つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(117)義助の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/f5/b14a5eebfacdf77c987f7a664b51d402.jpg)
キャンピングカーは伊予へ向かう国道11号を、順調にすすんでいく。
朝の7時を過ぎた頃から、車の数が増えてきた。
通勤を急ぐ車の群れだ。
午前8時を過ぎたとき。大きな交差点でついに、軽い渋滞に巻き込まれた。
8時を15分ほど過ぎるとあれほど密集していた車が、嘘のように国道から消えていく。
「忘れていました」すずが、ポーチの中から小さな包みを取り出す。
「痴呆のせいではなくてよ。ただ、わたしが預かったままうっかりしていただけです。ほら」
包みを解いていくと、手のひらの上に乗る可愛いカエルが現れた。
ちりめん細工を手掛けている京都の老舗、リュウコドウの『無事カエル』だ。
カエルの形の上に、職人さんが1枚づつ、ちぎり和紙を張り付けたものだ。
腹部に、『勇作とすずさんへ』の文字が入っている。
老舗お茶屋の女将・多恵が製作しているリュウコドウまで、じきじきに足を運び、
無理矢理つくらせた品物だという。
「無事に返ってきてねと、多恵さんから別れ際に渡されたものです。
お腹の部分に、わたしたちの名前が入っているとは、知りませんでした。
伊予まであと、もう少し。
いままで以上に慎重に運転して、わたしたちを待っている人たちの元へ、
無事にかえりましょうね」
「そうだね。
旅人が一番こころがけることは、待っている人たちのもとへ無事にカエルことだ。
多恵さんも実は、見た目以上に繊細なひとだ。
アブラムシにしか興味がないと思っていたが、人への配慮が上手にできる人だ。
慣れてきた頃が一番危険だという。
運転にはくれぐれも注意しながら、目的地へ急ごう」
無事カエルをもらった手前、事故を起こすわけにはいかない。
キャンピングカーに乗り始めて1週間。
勇作が、カムロードの大きな車体に慣れてきた。
だが運転操作と、大きな車体に慣れてきたころが一番、危険になる。
慣れは油断を生み、思いがけないところで落とし穴を掘る。
(いまは義助の墓へ、無事に着くことが一番だ。
そこが今回の旅の終着点になる。終わりよければ、すべて良し。
安全に旅を終えることが、帰りを待っている人たちへのなによりの土産だ。
すずを、ひとり娘の元へ無事に返すのが俺の大切な役目だ。
無事に帰らなければ、すずの認知症の治療をはじめることが出来ないからな)
新田義貞の弟・脇屋義助は、興国3年(1342)4月23日。
四国西国の南朝方の大将として、今治に赴任している。
熊野の海賊と村上水軍の船、300隻余りに守られて淡路へわたり、瀬戸内海を抜けて
赴任地の今治に上陸したと太平記にある。
着任したばかりの義助は5月7日、急病に襲われ、5月11日、急逝している。
義助は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓に眠っている。
墓の正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」と銘が記されている。
側面には、「暦応3年(1340)5月11日卒」と書かれている。
墓は亡くなった時に作られたものではなく、後になってから建てられたものだ。
義助の病没は康永元年(興国3年 1342)、5月11日が正しい。
「上州からから来たつわものの兄弟も、ついていないですねぇ。
兄の義貞は、ふるさとから遠く離れた福井の地で不覚の戦死を遂げて、
弟の義助は、さらに遠い四国の伊予の地で急死ですか。
2人とも亡くなった年齢が、同じ38歳。
なにか因縁めいたようなものを感じますねぇ・・・
東国から来た武将たちは、さぞかし帰りたかったでしょうねぇ。
生まれて育った、新田の荘へ・・・」
あなたにもあげましょうと、すずがもうひとつのちぎり和紙のカエルを取り出す。
義助の墓へ行くのなら供えて下さいと、別のカエルを多恵から預かって来た。
誰かが手向けていったのだろう。
墓前に供えられた花束の隣へ、すずが預かって来たカエルをそっと置く。
義助が病死した伊予から、生まれ育った上州(群馬県)の新田の荘まで、
地図上の直線距離で、630キロ余り。
自動車で最短距離を走っても、走行距離は800キロを軽く超える。
南北朝の時代で考えれば、毎日30キロ以上歩いても、20日をこえる長旅になる。
亡くなる前。はるか東の空に有るふるさとの景色を、義助はどんな想いで
思い起こしていたのだろうか・・・
(118)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(117)義助の墓
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キャンピングカーは伊予へ向かう国道11号を、順調にすすんでいく。
朝の7時を過ぎた頃から、車の数が増えてきた。
通勤を急ぐ車の群れだ。
午前8時を過ぎたとき。大きな交差点でついに、軽い渋滞に巻き込まれた。
8時を15分ほど過ぎるとあれほど密集していた車が、嘘のように国道から消えていく。
「忘れていました」すずが、ポーチの中から小さな包みを取り出す。
「痴呆のせいではなくてよ。ただ、わたしが預かったままうっかりしていただけです。ほら」
包みを解いていくと、手のひらの上に乗る可愛いカエルが現れた。
ちりめん細工を手掛けている京都の老舗、リュウコドウの『無事カエル』だ。
カエルの形の上に、職人さんが1枚づつ、ちぎり和紙を張り付けたものだ。
腹部に、『勇作とすずさんへ』の文字が入っている。
老舗お茶屋の女将・多恵が製作しているリュウコドウまで、じきじきに足を運び、
無理矢理つくらせた品物だという。
「無事に返ってきてねと、多恵さんから別れ際に渡されたものです。
お腹の部分に、わたしたちの名前が入っているとは、知りませんでした。
伊予まであと、もう少し。
いままで以上に慎重に運転して、わたしたちを待っている人たちの元へ、
無事にかえりましょうね」
「そうだね。
旅人が一番こころがけることは、待っている人たちのもとへ無事にカエルことだ。
多恵さんも実は、見た目以上に繊細なひとだ。
アブラムシにしか興味がないと思っていたが、人への配慮が上手にできる人だ。
慣れてきた頃が一番危険だという。
運転にはくれぐれも注意しながら、目的地へ急ごう」
無事カエルをもらった手前、事故を起こすわけにはいかない。
キャンピングカーに乗り始めて1週間。
勇作が、カムロードの大きな車体に慣れてきた。
だが運転操作と、大きな車体に慣れてきたころが一番、危険になる。
慣れは油断を生み、思いがけないところで落とし穴を掘る。
(いまは義助の墓へ、無事に着くことが一番だ。
そこが今回の旅の終着点になる。終わりよければ、すべて良し。
安全に旅を終えることが、帰りを待っている人たちへのなによりの土産だ。
すずを、ひとり娘の元へ無事に返すのが俺の大切な役目だ。
無事に帰らなければ、すずの認知症の治療をはじめることが出来ないからな)
新田義貞の弟・脇屋義助は、興国3年(1342)4月23日。
四国西国の南朝方の大将として、今治に赴任している。
熊野の海賊と村上水軍の船、300隻余りに守られて淡路へわたり、瀬戸内海を抜けて
赴任地の今治に上陸したと太平記にある。
着任したばかりの義助は5月7日、急病に襲われ、5月11日、急逝している。
義助は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓に眠っている。
墓の正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」と銘が記されている。
側面には、「暦応3年(1340)5月11日卒」と書かれている。
墓は亡くなった時に作られたものではなく、後になってから建てられたものだ。
義助の病没は康永元年(興国3年 1342)、5月11日が正しい。
「上州からから来たつわものの兄弟も、ついていないですねぇ。
兄の義貞は、ふるさとから遠く離れた福井の地で不覚の戦死を遂げて、
弟の義助は、さらに遠い四国の伊予の地で急死ですか。
2人とも亡くなった年齢が、同じ38歳。
なにか因縁めいたようなものを感じますねぇ・・・
東国から来た武将たちは、さぞかし帰りたかったでしょうねぇ。
生まれて育った、新田の荘へ・・・」
あなたにもあげましょうと、すずがもうひとつのちぎり和紙のカエルを取り出す。
義助の墓へ行くのなら供えて下さいと、別のカエルを多恵から預かって来た。
誰かが手向けていったのだろう。
墓前に供えられた花束の隣へ、すずが預かって来たカエルをそっと置く。
義助が病死した伊予から、生まれ育った上州(群馬県)の新田の荘まで、
地図上の直線距離で、630キロ余り。
自動車で最短距離を走っても、走行距離は800キロを軽く超える。
南北朝の時代で考えれば、毎日30キロ以上歩いても、20日をこえる長旅になる。
亡くなる前。はるか東の空に有るふるさとの景色を、義助はどんな想いで
思い起こしていたのだろうか・・・
(118)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら