落合順平 作品集

現代小説の部屋。

北へふたり旅(48) 北へ行こう④

2019-10-30 14:40:12 | 現代小説
北へふたり旅(48)


 オートバイが登場すると急速に廃れてしまったが、スクーターは
敗戦直後の日本で、爆発的に広まった。
昭和20年代から30年代前半まで、日本中を走りまわっていた
その先頭を走ったのが富士産業が生産したラビットスクーター。


 1947年、ラビットが市場に出た。
1958年にホンダのオートバイ、スーパーカブが出るまでのベストセラーだった。
販売が終了する1968年までで、50万台を売った。
いまも修理しながら、乗っているファンがいる。

 開発のきっかけは、中島飛行機の大泉工場跡へ進駐してきたアメリカ軍。
兵士が乗っていたパウエル製スクーターを見て、「なんだあれは?」
「恰好いいじゃないか」と騒ぎになった。
技術屋たちが、「エンジンに椅子と尾輪を付ければいいんだ」と考えた。
倉庫に残っていた航空機の尾輪と、買い付けてきた資材で、
スクーターをつくりあげた。
こうして誰もが気軽に乗れる、手軽な乗り物が誕生した。


 「こいつは売れるぞ」
女優の高峰秀子、北原三枝、白川由美らを起用して大々的な宣伝をたちあげた。
その効果もあり、ラビットは時代を象徴する乗り物にのしあがる。
しかし。オートバイの台頭で時代が変わっていく。


 ラビットスクーターは戦後最初の看板商品として、その役割をおえたが、
ふたつの点において、その後の富士重工の発展の基礎をつくった。


 まず販売店網を運営するためのノウハウを得た。
スクーターを売るための拠点と、エンジン修理のコツを全国へひろげたからだ。
この開拓はつぎにうみだされる軽自動車、乗用車を売っていくための
貴重な土台になった。
スバル360の登場がそれをさらに加速させる。
『中島飛行機が作った車だから売れるだろう』と、モノがないうちから
商社の伊藤忠も乗り出してきた。


 もうひとつは会社のイメージが向上したことだ。
前身の中島飛行機は大企業だったが、戦争をささえた軍需産業でもあった。
どこか戦犯的なイメージが漂う。
民主主義の時代に、すこしだけ窮屈で肩身の狭い思いをしていた。
それが一転した。


 とくに次の時代をになう子どもたちから、圧倒的な支持を得た。
テレビドラマ「少年ジェット」の登場だ。
少年ジェットは1959年から、フジテレビで放映された実写のドラマ。


 「少年ジェットが乗っていたのは、スバルのスクーターですか。
 白いオートバイにまたがっていたような、そんな記憶がありますが・・・」


 「オートバイにまたがって登場したのは、月光仮面だ。
 ホンダ ドリーム C70 というバイクさ」


 少年ジェットも月光仮面もどちらも、戦争を知らない子どもたちのヒーロー。
こどもたちの胸の奥に、大人になったらいつの日か、ヒーローが乗っていた
あのスクーターやオートバイに乗ってみたいと思わせた。


 「ちなみに君があの頃乗っていたプリンスのスカイラインだけど、あれは
 中島飛行機のエンジン生産グループが作り出したものだ」


 「え?。ウソ!。日産よ。スカイラインは日産プリンスでしょう」
 
 「日産プリンスは、日産に吸収合併された後のことだ。
 エンジン部門の富士精密工業が、旧立川飛行機のたま自動車と合併する。
 そののちプリンス自動車と社名を変更する。
 そのとき開発されたのがスポーツカーの名車、プリンススカイラインだ」


 「それがどうして、日産になっちゃうの!」


 「1年遅かった。
 その一年後。旧中島飛行機の6つの会社が集まって、富士重工をたちあげる。
 6つの星が輝くエンブレムは、それを記念してつくられた。
 もっと早く再結集が実現していれば、富士精密工業も参加していただろう。
 そうなればエンブレムに、7つの星が輝いた」

 「それが実現していればあの頃の愛車は、水平対向エンジンのスカイライン。
 乗りたかったですねぇ。低重心のスポーツカーに・・・
 残念です。エンブレムが6つのままだったのは」

 


 
(49)へつづく


 北へふたり旅(47) 北へ行こう③

2019-10-27 17:40:41 | 現代小説
 北へふたり旅(47)




 昼12時。
今日の作業が終わる。
ベトナムの3人は、午後5時まで働く。
しかし、シルバー世代は12時で解放される。
働き過ぎると税金が高くなるからだ。


 いちど家に帰り、着替える。
車へもどり、太田市の東にあるショッピングモールへいそぐ。
片道およそ30分。いつものことだが、ちょっとしたドライブになる。


 郊外からのバイパスがそのまま市街地へ突入していく。
市街地のど真ん中に、スバルの(富士重工)の工場がたっている。
スバルの矢島工場だ。
太田市はスバルの企業城下町。
かつてここに中島飛行機の巨大工場群があった。


 中島飛行機は大戦時、東洋最大、世界有数といわれた航空機メーカー。
2万4000機の機体と、4万4000台の発動機を生産した。
鉄道の引き込み線があり、専用の飛行場も持っていた。
「太田製作所」と「小泉製作所」の中間につくられた飛行場は
幅70メートル。全長1300メートル。




 飛行機を運ぶための専用道路もつくられた。
専用道路は幅が30m以上あった。
完成した機体が主翼を広げたまま進むことが出来たという。
敗戦後。中島飛行機は15の会社に分割された。


 矢島工場を迂回した道路が、南端の交差点から東へむかう。
300メートルほど先で、矢島工場の正門が見えてくる。


 正門のとなり。スバルの歴史が観られるビジターセンターが建っている。
その前庭に、ジェット機が展示されている。
ジェット練習機、T-1だ。


 「自動車メーカの展示スペースなのに、ジェット機がおいてあります。
 いつも思うけど違和感がありすぎますねぇ。この光景は」


 通り過ぎるたび。妻は決まってこの言葉を口にする。
展示されているのは国産初の航空自衛隊の中等練習機、初鷹(はつたか)。


 「終戦直前の昭和20年の8月7日。
 日本初の純国産ジェット機、橘花(きっか)が初飛行に成功している。
 その機体を中島飛行機が製作した」


 「エンジンは?」


 「ドイツから潜水艦で図面を運んできた、という話がのこっている。
 たった1枚の紙きれを参考に、海軍の研究所が開発した」


 「戦争はいろいろなものを後世に残しますねぇ」


 「そうだね。そういえばスバルの水平対向エンジンの祖先は、
 戦時中の空冷星型エンジンだ」


 「空冷星型エンジン?」


 「シリンダーを放射状に配列していくと、星の形になるだろう。
 そいつにプロペラをつけると、海軍の戦闘機ゼロ戦や、陸軍の隼になる」


 「ゼロ戦や、隼の遺伝子を受け継いでいるの?。スバルは?」


 「遺伝子はのこされたけど、戦後の再出発はすこしちがう。
 解体された会社のひとつ、太田の富士産業がスクーターをつくった。
 スクーターは敗戦直後、爆発的に広まった乗り物だ」


 「スクーター?。
 オードリー・ヘプバーンと新聞記者がローマで乗っていた、あのスクーター?」


 
 「そう。そのスクーターがスバルの戦後を救った」




(48)へつづく


北へふたり旅(46) 北へ行こう②

2019-10-24 17:22:13 | 現代小説
北へふたり旅(46)



 旅行会社JTBとNTTドコモショップは、待ち時間が長いことで有名だ。
とにかく待たされる。
1時間は日常茶飯事。2時間以上待たされることもある。




 スマホの操作は難しい。
シルバー世代が使いこなすのは、至難の業。
そのうえ携帯電話の料金プランも、多彩な上に複雑。
どちらも少々説明されたくらいでは、さっぱり意味がわからない。
担当者と本部のやり取りも長い。


 JTBの相談時間もながい。
旅行プランができあがるまで、客とマンツーマンのやりとりがつづく。
これではどちらもとにかく時間がかかる。


 「太田へ行こう。
 いつものJTBなら、待ち時間ゼロだ。たぶん」


 太田市の東にショッピングモールが誕生した。
敷地の中心に立つスーパーマーケットの中に、JTBの窓口がある。
しかし。油断していると通り過ぎてしまうほど小さい。
ここはいつも空いている。


 たまたま発見した。
敷地内のゴルフショップは顔なじみ。
「ついでです。そこのスーパーで、夕飯の買い物をしていきましょ」
妻のひとことではじめて足を踏み入れた。
ホームセンターのような品ぞろえが、目に飛び込んできた。
ここはなんでも揃っている。






 「なんでそろってます、ここは。あら・・・」


 妻の足がとまった。


 「こんなところにJTBがありますねぇ」


 旅のカタログがならんでいる。
奥の壁に、JTBのログが見える。中をのぞいてみた。
ちいさなカウンターに、相談ボックスが2つ。
女の子がひとり。パソコンへ情報を打ち込んでいる。
客の姿は見えない。


 「あのぅ・・・」妻がカウンターへ声をかけた。


 「いらっしゃいませ」女の子が正面をむく。


 「商品券が欲しいのですが」


 「JTBのナイスギフトですね。
 1000円と、5000円の2種類がございます」


 「1000円券を5枚。プレゼントに使いたいの。
 1枚ずつ、包装してくださいな」


 「はい。すぐご用意いたします」


 女の子がたちあがる。流れるような対応だ。
これはほかのJTBでは絶対にありえない。
ギフト券の購入だけでも、順番待ち受付システムの洗礼が待っている。


 画面に待ち時間が表示されている。
しかし。たいていの場合、この表示の内容が悩ましい。
「現在、5組待ち」「ただいま90分待ち」


 (どうする?)画面を見ただけで気持ちが折れる。
ギフト券はゴルフコンペに呼ばれるたび、協賛品として購入している。
居酒屋時代からつづく習慣だ。


 「おまたせしました」


 ラッピングされたギフト券が5枚、数分のうちに出てきた。
待ち時間ゼロの快挙!。
ギフト券を買うだけで2時間待たされてきたことが、嘘のようだ。

 「いつも空いているの、此処?」


 妻が、失礼な言葉を口にする。


 「ご覧のとおりです」


 ギフト券を用意してくれた女の子がニコッとほほ笑む


 「またのご利用をお待ちしております」


 女の子の笑顔におくられてJTBをあとにする。
この日から妻はこのスーパーマーケット内にあるJTBの、ファンになった。




(47)へつづく



北へふたり旅(45) 北へ行こう①

2019-10-21 17:25:34 | 現代小説
 北へふたり旅(45) 




 妻の夢は宿の浴衣を着て温泉街を、カラコロと2人で歩くこと。
妻の気持ちはよくわかる。
居酒屋で20年。
日帰りのドライブは有ったが、泊りの旅はいちどもない。


 「北へ行くか?」


 朝。とつぜんの提案に、妻の目がまるくなる。

 「北?。もしかして北海道?」

 「行きたいだろ君。泊りの旅に」

 6月は茄子収穫の真っ最中。
忙しさは、7月の後半までつづく。
旅を考えるどころか猛暑の中の作業に、毎日、悪戦苦闘している。


 「いいわですねぇ。あこがれの北海道」


 「8月後半に行こう。
 お盆休みは混むから、最後の週、2泊か3泊で」


 「飛行機は駄目。あたし、高い所は苦手ですから」


 「だいじょうぶ。北海道新幹線が函館まで走っている」


 「その先は?」


 「札幌までの特急がある。4時間ほどかかるらしいが」


 「いいわね。夢みたい」


 「夢じゃない。
 今日、仕事がおわったら旅行代理店へ行こう。
 旅の相談をするために」


 茄子は前年の11月から準備がはじまる。
11月。種苗会社から接ぎ木されたナス苗が運ばれてくる。
5センチほどのか細い苗だ。
折らないよう神経を使いながら、育成用ポットへ移植していく。


 人さし指でポットに穴をあける。
バレットから苗を取り出す。穴へ差し込み、周囲の土を根元へ寄せる。
この作業をくりかえし8000本の苗を、育苗ハウス内へならべていく。


 1ヶ月ほどでナス苗は、20㌢ほどの株に成長する。
一番花がふくらみはじめている。
1月の半ば。ナス苗をビニールハウスへ定植していく。
中腰での作業が続く。
この作業が、茄子に関わる仕事のなかでいちばんきつい。

 腰が悲鳴を上げる。太腿の裏、ハムストリングスはパンパンだ。
数日後ゴルフへ行ったが全身が筋肉痛で、自分のスイングがまったくできなかった。



 ここから茄子が実をつけるまで、さらに2ヶ月がかかる。
本格的に実をつけるのは、3月の初旬。
その間、茄子農家はまったくの無収入になる。
そのため。ホウレンソウやネギの冬野菜を、畑に準備しておく。 

 茄子はとにかく手間暇がかかる。
経費もかかるが、時間もかかる。
「お大尽が育てる野菜」と揶揄されるほどだ。


(46)へつづく

北へふたり旅(44) 第四話 農薬⑩

2019-10-18 15:17:29 | 現代小説
北へふたり旅(44) 




 貝原益軒が正徳4年(1714年)、野菜についてまとめた記述がある。
そのなかで胡瓜を
「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」と書いている。
おなじように農学者の宮崎安貞も、
「下等の瓜で、賞味して食べるものではないが、多くの瓜に先だって早く出回るので、
田舎で多くつくられている。都ではつくることは希である」
と酷評している。


 当時。中国の食べ方をまね、黄色くなるまで完熟させた。
歯ごたえも悪く、「黄瓜(きうり)」と呼ばれたことが名前の由来になった。
「毒」が何を指すのか気になる。
高い水分量を誇る胡瓜は利尿作用と、身体を冷やす作用がある。
胃腸の弱い人が食べると下痢を起こしたことから、毒があると考えられた。


 「汚名」はそれだけにとどまらない。
ギネスブックにも載った。
講談社の1987年版「ギネスブック 世界記録事典」。


 生で食べる果実38種を分析したところ、抜群のカロリー価はアボカド。
熱量は100g当たり163カロリー。最低はキュウリで、同16カロリー。
しかしキュウリは野菜の仲間。
果実と比べることに無理があると思う。
しかもキュウリは100%水で出来ている。
カロリーなど有ろうはずがない。


 「群馬のキュウリはすごい。
 長年トップ5を維持してきたが、平成29年、ついに全国一位へ躍り出た。
 栽培用ハウスの整備や、二酸化炭素をコントロールする
 環境制御装置のおかげだ。
 俺も長年がんばってきた甲斐がある。
 しかし・・・もう疲れはてた」


 Sさんが疲れたと、もういちどつぶやく。
男の辛口をいっきに胃袋へながしこむ。


 「働きつづけて最終的に6反の小農から、2町をこえる認定農業者になった」


 「認定農業者?」


 「おかみが認めた農業経営者のことだ。
 認定されると、金融や税制の支援を優先的に受けることができる」


 「いいことずくめです。疲れている場合じゃないでしょ?」


 「いや。走り過ぎた。
 百姓に休みは無いと言い聞かせながら、俺はここまで走りぬいてきた。
 農協の理事もやったし、農業委員も引き受けた。
 知ってるか?。
 農家がでかい家を新築するのは、自分の成功を誇示するためだ」


 「成功した証です。
 いいんじゃないですか。そのくらいの誇示は」


 「子育ての最中なら、50坪の家も狭くねぇ。
 だがよ。3人の子育てがおわったあと、住んでいるのはおれと女房の2人だけ。
 風呂とお勝手と居間と、寝るためのスペースがあればじゅうぶんだ。
 でかすぎる家は、いまや無用の長物だ」


 「それだけじゃないでしょ。Sさんが疲れている原因は」


 「よせばいいのにいきおいに乗り、ベトナム研修生を受け入れちまった。
 いくら募集しても、日本人の働き手はやって来ねぇ。
 そのてん経費はかかるが、海外からの働き手はいくらでもやって来る」


 「終活を考えはじめた・・・という意味ですか?」


 「後継ぎがいないんだ。
 俺もいつまで元気でいるかわからねぇ。
 店終いの時期と、その方法を考える歳になってきた。
 それを思うと、あたまが痛いのさ。おれも」


 「むずかしいです。終活は。
 わたしも居酒屋を20年やりましたが、花道があるうちの引退を考えました」


 
 「華のあるうちの引退か・・・百姓は無理だな。
 このまま生涯現役のままがんばりつづけるか・・・
 雀の涙の、国民年金じゃ食えねぇしな」
 


 「そういうことです。
 乾杯しましょ。これから先の人生に」


 「そうだな。
 医学に生かされて、人生100年の時代だからな。いまは・・・」
 
(45)へつづく