落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第七章 (3)民子の決意

2013-02-16 09:55:51 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(3)民子の決意





 父が申すには、

 「さてこの度。お国の為に、
 その方を、富岡御製糸場へ遣わすについては、能よく身を慎み、
 国の名家の名を落さぬように、心を用うるよう心がけよ。
 入場後は、諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場が出来たおりには、
 差し支えなどの無きように、良く仕事を覚えて候う。
 かりそめにも、業を怠るようのことなすまじく、
 一心にはげみまするよう 気を付くべく」

 と厳しく申し渡されました。
次には母が、このようにも申します。



 「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、
 常々の教えを能く守らねばならぬ。
 また男子方も沢山に居られるだろうから、
 万一身を持ちくずすようなことがあっては、第一御先祖様へ
 対して申訳がない。
 また、父上や私の名を汚してはなりませぬ」


 と申しましたから、
私は毅然として、このように返答をいたしました。



 「母上様、決して御心配下さいますな。
 たとい男千人の中へ私一人入れられましても、
 手込めに 逢えばいざしらず、
 心さえ、たしかに持ち居りますれば、
 身を汚し御両親のお顔にさわるようなことは
 決して致しませぬ」

 と申しましたら、母が、


 「その一言でまことに安心した。
 必ず忘れぬように」 とも、重ねて申されました。



 一行の人々の両親も、皆このように申されたであろうと存じます。
と、長々と最初に口をひらいたのは、前橋藩の元家老の長女娘で、
民子となのる、歳年長参加の娘です。


 23歳と言いますから、琴とは10歳は違うことになります。

 また最年少となるのは、沼田城下から参加した咲という少女で、
真田の末裔にあたるという下級武家の一人娘です。
上州の沼田と、信州の真田家との関わりは深く、
幸村の父の代より、3代にわたって統治をされた歴史が残っています。
沼田より吾妻の山中を貫いて、信州・真田へと至る山間の一本道は、
いまだに「真田道」と呼ばれており、六文銭の面影が、
いまでも色濃く漂っています。



明治5年(1872)2月に、
製糸機械の手配を終えたブリュナが、フランス人技師3名と
女教師4名を引き連れて、開業を待つ富岡製糸場へと戻ってきました。
これを受けて、政府は開業へ向けての工女募集を議決します。
各府県に対して一斉に募集勧告を布達します。


 しかし5月に至っても、工女募集に対する応募はまったくありません。
政府は、あらためて各府県に対して諭告書を発布しました。
7月にはいると、富岡製糸場ではすべての工事が完了して、
開業に向けたその準備などがすべて整います。

 富岡製糸場の初代場長となった尾高は、政府が5月に発布した諭告文に基づき、
娘の勇(ゆう)を差し出すことを決意します。
これにより、武州近隣の娘達が行動を共にする気運が生まれます。
こうして武州(埼玉県)秩父よりの娘たちの一団が、
富岡製糸場での入場の第一号になりました。

 9月15日、工女募集に対する応募が少なすぎるために、
政府は東北各県に対して、さらに「繰糸伝習工女雇入心得」を通達します。
15歳から30歳までの女子、人員10人~15人までを、来る11月29日までに
差し出すようにというものです。

 これにより、各県でもしぶしぶながらも官吏や各藩士が、
自分の娘をさし出すことに応じはじめます。
10月4日、ようやくにして人員が整った富岡製糸場が、
その操業を開始しました。


 安中の宿では、
似たような身の上話が延々と繰り返されています。
明日の朝も、早い出発という段取りが知らされて、
ようやく、全員がそのまま雑魚寝の形で就寝をします。

 翌日の道中は、安中宿より富岡へ抜ける3里余りの山道です。
20名の子女たちは思い思いに群れとなり、
前日よりは元気を取り戻した様子で、不平も言わずに歩きはじめます。
やがて、行く手の桑畑のうねりの先に、
ひときわ高くそびえる、大きな煙突が見えてきました。
一行からは、思わず歓声があがります。


 この当時の富岡は、
城下というにはあまりにも閑静すぎて、町の様子を見てとると、
見渡す限りに桑畑がただただ続いているというばかりです。
閑散としすぎていて、錆びれた景色ばかりが
延々と続くばかりの寒村の佇まいです。

 しかしその真ん中に、忽然と
赤れんが造りの巨大な建物が現れて、高くそびえる煙突は、
工場の屋根群とともに、燦然とその輝やきをはなっています。

 完成してからまだ2年余り。
前橋から派遣された女子20名と琴は、日本で最初に誕生した
大規模な製糸工場、富岡製糸場を初めて目のあたりにします



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