 それに私。実は、男を知りません。
 こう見えてバージンです。
 あなたにはとても、信じられない話でしょうけどね・・・」



 「バ、バージンだって・・・ホッ、ホントかよ。信じられねぇ・・・」



 「うふふ。嘘にきまってるでしょ。信じるなんて、馬っ鹿じゃないの。
 30を過ぎた女が、バージンでいるはずないでしょう。
 でもね、男性の経験は驚くほど少ないわ。
 あなたくらいかしら。
 はじめて出逢った日から、いきなり好きになってしまったのは」


 「話題を変えよう。
 このままじゃ俺の頭が興奮し過ぎて、そのうち、まっすぐ走れなくなる。
 そういえば、どうした、背中の痛みは?」



 「あ・・・いつの間にか背中の痛みが、おさまっています。
 楽になってきたわ。
 へぇぇ、ホントに効くのねぇ、神の手の治療院は」



 「そいつはよかった。じゃ、帰ったら、また連れて行ってやる。
 2~3回通えば劇的に改善すると、あの若い、神の手も言っていたからな」


 「ずっと居ようかな、群馬に。
 鉄筋工なんていう野暮な仕事から、足をあらおうかな・・・」



 「無理すんなよ。
 自分から飛び込んだ世界のくせに。
 でもさ。群馬に居たいというのなら、気が済むまで居るがいい。
 君がいてくれた方が、俺もなんだか楽しくなる」


 「毎晩行くけど邪険に扱わないでね。わたしのことを」




 「えっ、毎晩呑みに来るのかよ・・・毎晩じゃ、俺の身体が持たねぇな。
 手加減してくれ。俺ももう、若いとは言えねえからな」


 「わかっています、それくらいのことは・・・うふふ。
 ホントにいいお天気ですね。
 青空がきれいです。なんだか、涙が出ちゃうほど、まぶしいわ・・・」



 磐梯山が、遠くに見えてきた。
足もとに猪苗代湖がひろがってきた。会津若松の城下がすぐそこへ近づいてきた。
城下をこえれば、智恵子がそだった安達太良山のふもとの村はすぐそこだ。
前方に、あいかわらず、雲ひとつない青空がひろがっている。
智恵子が、窓ガラスを全開にあけた。
心地よい福島の風が、車の中いっぱいに、どっと元気よく吹き込んできた。



 

 第七話  産科医の憂鬱 完

 ご愛読ありがとうございました。