落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (25)トヨタのカムロード

2015-04-30 12:33:39 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(25)トヨタのカムロード



 
 一週間後。『新しいキャンピングカーが完成した』という椎名からの
連絡を受けた勇作が、その足で京都へ向かう。
椎名は、日野自動車でのエンジン鋳造部時代、苦楽を共にした後輩だ。
将来を期待されたが、突然、営業に抜擢された。
エンジンに関する豊富な知識と技術力を高く買われたからだ。
10年近く地方を転々と回された後、5年ほど前から所長として京都へ赴任した。
トラックメーカーは顧客を満足させるために、高い判断能力を持つエンジニアを
最前線に配置するシステムを取るからだ。


 営業所には、ひっきりなしにバスや大型トラックがやって来る。
営業所の裏地には、まるで体育館のような大きな整備工場が建っている。
広い建物の中には、だだっ広いな空間が有る。
車検や整備、部品交換のための車輛が、ずらりと並んで順番を待っている。



 乗用車は10年、10万キロが、使用の目安と言われている。
だが最近は、技術と部品性能が向上してきたこともあり10年、10万キロを
越えても、現役で走り続けている乗用車が日本中に沢山ある。
しかし商業用に使われる大型トラックやバスは、乗用車とは異なる別次元の
耐久性が求められている。
部品の交換や修理がしやすい構造になっていることから、整備を怠らなければ
年式にして20年、走行距離にして100万km以上、現役で走り続けることができる。



 トラックメーカは、運転席と荷台を乗せるための土台部分までしか作らない。
屋根のない『平ボディ』や、アルミで作られるコンテナ(箱)や、特装仕様の
タンクローリーなどは、架装メーカーと呼ばれる別の業者が製造を担当する。
大型のトラックは、使われる用途が多岐、広範囲にわたるからだ。
そのために、用途に応じた荷台がそれぞれ必要になる。
はしるために必要な部分は『トラックメーカー』が作り、物を運ぶために必要な
荷台の部分は『架装メーカー』が製作する。
こうした連携の結果、街中で見かけるさまざまな種類の大型トラックが誕生する。


 2000㏄のエンジンを積んだキャンピングカーが、工場の中で小さく見える。
日本の道路は、単体で長さが12m以下の車しか走れないことになっている。
それでも12メートル近いトラックの横に並ぶと、勇作のキャンピングカーは
まるで小型のミニチュアカーのように見える。



 「トヨタのカムロードという特殊な車両です。市販はされていません。
 日本RV協会がトヨタに依頼して、特別に作らせたキャンピングカー専用車です。
 ベースは、トヨタのダイナ・トラック。
 全長が、4980mm。全幅2110mm。前高が2900mm。
 日本国内の道路事情を考えると、このサイズがベストです。
 これならコンビニの駐車場でもはみ出さず、ピッタリと収まりますから」



 椎名が『どうですか!』と言わんばかりに、ピカピカに輝いている
キャンピングカーの車体を、片手でピタピタと叩いていく。
走行距離5万キロを超えた中古と聞いていたが、全体を見るとすべてが真新しい。
塗装し直した鮮やかな外観が、まるで新車の様に輝いている。
内部にもあちこちに、手を尽くした痕跡が明瞭に見える。
内装品を取り外したあと丁寧に車内をクリーニングし、傷んだ部分が修復されている。


 「愛が見える。さすがに良い仕事をしている。
 だが追加の費用は出さないよ。俺は、早期退職で失業中の身の上だからな」


 「分かってます先輩。そのくらいのことは。
 青い伯爵夫人のときもそうでしたが、なぜか先輩がらみの特別な仕事となると、
 ウチの連中の目の色が変わります。
 エンジニアの血が騒ぐんでしょう。
 寄って集ってのサービス残業をしたあげく、今回もまた先輩のために、
 ピカピカのキャンピングカーを仕上げました」



 「有りがたい。君たちのおかげで、俺の気持ちが挫折しないで済む。
 例の件なら大丈夫だ。なんとかなるだろう。
 いや。なんとかしなければ、頑張ってくれたみんなに申し訳がない」


 「ですが、先輩。
 祇園の老舗でお茶屋遊びをするとなると、ちっとやそっとの金じゃ済みません。
 整備工場の全員となると、10人を超える大所帯になります。
 本当にいいんですか。俺にすべてまかせろなんて、大口を叩いちまって。
 請求書が来てから、後悔することにならないですか?」

 

 (26)へつづく



『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (24)スバリストの終焉 

2015-04-29 10:34:14 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(24)スバリストの終焉 





 「母のためにスバリストのポリシーを諦めるなんて、やっぱりお気の毒です。
 長かったんでしょ。おじ様のスバリストの経歴は?」


 
 「群馬工場へ赴任した時からだから、かれこれ30年になる。
 新田町は富士重工の城下町のひとつだからね。
 地元の自動車メーカとはいえ、車の人気はいまひとつだった。
 業界トップのトヨタと日産の車が人気を集めていた。
 水平対向エンジンという、富士重工の独自システムを愛していたのは、
 地元でもほんの一部の人たちだけさ」


 「水平対向エンジンですか?。初めて聞くエンジンの名前です」


 「セスナなどの軽飛行機は、ほとんどがこの水平対向のエンジンを積んでいる。
 1本のクランクシャフトをはさんで、左右水平にシリンダーが配置されている。
 左右対称の動きが、ボクシングのグローブを打ち合わせる様子に似ていることから
 ボクサーエンジンと呼ばれることも有る。
 振動を打ち消すエンジンは、横置きになるため車に搭載した場合、低重心になる。
 山道の多い群馬では、坂道を軽快に走れるスポーティな車として好まれる。
 だがまぁ。そういう意見は少数派だ。
 俺みたいに、エンジン畑ひとすじで生きてきた人間だけが好むエンジンなのさ。
 水平対向エンジンというやつは・・・」


 「スバリストとしての深い愛着が有りますねぇ、やっぱり。
 この車を残して、新しいキャンピングカーに乗るという選択肢も有ります。
 この軽は、可愛い車体でキビキビと走りそうです。
 私は、こちらの赤いエンジンのキャンピングカーにも乗ってみたいなぁ」



 「早期退職で失業中の身だからね。さすがに、そこまでの贅沢は出来ない。
 こいつを売却した金で、新しいキャンピングカーの支払いをするんだ。
 群馬と京都の間を1往復半走行しただけだが、それでも充分過ぎるほどの愛着が有る。
 手放すのは寂しいが、このあたりですべてをリセットする必要がある。
 全部新しくして、出直そうというメッセージなのだろう。
 すずからの・・・」



 『あら。いつの間に母が、そんな風におじ様に迫ったの?』
美穂の真剣な目が、勇作を見つめる。
『最近、母らしくない言動が目立ってきたの。
自分の意見を決して他人に押し付けない性格のはずの母が、ときどき壊れて、
突拍子もないことを口にすることがあるのよ』
失礼な言い方をしなかったでしょうね、母が、と美穂の白い顔が近づいてくる。



 「あ、いや。そういう意味じゃない。
 すずにひとことも相談しないで、勝手に早期退職したことと、
 軽トラックを改良して、キャンピングカーに変えたことが気に入らないんだろう。
 50歩譲って、すずの言う通りにしようと思っただけだ。
 これから先。すずと2人の長い人生が待っている。
 50歩ずつ譲りあって、残った人生を楽しく暮らしていきたいからね」


 「母が聞いたら喜びます。
 でも、いつものように、母には何も伝えていないんでしょ。おじ様は」




 「男は無口なほうが良い。それが俺の哲学だ」



 勇作の手が、冷え切ったキャンピングカーの車体に触れる。
『お母さんに喜んでもらいたくて、キャンピングカーを作ったけれど、早計だった。
なんで私にひとこと相談しないのよと、頭ごなしに怒られた。
朋花と言う女の子を群馬まで送り届けたあと、京都まで戻って来る車中、
ほんとに狭すぎて、あなたとの距離があまりにも近すぎると、さんざん愚痴られた・・・
失敗したなと思ったが、あとの祭りだ。
で。30年間守り続けてきたスバリストを、卒業する決心を固めたんだ』



 つるりと触れた車体は、すでに氷点下まで冷え込んでいる。
フロントガラスには、霜の白い結晶が咲いている。
綿入れの襟を掻き合わせた美穂が、『そろそろ戻ります。体が悲鳴をあげそうですから』
と白い顔をほほ笑ませる。


 

 (25)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら


つわものたちの夢の跡・Ⅱ (22)FF式の暖房器

2015-04-24 10:41:22 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(22)FF式の暖房器



 「血は争えない。やっぱり、親子だね。
 この車を見た瞬間、すずも、君とまったく同じ言葉を口にした。
 1人で旅するのには好都合でも、たしかに2人となると、少しばかり手狭になる。
 朋花という女の子と旅した時は不都合を感じなかったが、すずと遠くまで
 行こうと考えたら、やっぱりこいつは、少しばかり小さ過ぎたようだ」


 「新婚さんなら、ぴったりと寄り添って居心地が良いでしょうね。
 おじ様とお母さんでは、距離が近くなりすぎます。
 でも、考えたらもったいないですねぇ、こうして手間と経費をかけて
 キャンピングカーに仕立てあげたというのに・・・」

 
 いつのまにか美穂の関心が、変って来た。
母のすずの心配から、こじんまりとした勇作のキャンピングカーに関心が移ってきた。
「面白そう~」と美穂が目を細める。
興味深そうな美穂の眼が、助手席から車内の様子を覗き込む。



 「エンジンをかけているときは、暖房用のヒーターが使えます。
 でも、停車しているときはどうするの?。
 まさか、七輪を持ち込んで、練炭で温めるわけにもいかないでしょう。
 一酸化炭素中毒で明日の朝になっても、目が覚めませんからねぇ」


 「車と心中をするつもりは無いからね。
 エンジンが停止していても、サブバッテリーの電気を使って動く
 FFの暖房機器を、別に設置してある。
 真冬になると車内の温度が、外気につられてどんどん下がるから、
 こいつを装備しておかないとひどい目に会う。
 クリーン仕様のFFヒーターは車内の空気を汚さない、優れものだ」



 「それなら、安心して眠れそうです。
 後部をフラットにしても、せいぜい畳1枚のスペースしか有りませんねぇ。
 起きて半畳、寝て一畳。飯を食べても二合半、しょせん人間そんなもの。
 そんな言葉をどこかで聞いたけど、このスペースでは、わたしでも無理みたい。
 ねぇ・・・もう少しどうにかならないの。
 もうすこし大きな車に変えて、また3人で1泊2日の旅行へ行きましょうよ」



 「君は考え方まで、お母さんとそっくりだね。
 小さすぎるから、わたしのために大きくしろと言う発想もまったく同じだ。
 そのことなら、もう心配はない。
 大きくするための段取りは、すでに手配が済んでいる」


 「え、別の車に買い替えるの!。
 もったいないわ。せっかくここまで細工しておじ様好みに完成させたのに」



 「美穂ちゃん。言っていることがちぐはぐだ。
 狭いから大きくしてくれと言いながら、新しく買ったら勿体ないという。
 いったい、君の本音はどっちだ。
 このままが良いのかい。それとももっと、大きな車のほうがいいのかい?」


 「大きいほうが、良いに決まっているでしょ。
 そうなれば、私が母とおじ様の間に、お尻を入れて割り込めるもの。
 2人でいっぱいでは、私が入り込む隙間さえ無いでしょ。
 で、当然そちらにも優秀なFFタイプの暖房機が、付いているんでしょ」



 「おう。ばっちり装着がしてあるはずだ。
 もっとも、美穂ちゃんが俺に寄り添ってくれれば、暖房機なんかいらないけどね。
 身体どころか、心までぽかぽかと温かくなりそうだ」


 「まぁ、呆れた。母が聞いたら、血相を変えるわよ。
 ああ見えて意外に、男女関係に関しては免疫がありません。
 わたしがボーイフレンドを紹介すると言っただけで、あたふたと動揺するんだもの。
 間違いで私が生まれたけれど、母にとって男と呼べるのは、たぶん・・・
 おじ様、ひとりだけだと思います」


 (好きなんでしょう、いまでも、母のことがオジ様は?)
ウフフと美穂が、嬉しそうな目で勇作の顔を覗き込む。


 (23)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (21)美穂と歩く

2015-04-23 11:32:00 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(21)美穂と歩く






 「長居し過ぎた。そろそろ車に戻る時間だな」

 9時を過ぎたことを確認した勇作が、『どっこいしょ』と声を出し腰を上げる。
『そこまで送っていきます』と、すかさず美穂も立ち上がる。


 「いいよ。疲れているんだろ、美穂ちゃんは。
 今日は早く寝たほうが良い。睡眠不足は美容の大敵になるからね」



 「それならもう、お肌の曲がり角を過ぎましたので、とっくに手遅れです。
 うふふ。歩いて4~5分の距離でしょう。
 往復しても10分程度です。いま寝ても10分後に寝ても、大差は有りません」


 『それに例のお話の続きも有るし・・・』と、美穂が目配せをする。
『ご馳走様。じゃ、また明日』マフラーを手にした勇作が、不満そうな顔を
見せているすずに向って、ひと声かける。
玄関へ向かう勇作を、綿入れを羽織った美穂が小走りで追う。



 すずの自宅から300メートルほどの処に、小じんまりとした公園が有る。
芝生に覆われた公園は、いまは、グランドゴルフの練習場として使われている。
その一角に、車が10台ほど止められる駐車場が有る。
勇作の乗る軽のキャンピングカーは、駐車場の最南端に停めてある。
すずは家の庭に停めろと言ったが、さすがに周りの眼を気にして申し出を断った。


 「気になることって、いったい何だい?」


 「母の様子を見ていて、あれっと思ったことは無い?。おじ様」



 化粧っ気のない顔が背中から追いついてきた。
勇作の右手へ、いつものようにふわりとぶら下がる。
幼いころから美穂は、勇作と手をつないで歩くことが大好きだった。
猛勉強の末。県内有数の進学校へ入学したころから美穂は、勇作の右手に
ぶら下がるようして歩くようになった。


 美穂に、父親の記憶は残っていない。
美穂が1歳の誕生日を迎える前、すずが男のもとから逃げ出した。
何も持たず家を出たすずと美穂は、深夜の京都駅から東へ向かう急行に乗り込む。
勇作の住む群馬へ向って、夜通しの旅をする。
傷心のすずを受け止めた勇作が折り返し、福井の実家まで車で送り届けたことは
執筆済みの第1部の中で詳しく書いた。



 このとき。勇作はすやすやと眠る美穂に、ひとつの約束をした。
1年に1度だけ。3人で思い出作りのため、家族のように旅行することを誓った。
約束は美穂が高校を卒業するまで、1度も欠かさず実行された。



 「少しばかり、忘れっぽくなったみたいだな。
 歳をとれば誰にでもあることだ。
 しっかり覚えたつもりでも、いつの間にか忘れてしまうことも有る。
 思い出そうとしても、記憶の扉に鍵がかかったまま、開かないこともよく有る。
 言いたい言葉がその場で出てこないで、『あれ』とか『それ』などの、
 苦し紛れの代名詞を、良く使うようになった。
 やっぱり、老化現象がはじまったと自分でも自覚している。
 それはすずにも、同じことがいえるようだ」


 「そうなの?、見たことないの、本当に・・・」


 白い顔が、勇作を見上げてくる。
化粧や香水とは別の甘い体臭が、美穂の身体からほんのりと漂ってくる。



 「記憶の引き出しが開かなくなったせいだろう。
 急に無口になり、なんだか、困り果てているような顔を見たことはある。
 話をしている最中、ふいに黙り込むことも有る。
 あれと思ったけど、歳をとれば誰にでも有る現象だろう。その程度の事なら。
 特に、何かを心配するほどの事ではないだろう」


 「おじ様からは、心配するほどには見えないか、母は。
 となるとやっぱり、わたしのただの、取り越し苦労かしら・・・
 あら。これがオジ様の乗っているキャンピングカーですか。
 可愛いですねぇ、小さくて。
 でも。コンパクトなのはいいけれど、これじゃ少しばかり、狭くて窮屈ですねぇ。
 2人で旅をするのには、なんだか小さすぎて少しばかり、
 息がつまってしまいそう」


 (22)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (20)母の気になる症状

2015-04-22 11:06:50 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(20)母の気になる症状




 「気になる症状って、どんな事なの?」
美穂の「あとで」と付け足した言葉に、勇作が反応する。
「たとえば・・・」と美穂が具体例を口にあげようとした時、台所から
すずが戻って来る気配が聞こえてきた。


 「ここじゃまずい。やっぱり、あとで・・・」美穂が片目をつぶる。
「そうだね。じゃ、あとにしょう」すずに聞かれては不味い話だろうと納得して、
勇作が、別の方向へ話を切り変える。



 「それにしても過酷だね。まる2日、一睡もしないで仕事してきたんだろう。
 そろそろ寝たほうが良い。俺もまもなく失礼する時間だから」


 「大丈夫。おじ様の顔を見たら元気が出たわ。
 それにこの程度のことは、序の口です。
 お盆休みのときなんか、連続8日間も緊急手術がつづきました。
 それも、全員が外傷ばっかりで、内容も実にさまざま。
 ガラスで腱を切ったとか、指を詰めちゃったとか、
 そんな風に怪我した人たちばかりが、次から次にやってきました」


 「指を詰めたって・・・まさか、やくざじゃないだろうね」



 「ご心配なく、普通の人です。
 自傷行為でクビ切ったとか、あとは、労災関連のけが人も飛び込んで来ました。
 工場の機械で、手までプレスしちゃった人が数名。
 酔っ払いのおじさんは、大怪我でした。
 大のおとながむかついて、ガラス戸を殴ったあげく腱10本を損傷して、
 神経+動脈まで断裂。おいおい大丈夫かよ、って感じです。
 極めつけは、スナックのママさん。
 夜中にドアで指を詰めたスナックのママが、真っ青な顔で運ばれてきた。
 手術室を終えて、やっと片付いたと思ったら、また看護婦さんが飛んで来た。
 『先生、もう一人やってきました!』
 おいおい、夜中に連続の急患かい!?とおもえば,二人目もドアで指挟んだ男性です。
 夜中になんで二人も、ドアで指をはさむのよ!!?
 2件の手術が終わったら、外はもう、すっかり明るくなっていました・・・
 しかもその日は、午前中は病棟回診。夕方から当直。
 次の日も普通に、朝から仕事。もう、こころの底から泣きました」


 『因果な商売なんです。女医という職業は』うふふと美穂が、
唇の端を歪めて笑う。
すずが紅茶とミカンを運んできた。
炬燵の上にドスンと置かれたミカンが、正月が近いことを物語る。
(そういえば、もう12月の半ばだ。そうか、また正月がやって来るのか・・・)
ヒョイとミカンを手にした勇作が、皮の剥き方に少しの間、戸惑う。



 『貸して』とすずの手が伸びてくる。
みかんのヘソ(ヘタがない側の中心)に指を入れたすずが、そのまま4等分に
ミカンをパックリと割る。
通常の皮を剥いてから食べる方法よりも、1ステップ早い剥き方だ。
ヘタのほうから身を剥がしていくと、白いスジが綺麗に取れる。
ミカンの特産地・和歌山で生まれた『和歌山むき』という早業だ。


 『はい』剥き終えたミカンを、すずが勇作の手の中へ戻す。
黙って受け取った勇作が、実のひとつを、ポンと無造作に口の中へ放り込む。
甘酸っぱい果汁が、口の中いっぱいに広がっていく。


 (美穂ちゃんは、俺に何を言いたかったのだろう・・・
 変った様子は俺には見つからないが、彼女は何かを敏感に感じてとっている。
 いったい何だ。すずの中で、変ってきていることとは・・・)



 ほろ苦い香りが、口の中から鼻にまでひろがったとき。
勇作が、「あれ?」と感じたすずの、つい最近の出来事を思い出した。
(そういえば、不自然だと感じた出来事が、有ったなぁ・・・
何かを思い出せず、すずが困ったような顔をしていたことが有った。
だが、そんなことは普通に良くあることだ。歳をとれば、誰だって忘れっぽくなる。
気になったことといえば、それだけだ。
だけど、それがすずの気になる症状と、なにか関係が有るというのか?)


 (21)へつづく

 『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら