落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第六章 (9)庄内地方の大凶作

2013-02-06 10:01:38 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(9)庄内地方の大凶作
 



琴が、兄の良之助夫婦とともに、
新徴住宅に移り住み松ヶ丘開墾場で働き始めてから、
早くも3年目の春を迎えようとしています。

 桑畑は順調に育ち、
蚕用の飼育施設も次々に整備されます。
開墾計画は、すべて順調に進んでいるかのように見えました。
しかし、入植した士族の日々の貧しい暮らしぶりは相変わらずのままです。
ほぼ自給自足に近い生活のまま、厳しい困窮ぶりは続いています。

 新徴組の集団脱走にとどまらず、
旧庄内藩士たちの中からも、脱走する人間が増えてきました。
取り締まりと罰則が強化されても、水面下に潜む不平と不満は、
四六時中、開墾作業とともにつきまといます。
これらの肉体的苦痛と生活の困窮は、松ヶ丘開場では3年以上にもわたって続きます。

 士族による開墾がすべて、と松ヶ丘の記録上は残されていますが、
周辺農民たちからの援助や協力ぶりには、きわめて甚大なものがありました。
とりわけ、野菜や穀物類の栽培や生産においては、
農民たちによる指導が、不可欠といえます。
ほとんど収入の無い末端士族たちにとっては、この助力があってこそ
生き延びたといっても過言ではありません。

 またこの頃になると、
旧藩主や旧庄内藩による重税と、たび重なる資金調達の強要のために、
庄内地方一帯の農民が疲弊しきっていたことも事実です。
この開墾事業が始まる少し前の明治2年に、
大凶作が庄内地方を襲っています。


 またこの頃に、従来からの年貢制度が廃止をされています。
あたらしい税制と税率が、新政府によって導入されました。
そのひとつとして、『石代納』が認められました。

しかし新政府の直轄地とされた第1次酒田県では、
その石代納を領地内に徹底をせず、すべてを従来通りの現物納に変えてしまいます。


  ※石代納とは、江戸時代につくられた税制のことです。
  その特徴は、年貢(ねんぐ)を、金や銀、銭で納入させることです。
  土地の生産力を、石高(こくだか)に換算して、租率を掛け、
  米で納めさせるのが当時の原則であったために、
  主に、畑方の年貢の場合などに用いられていました※


 明治2年の大飢饉を受けて、同年の10月22日、
最上川の北方の三郷、荒瀬・平田・遊佐の農民たちが、「天狗党」を組織します。
村ごとに資金を集めながら、酒田県に対して雑税の廃止を求め、
さらに、肝煎・大組頭・大庄屋などにかかわる諸費用の免除と、
税制にかかわる諸帳簿の公開などを求めました。

 このほかにも、荒瀬や遊佐の地区では、
戊辰戦争のときに供出した軍掛物、夜具や蚊帳、枕などの返還も求め、
平田では、年貢の日延べと、石納代の減免(三分の二)なども要求をしました。

 これら一連の庄内での騒動が「天狗騒動」と呼ばれています。

 また、天狗騒動が広がった同じ時期に、
大泉藩治下でも、藩の会津転封寸志金や、庄内復帰に伴う
70万両の献金のための寸志金などをきっかけに従来から年貢の上納などで
苦しんできた農民たちが、各地で村役人たちを突き上げます。


 旧庄内藩による、当時の年貢はきわめて過酷な物です。
収穫の半分を本年貢としていましたが、さらに残った収穫のうち
7~8割を雑税が占めるという構成です。

 こうなると残りは、元の収穫の1~2割程度結果になってしまいます。
これでは始終、一揆が起きても不思議ではないほどの状態ですが、
ここに、親藩としての裏技が存在しました。

「縄伸び」と呼ばれる測量方法です。
検地の際、測量の単位である紐を長めにすることで、
測量値よりも、実際の畑の面積を広く確保する手法です。


 そのおおくは、藩に申請していた
田んぼの面積に対して成されたものでしたが、実際には、
その約2倍程度の収穫を、農民たちは確保していたようです。
さらには、藩としても縄伸び分について細かく言わない、
という不文律がありました。

 しかし、極めて重いこの重税が、
やがて農民たちを結束させることになります。
それが今日の近代史にも残っている、自然発生的な自由民権運動と言われた「ワッパ騒動」の発生です。
この騒動で逮捕された100名近い指導者たちの奪還のために、
決起した農民、1万数千人が酒田の監獄に押し寄せるという
大事件にまで発展することになるのです。




(10)へつづく



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