落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第74話 雑魚寝(ざこね)

2014-12-30 11:27:24 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第74話 雑魚寝(ざこね)




 「いまはもう遠い思い出で、おぼろげにしか覚えてしまへんけど、
 昔の祇園には、雑魚寝いう風習がおましたなぁ。
 戦争前までは、お茶屋さんにお客さんが泊まってもよかったんどすえ。
 泊まらはって一晩中お遊びなさるとき、あたしらが呼ばれるのどす。
 おしゃべりしたり、歌をうとうたり、他愛のないことして疲れてくると
 お客さんと一緒に、みんなでごろっと寝るのどす。
 それを、雑魚寝言います」


 「雑魚寝」という、初めて聞く言葉に、サラが小首を傾げる。
帰国子女のサラには、雑魚寝という言葉の意味が分からない。
「雑魚寝いうのは、何人もの人が入り交じって寝ることどす。
年越しの夜や、神社の宵祭りのときなどに、神社の社に男女が集まり、
ともに一夜を明かした風習のことや」
今どきの子では知らんのも無理ないなぁと、小染めが補足を加える。



 「おおぜいの男女が、入りまじって寝るんどすかぁ。
 なんや、ずいぶんと、ドキドキするようなお話どすなぁ」


 雑魚寝と言う遊び方が過去の祇園に存在したことに、早くもサラが
興味津々に青い目を輝かせはじめる。
「これこれ。欲を表に出したらあかん。あんたも意外に肉食系の女子やなぁ」
と横に座った女将が軽くサラをたしなめる。
「ええやろ。若いもんはそのくらい、性欲にも敏感なほうが。健康な証拠や」と
小染めが目を細めて笑う。



 「ずいぶん昔のことどす。最初のうちはウチらもドキドキしたもんどすなぁ。
 お客さんおひとりに、舞妓が2~3人呼ばれましたやろか。
 そら、楽しおしたで。
 同じ年恰好の舞妓たちが呼ばれて、朝まで遊んだり寝転んだりするのどす。
 まあ。いまで言うたら修学旅行のようなもんどすなぁ。
 若い妓たちと一夜を共にして、何もおへんか? といいやすけど、
 祇園の雑魚寝の場合は、どうこう有ったらあかんのどす。
 むかしから、そういう決まりになとんのどす。
 お客さんは、舞妓や芸妓に決して手え出したらあかん、いう決まりがあんのどす。
 また、そういう信用のおけるお客さんとしか雑魚寝することを、
 屋形のお母さんが許しまへん。
 出たての舞妓の場合は、まだお人形さんと一緒に寝てるようであんまり、
 どうこういう気にならへんやろうけど、芸妓のお姉さんたちが
 雑魚寝に加わると、やはり、空気が変わってきますなぁ。
 匂い立つような色香で、そら、ずいぶんとなまめかしい雰囲気になります。
 あたしらひょっこの舞妓は修学旅行の気分で騒いでいても、
 芸妓のお姉さんや、お客さんは、大変やったのとちがいますか。
 どんなに好きおうても、何もできず、じっと耐えながら、
 夜を過ごすんですさかい。
 まあ。雑魚寝がきっかけで、のちにどうこうなったというお話は、
 一度も聞いた記憶がおへんけどね」



 「雑魚寝と言うのは、手も足も出さんと、男女が一緒に夜を明かすことどすか・・・
 乱交パーティと言うのは聞いたことがおますけど、それとはまた
 違う形のようですなぁ。
 性欲を抑えて寝るなんて、ずいぶんと残酷な儀式どすなぁ」


 「これ。サラちゃん。あんたもませとるなぁ。
 どこで覚えてきたんや、性欲とか乱交パーティなんていう、超過激な言葉を」



 「ネットで大評判になった、ある事件から知ったんどす。
 香港では、毎日毎日、それこそ大騒ぎどした。
 歌手で俳優のカレン・モクが、中国の乱交パーティについて語った事件どす。
 去年のことどす。
 中国の海南省でぜいたく品を一堂に集めた展示会、「海天盛筵」、
 通称、海南ランデブーが開幕したときのことどす。
 ビジネスジェット機やヨット、別荘などが展示されますので、
 中国の富裕層がこぞって参加するんどす。
 その会場内で、乱交パーティーがあったという情報が、ネットに流れたんどす。
 会場内で2000個の避妊具が回収されたと、中国側も報道しました。
 著名な富豪や、有名タレントたちもこのパーティに混じっていたといわれていますが、
 主催側は完全に否定したそうどす
 乱交パーティと言うのは、そういうことなんだってウチそんときに、
 初めて知りました」



 ネットからそんな情報まで入手しているのかいな、いまどきの子は、と
小染め姉さんが、女将と顔を見合わせて目を丸くする。
(それにしても帰国子女と言うものは、想像以上にストレートに物事を語りますねぇ。
実に、驚かされる性格ですねぇ・・・)と見つめられた女将も、
小染めに、納得した顏で相槌を返す。


第75話につづく

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おちょぼ 第73話 「お花」とは

2014-12-28 11:28:19 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第73話 「お花」とは


 
 「その元気どす。
 若い人たちのやる気が、これからの祇園を盛り上げるんどすなぁ。
 器量は、自分ではどうしょうもできないことどすけど、
 舞の場合は、毎日気張って稽古をすればするだけ、自分に返ってきます。
 あたしは毎朝早う起きて、お師匠さんとこへ番取りに行きましたえ。
 そやけどなぁ、どんだけ早く行って待っていても、あとから売れっ子のお姉さんが
 おいやしたら、あたしらひょっこは『どうぞ、お姉さん、お先にどうぞ』
 いうて、譲らなあきまへんのや。 
 つくづく、あたしも早く売れるようになりたい、思いましたえ。
 うちとこは、お祖母さんがもう芸妓をやめてはりますので、
 働き手はあたし一人どした。
 弟や妹もいますさかい、一本でも多くお花を売らなあかんかったのどす」



 「お花・・・お座敷のことですか?」



 サラの疑問に、女将がすかさず横から解説を挟む。
花街独特のならわしは、女将が説明するほうが手っ取り早い。
最長老芸妓の小染めは、『まかせました』とばかり、手元に置かれている
ほうじ茶へ、そっと静かに手を伸ばす。


 「お花代いうのは、お客さんが、舞妓さんや芸妓さんに払う時間給のことどす。
 もともとは線香に火をつけて時間を計り、その本数で料金を決めておりました。
 お線香を「お花」と呼んでいたことが、「お花代」の由来どす」


 「むかしは、線香で測っていたんどすか、時間のことを」



 「線香が燃え尽きる時間を一つの単位として、一本と呼んでいるんどす。
 一本が何分に当たるかは、花街によってそれぞれに異なります。
 お花が一本、二本と数えるんどすが、祇園甲部では、一本は五分に当たります。
 一時間は、十二本になりますなぁ。
 先斗町では、一本は十五分で、一時間は四本と数えます。
 上七軒では、一本は三十分で、一時間は二本という計算になります。
 舞妓はお座敷に行くことを、『お花行ってきます』と言うんどす。
 あと、ご祝儀というのがあんのどす。
 お客さんが、芸妓や舞妓に渡すお祝いの金一封のことどす。
 おかあさんに渡し、おかあさんから芸妓に渡してもらうこともありますなぁ。
 直接受取った場合は、必ず誰から何をもらったか、おかあさんに報告するんどす。
 いただいた方への礼儀を、忘れないためどす。
 きちんとしたお礼の言葉や礼儀が、花街では、いまも生きているんどす」



 「勉強になります」とサラが、ニコリと笑う。
「打てば響くようで、ほんまに気持ちのええ子やなぁ」と、傍で聴いている小染めも
ニッコリと目を細めて笑う。
「いまは、祇園で働くおなごが少な過ぎるため、舞妓も芸妓もよう売れます。
けどなぁ。うちらが現役の頃は、苦労したもんどす」
と、ほうじ茶を呑み終えた小染が、ふたたび昔のことを口にする。



 「前もってお花(お座敷)が付いていることを、前花といいますのや。
 いまふうに言うたら、予約が入っているいうことどす。
 そんなときは、支度にも自然と気いがはいりますけど、競争の激しかった当時は、
 前花もなんにもない場合のほうが多かったんどす。
 支度はしたものの、お茶屋さんからの連絡を待っているだけどした。
 夕方5時になっても、声がかからへん。
 7時を過ぎても、電話はあらへん。
 9時過ぎて、ようよう呼ばれていくことも多かったんどす。
 予約が入っていなくて、その日に連絡をもろうてお座敷に出るのを、
 『ひろい花』いうんどす。
 9時過ぎになってはじめて家を出るのは、恥ずかしゅうてね。
 『ああ、小染めちゃん、ようやっとお座敷がかかったわ』いわれるんやないか
 思うて、そろ~と出掛けたものどす。
 おこぼいう舞妓さんの履物は、コポコポと音がしますさかい、
 おちょぼさんに持たせはって、自分は草履をはいて行かはって、お茶屋の前で、
 履き替えるお人も、中には居はりましたえ」


 「あっ。そういえば・・・ウチには、おこぼの問題が残っていますなぁ~!」
サラの顔に、にわかに緊張の色が走る。
長身のサラにとって舞妓が履くおこぼは、これからの最大の難題になる。
おこぼとは、舞妓さんが履く高さ10cmほどの下駄のことだ。
別名を、「こっぽり」とも言う。
履きなれない内は不安定で歩きづらい。
だがそれが、舞妓の「おぼこい」姿を演出する、またとない要素にもなっている。
しかしサラの場合、おこぼを履くとゆうに、180センチを超える大女に変身してしまう。
そのうえ舞妓の日本髪を結いあげると、身長はさらに高くなっていく・・・


第74話につづく

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おちょぼ 第72話 大正から昭和初期

2014-12-27 12:56:20 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第72話 大正から昭和初期




 昭和の初期。祇園新地とよばれていた祇園に、お茶屋の数は370軒余。
芸妓は、900人以上いたと言われている。
舞妓の数も、おそらく、100人を越えていただろう。


 時代をさかのぼって、明治40年のこと。
作家の吉井勇が22歳の時、与謝野寛、北原白秋らと九州旅行へ行った帰りに、
京都に立ち寄り、祇園へ足を運んでいる。
これがきっかけになり、以後吉井は、どっぷりと祇園の世界にはまり込む。


 吉井が初めて上がったのは、”むさしの”というお茶屋だ。
呼ばれて同席した舞妓の、あまりもの美しさに思わず我を忘れたと言う。
胸を大いにときめかしたという、エピソードが伝わっている。



 「最近、舞妓さんと芸妓さんの数がすくのうなりました。
 いまは舞妓さんが30人くらい。芸妓さんは90人くらいやと思います。
 少ないさかい、いまの舞妓さんはみんな売れっ子どす。
 お座敷がかからんいうことは、まずないのとちがいますか。
 あたしらが舞妓になった時分は、舞妓だけでも、100人近くおりました。
 舞妓と芸妓をあわせて800人ぐらいが、祇園におりました。
 大正12年に関東大震災が起こり、映画の中心が京都にうつって来たんどす。
 そのため祇園は、えらい景気がよかったんどすなぁ。
 そやけど、あたしらひょっこは、まったく売れへんかったぇ。
 あたしの前の年にで出はったんが、春勇姉さん。
 同じ年に出たのが、初子さん、ひろ子さん。
 別嬪さんやら、明るく楽しいひとが、たっぷりと揃うてはりました。
 お呼びがかかるのは、別嬪さんからどした。
 あたしは小さいし、おとなしゅうて地味やったさかい、
 あんまりお声がかからへんかったのどす。
 たいてい、お茶屋の女将さんがお客さんの注文に合わせて、舞妓さん何人、
 芸妓さん何人と、屋形に頼みはります。
 そのとき、誰に声をかけるかは、女将さんの胸3寸どすなぁ。
 『今度、○○さんから出た妓、えらい可愛らしいんやて。呼んでみよかいな』
 てなぐあいに人選が決まります。
 あとは、店出しの時に引いてくれはったお姉さんが、面倒見のええお方で、
 しかも売れて売れて、お花(お座敷)のようつく人の場合は、
 『今度ウチの妹が出ましたんえ。呼んでやっておくれやす』と
 客はんに頼んでくれはるんどす。
 ま。そないなお姉さんが居やはらへん場合は、自分できばらなあかんのや。
 まず、舞のお稽古に精出して、励むことどす。
 舞妓の場合。別嬪さんの次は、『今度の妓、よう舞うで。いっぺん呼んでみよか』
 と、舞の上手な妓が呼ばれるのどす」



 「芸は身を助けるの、見本どすなぁ」とサラが、またまた相槌を入れる。
「よう知っとんなぁその若さで。誰ぞにおそわったんかいな。そないな格言を?」
屋形の女将の問いかけに、「母に教わりました」とサラがおおきく胸を張る。



 「いいとも財団の末娘のことかいな。あの子も器量良しの子やったなぁ。
 英語の留学なんぞに行かなければ、今頃は祇園の売れっ子芸妓に育っていたはずや。
 勿体ないことをしましたなぁ、あの子は。ほんまに」

 「え・・・母がむかし、祇園で舞妓を目指していたんどすか!」


 「なんや。知らんのか、あんたは。
 あんたのお母はんという人は、子どもの頃から舞の素質が有ってなぁ。
 ひさびさの逸材やと、みんなが将来を期待しとったんや。
 けどなぁ。幸か不幸か人並みはずれて、英語が得意やった。
 少し勉強してくると香港へ留学させたのが、つまずきのはじまりや。
 あ。いけん、あんたを前にして言うべき話や、ないなぁ」



 「わたしが舞妓になりたいと言い出した時。
 なんも言わずに背中を押してくれたのには、そういう事情があるんやな。
 そうかぁ。ウチは舞妓になり損ねたお母さんの、代打なんどすなぁ」


 「そうや。あんたは18年ぶりに祇園に戻って来た、大型新人の代打や。
 責任はずしっと重いでえ。そのくらいの覚悟は、とうに出来てんやろうなぁ」


 「はい。母の分まで、ウチが頑張ります!」


 
 屋形の女将が、鋭い視線でサラを見つめる。
見つめられたサラも、一歩も後に退かない。
『まかせといてな」とこぶしを小さく握りしめて、
『母の分まできばります~』と、ガッツポーズをとってみせる。


第73話につづく

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おちょぼ 第71話 大正時代のはなし

2014-12-25 11:00:45 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第71話 大正時代のはなし



 小染めが、大正末期ごろについて話しはじめた。
小染めが2歳の時。大正12年に、マグニチュード7.9の関東大震災が発生している。
神奈川と東京を中心に、千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸部一帯に、
きわめて甚大な被害をもたらした。


 余り知られていないことだが、京都に日本映画原点の地がある。
1895年に発明されたリュミエール兄弟によるシネマトグラフが、2年後の1897年、
パリから日本へ輸入されている。。
「最初の映画」と呼ばれるシネマトグラフが、日本で初めて投影されたのが、
中京区にある元・立誠小学校だ。
当時は京都電燈(現在の関西電力)の建物が此処に建っていた。
この場所で日本初の「映画」試写実験が、成功している。



 震災で壊滅的な被害を受けた後、東京の映画関係者たちがこぞって
京都に集結し始める。
それには、こうした過去の時代背景が含まれている。


 
 「あたしが祇園に戻ってきたのは、4歳くらいやったと思います。
 祇園で暮らし始めて、そら、前が農家どすさかい、えらいビックリしました。
 都会の真ん中にいきなり、連れてこられたわけどすから。
 朝からタバコ吸うてはるお祖母さんやお母さんが、お昼から銭湯へ行き、
 帰ってくると鏡台の前に座るんどす。
 芸妓の顔になるためのお化粧をはじめるんどすなぁ。
 変っていく様子をそばで見ているのが、あたしは好きどした。
 あたしもあんな風になりたいて、憧れたもんどす。
 そやから、ごく自然に、自分も舞妓になるんや思うてたんどす。
 お祖母さんと言う人は、明治の御維新の前から、舞妓に出てはった方どす。
 有名な芸妓さんの妹として、姿も芸も粋な名妓といわれはったそうどす。
 でもまぁ、こわいお人どしたぇ。
 家に写真が飾ってありますが、それを見るだけで、いまでも怖い。
 お酒をよう呑まはって、お座敷から帰ってきやはると、あたしが寝てても
 『ちょっと起きやし』いわはって、あたしを座らせんのどす。
 ほて、また呑まはります。
 お話やら聞いてても、なんやわからんけど怖かったことだけは覚えとります。
 お母さんのことは早ように亡くならはったんで、あんまり覚えてまへんなぁ。
 お祖母さんは舞ひとすじのお人で、屋形から独立してに自前になっても、
 旦那さんに頼るわけやなし、舞とお座敷だけを生きがいに、
 がんばってきやはったんどす。
 家を持ち、あとつぐ人が欲しくなって、妹分の芸妓さんで子供が出来て
 思案に暮れていた、あたしのお母さんを養女にしたんどす」



 「女ばかりの世界どすなぁ、祇園は」とサラが横から口を挟む。
「そうや。ある意味で祇園は、女系が支配する世界どす。
美しすぎるアマゾネス集団などと、悪口を言うてはる旦那衆もおるくらいや。
けど。大勢の女たちの活躍で祇園が成り立っておるのは、まぎれもない事実どすなぁ」
背後に控えた屋形の女将が、にんまりと笑う。
「そういうことやなぁ」と、小染めが、ちびりとほうじ茶を口に含む。



 「舞の稽古は、小さいときから行ってましたえ。
 習い事は6歳の6月6日からはじめるのがええと、昔から言われとります。
 正式に入門するのやのうて、遊びみたいにして、お師匠さんの家に伺います。
 「ほな、ちょっと、おさらいしてみまひょうか」というぐあいどした。
 ここらへんの子供は、みんな尋常小学校へ通うんどす。
 あたしも3年まで行って、その後は女紅場へ移りました。
 女紅場と言うのは、舞妓に出るための勉強をする場所どす。
 舞とお三味線が中心で、ほかにお裁縫や字いを習いました。
 昔の事どすから、修身や礼法の時間も有りましたえ。
 昔は1月7日の始業式に、日ごろの勉強の成果をちょっとずつ披露したんどす。
 舞やら、お三味線やら、お裁縫なんかもね。
 女紅場の勉強は、尋常小学校にくらべたら、そら楽どした。
 算術やつづり方などのややっこしい勉強は、さら~としかせへんのどす。
 あたしは舞のお稽古が大好きどしたさかい、毎日が楽しいおした。
 学校とかお稽古以外に、子どもどうし、よく遊びましたえ。
 女の子どすさかい、おままごとをするんどす。
 やっぱり、舞妓さんごっこが一番多いんどすなぁ。
 いちばん綺麗な子が、売れっ子舞妓の役どす。
 あたしは身体が小さかったので、おちょぼの役をようやらされました。
 おちょぼいうのは、舞妓さんや芸妓さんのお供やら、使い走りをする
 見習い中の女の子のことどす。
 仕込みさんともいいますなぁ。ちょうど今のあんたと同じ立場どす」



第72話につづく

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おちょぼ 第70話 最長老の、むかし話

2014-12-24 13:52:06 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第70話 最長老の、むかし話




 「ハトが豆鉄砲食らったような顔してますなぁ。無理もありまへん。
 まずはあたしの自己紹介をしまひょ。
 芸妓名は、「小染め」言います。
 あたしの家は、四条通りを挟んで八坂神社の北側、祇園町の末吉町どす。
 観光客でにぎわう四条通りから、ほんの少し入ったところで、
 お茶屋さんや屋形やらの古い家が並んでいます。
 昔とかわらないたたずまいの一角どす。
 あたしのお祖母さんと、お母さんも、舞妓から芸妓にならはったお人どす。
 あたしで数えて3代目の芸妓どす。
 産まれは大正の10年の6月どすが、お母さんがずぼらです。
 届けたのが7月で、戸籍上では7月の25日か26日が誕生日になってます。
 父親の顔も名前も知りません。
 祇園の場合、これがわりと当たり前の出来事なんどす」


 小染めと名乗った93歳の現役芸妓が、サラを相手に身の上話をはじめた。
最長老の芸妓は、祇園を歩く生きた字引だ。



 「戸籍どすか。みんな母親の姓を名乗るんどす。
 昔は、15歳くらいで子を産まはる妓もいました。
 水揚げしたり、旦那はんがつかはって引かされ、与えられたお家で
 お子さんを産む場合もありました。
 お腹が大きくならはると、屋形のお母さんやらお姉さんやらが、
 あんた、子供は産んどきいなあ、というようなもんどす。
 いまは芸妓さんが子どもを産むということは、あんまりおまへんなあ。
 当時とちごうていまのひとは、あとあとのことまで考えて産まはらへんのと
 ちがいますやろか。
 認知やら養育費やら、きちんとしてくれはったら産むのやろうけどねぇ。
 昔は『産んどきいなぁ。べつに悪いようにはしやはらへんえ』と、まあ、
 祇園全体で子供の面倒を見たいう感じどしたなあ。
 女の子やったら、『いや~、よかったなあ』って喜ばれます。
 女の子の場合も、赤ん坊のうちは、よそに預けられたんどす。
 あたしの場合は、お祖母さん、お母さん、2人とも芸妓でお座敷に出んならん
 さかい、あたしの面倒はようみられしまへん。
 お乳の出る人を探して、預かってもらったんどす。
 それを一種の商売のようにしているひとがいまして、祇園の子は
 みんな預けられたんとちがいますか」



 「へぇぇ・・・凄いお話ですねぇ・・・」サラが青い目を真ん丸にする。
「無理あらへん、あんたが生まれるずっと前で、年号が昭和に変った頃の話や。
関東大震災と言うのが有って、東京が全滅したことが有んのどす。
そのせいで、映画の撮影所が京都に移ってきはりました。
映画関係者やら俳優さんやらで、京都の町が賑やかになった頃のことどす」
関東大震災ですか・・・ふぅ~ん、初めて聞きましたと、サラがあいづちを打つ。



 「預けられたのは、左京区の岩倉と言うところでいまはお街になってますが、
 当時は農家ばかりの、えらい田舎どした。
 里親は野良仕事で忙しいさかい、みんなが畑仕事をしているときは、
 籠のようなものに入れられて、あぜ道に置いとかれるんどす。
 月に一度、お母さんが預け料みたいなお金をもってきはるんどすけど、
 あたしの汚れた顔を拭うたり、着物を着替えさせて、なんやたまらなく
 不憫やったといいますえ。
 祇園で毎日きれいにして暮らしているお母さんから見たら、
 あたしのことが、すすけたような姿に映ったんどっしゃろなぁ。
 けどあたしは子供心に、なんも覚えておりません。
 生まれてすぐに預けられましたやろ、そういうもんかいなと思うて
 別にどういうことおへんどすたぇ。
 祇園の子供の父親は、名の通ったお方や、由緒ある家の旦那さんが多かったんどす。
 けど中には、え、あんな男が、と陰口を言われるような場合もあります。
 実を言うとあたしの父親もそうで、物心ついたころ、
 お祖母さんにきつく言われました。
 『ええか。お父ちゃん言うて会いに来ても、決して会うたらあかんよ。
 あんたに迷惑をかける男どすぇ』と、何度も言われました」


第71話につづく

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