落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第六章 (11)地租と石代納(こくだいのう)

2013-02-08 10:03:17 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(11)地租と石代納(こくだいのう)




富国強兵政策を強硬におしすすめる明治新政府は、
そのための財源確保が急務となり、各方面でそれらの模索を開始します。
そのひとつとして、大蔵省や民部省では全ての土地へ賦課をして、
一定の額を金納させる新しい税制として、「地租」の導入を検討していました。

 旧来までの土地の賦課への是非は、
大名や領主たちの権限と考えられていました。
従来の検地に代わる大規模な測量の必要性などもあることからも、
政府内では賛否両論があり、容易にまとまる気配がありません。

 1871年(明治4年)に、廃藩置県が実施されると、
国内からは、旧藩主や大名たちが一掃をされてしまいます。
さらに同年には、江戸時代までは禁止とされてきた、米を作るべき田畑での
木綿や煙草の栽培、菜種等の商品化作物の栽培を許可する、
「田畑勝手作」を施行します。

 さらにその翌年には、田畑の永代売買の禁止も解除をしてしまいます。
年貢負担者を土地所有者として認定するようになり、
土地の私的所有を認めるようになったのです。

 土地の所有と、租税のための下準備を積み上げてから
新政府は、ついに新しい税制としての「地租」の導入を決定します。
封建時代から年貢制度として長年続いてきた物納(ぶつのう)から、
それに見合う貨幣での納入制度、「石代納(こくだいのう)」が制定されます。

 ところが、第2次酒田県は、
政府が石代納を認めたにもかかわらず、これを領土内には一切、普及徹底をさせません。
相変わらず年貢時代のように、米での納入を継続させました。
さらに雑税も強制したまま、旧庄内藩の支配層と一部の旧藩士たちによって
米の独占的な流通機構づくりまでをも企てます。

 第2次酒田県は、こうした企てを通じて
地主や農民たちによる米の商品化の道を断ったばかりか、
物納された米の価格と地租との差額分を、その懐に入れてしまいます。
こうした不公正や不正が、県の役人たちのすべてにおよぶようにもなりました。
高すぎる地租への不満が、地主や農民たちの間で時間と共に鬱積をします。



暴動は、1873(明治6年)の、11月にはじまりました。
まず田川郡・淀川村の佐藤八郎兵衛、同郡・片貝村の鈴木弥右衛門を代表とする
「石代納願」が戸長(こちょう:旧大庄屋)へ提出をされます。
こうして始まった「石代納」を求める運動が、
一気に田川郡内の各村を席巻して、それは飽海郡にまでも広がりをみせます。

 さらに、要求はこれだけにとどまらず、
県官の不正追求という方向にへも、農民の運動が展開をします。
翌年に入ると、1月には、櫛引・山浜通りの村々の農民も石代納を戸長に願い出ます。
県はこうした運動の進展を抑えるために、2月には、こうした運動の先頭に立つ、
佐藤八郎兵衛ら指導者数名を検挙をしてしまいます。

 しかし勢いは、一向にとどまりません。
上清水村(現鶴岡市上清水)や、高坂村(現鶴岡市高坂)の農民達は、
3月と4月の二度にわたって、代表を上京させます。
警察・地方行政・土木などを統括する役所である、内務省にたいして、
「石代上納嘆願書」を提出すると共に、己(おのれ)の士族的特権を守るために、
政府の打ち出す施策を隠し続けている第2次酒田県政の悪政を訴えて出ます。


 その結果、同年の7月16日に、
内務省の小丞松平正直(後の宮城県令)が來県して、詳しい調査をはじめました。
佐藤八郎兵衛らを出獄させるとともに1874(明治7)年からの
石代納の実施と、一部雑税の廃止を県に命じます。

 この命令をもとに、田川郡・上清水村の白幡五右衛門が、
酒田の酒造業者・森藤右衛門と提携して、7月中に農民の利益となる
石代会社設立を計画します。
会社は、農民から集荷した米を大阪などへ独自の販路で販売して、
政府に金納した残金を、農民に返金するという仕組みになっていました。
しかしこの計画は、またもや酒田県によって拒否をされてしまいます。

 それでも、農民たちの運動はひるみません。
続いて農民達は、旧藩以来の雑税の廃止を運動の前面に掲げました。
その取立てに当たる村役人(区長・戸長・村長など)に帳簿の公開を求めます。
8月に入ると、運動は旧黒川組(現鶴岡市櫛引)や、旧青竜寺組(現三川町)・
旧淀川村を中心に、横に大きく広がりを見せはじめ、打ち壊しも発生するなど、
次第に暴動化をして、その動きは、やがて最高潮へと達していきます。




・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/