落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第六章 (8)「藩籍奉還」と「廃藩置県」

2013-02-05 10:13:51 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(8)「藩籍奉還」と「廃藩置県」




 明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と、朝敵となった諸藩からの没収地へ
それぞれ行政官を派遣してそれらを直轄地として支配をしました。
富国強兵を目的とする近代国家建設を早急に実現するためには、
中央集権化による地方支配の強化が急務です。



 最初に実施された「藩籍奉還」は、
旧藩主たちが、藩(土地)と籍(人民)を、天皇に返上したうえで、
あらためて藩知事として任命されるというものでした。
さらに中央集権化を強めるために、その後に「廃藩置県」が実施されます。
3府72県にわたって、中央政府から知事を派遣するという
制度も実施されています。

 また江戸幕府下の「士農工商」による身分制度は廃止され、
「四民平等」が、宣誓されました。
しかし、明治四年の戸籍法では、旧武士階級は士族としてあつかわれ
それ以外は、平民と呼ばれます。
旧公家や大名は、あらたに華族として特権階級になりました。
こうした急激な構造の変化が相次ぐ中でも、特定の地域や地方では、
旧藩主たちによる支配勢力が、生き残りを企だてていました。

 戊辰戦争の戦後処理を上手にくぐりぬけ、
旧支配階級や武士集団を温存させた、庄内藩と藩主の酒井家の
とった手法は、まさにそうしたものの代表です。

 明治2年(1869)4月に
庄内藩主・酒井忠宝(ただみち)は「版籍奉還」を請願して、
6月にはそれが認められました。
同月15日には、磐城平へ8月までに転封するようにと命じられます。


 しかし7月22日になると、
代償金70万両と引き替えに、藩主としての庄内復帰が認めらてしまいます。
さらに同月の24日には、正式に庄内藩知事として任命を受けます。
同年の9月29日には、政府の「藩名改めの命」によって
同藩名を「大泉藩」と改称することになりました。
管轄地高を12万石としたうえで、ひきつづき最上川南の地域にある、
301カ村を統治することになります。


 大泉藩はこうして生き残った旧支配体制を維持しながら、
外国船を購入したり、交易や外国商人との生糸貿易など活発化させ、
独自の経済政策をとり続けます。
また新政府には反発と抵抗を続けながらも、薩摩の西郷隆盛には、
急速に接近するようにもなりました。

 そののちに大泉藩は、
1871(明治4)年7月14日の「廃藩置県」によって「大泉県」と変わり、
藩知事の酒井忠宝が免ぜらたために、ようやく藩体制は消滅することになりました。

 しかし同年の11月2日になると、政府の直轄地であった
「第1次酒田県」・「大泉県」・「松嶺県」の3県が合併をして
庄内の全体を県域とする「第二次酒田県」が誕生をします。
ここへ再び、松平親懐が大参事、菅實秀が権参事として就任をしたのをはじめ、
県官吏のほとんどへ、旧大泉藩士幹部たちが返り咲いてしまいました。
こうして再び、旧庄内藩がその職域を独占することになります。

 開墾が進んだ「松が丘」では、
その2年後となった明治7年の春になると、約五五〇〇〇〇本の桑の木が
一斉に新芽を葺き始めるようになりました。
また養蚕技術の実習のために、上州・島村の養蚕農家へ17名が派遣をされています。


 70日間の実習ののち、6月の末に一団が帰郷をすると、
ただちに、蚕室の建設が始まりました。
島村にあった2階建ての構造を摸した蚕室、4棟があいついで完成をします。
内部の通気と換気のために、屋根の上に通気口の櫓をもつこの建物の瓦には、
取り壊しが決まった鶴ヶ岡城の瓦が再利用をされています

 新政府による、廃藩置県が進む中、
山形県の内部では、旧庄内藩主・酒井家がさらに巧妙に、
生き残りのための策をめぐらします。
武装解除はしたものの、旧庄内の武士集団を存続させるために、
松が丘開墾場の開拓民に姿を変えさせて、それらの兵力の温存を計りました。


 やがてこの武士集団が、
その威力を発揮するときがやって来ます。
大凶作に端を発した農民たちの騒動が、庄内一帯を覆い尽くす時がまもなくやってきます。
明治時代における、自由民権運動のはしりとも言われる、
「ワッパ騒動」の始まりです。




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