落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(33)女は度胸

2020-09-27 18:26:41 | 現代小説
上州の「寅」(33)

 
 「準備は良いかい。落とすよ」


 チャコが枝の下へ忍び寄る。
群れは動かない。ハチたちはまだ真下へ迫ったチャコに気づいていない。
(しっかり網を構えて)チャコの目が指示を出す。


 (おう・・・)寅がおよび腰で網を差し出す。
(そこじゃない。ずれてるよ。ちゃんと真下に構えて!)チャコの眼が鋭く光る。
言われた通り、寅がせいいっぱい腕を伸ばして網をかまえる。
チャコがすこしずつ体を起こす。
群れはまだ動かない。手を伸ばせば届く位置まで立ち上がる。


(あいつ。どうするつもりだ・・・まさか手で払い落すつもりか!)


(落とすよ。準備は良いね)
 
(あいつ、手で払い落とすつもりだ・・・なんという大胆な女だ)


 立ち上がったチャコがを群れに向かって手を伸ばす。
茶色の群れはまだ無警戒。
ためらいなく伸びた手が、無造作に枝から群れを切り離す。
バサッ。群れが音を立て、寅の網へ崩れ落ちてくる。


 「いまだ。早く閉じて!。ぐずぐずしてると逃げられちゃう!」


 「おっ、おうっ」


 寅があたふたと網を裏返す。
くるりと回った入り口が、そのまま群れのふたになる。


 「大丈夫か。すこし逃げられたような気がするが・・・」


 「大丈夫。女王バチさえ残っていれば、こっちのものだ。
 ユキ。持ってきた足場をここへ置いて!」


 ユキが足場をもって飛んできた。
巣箱を高い位置に置くとき、足場として使う1メートルほどの木の枠だ。


 「寅ちゃん。網を足場の上に置いて」


 言われた通り足場の上へ網を差し出す。
枠の上に網がおさまる。しかしこのままではふたがされたままだ。
出口を作るためチャコがくるりと網を返す。


 「ユキ。はやく巣箱を乗せて!」


 ユキがひろげられた網の上へ巣箱を乗せる。


 「よし。うまくいった。あとは移動するのを待つだけだ」


 「すこし下がって様子を見よう」チャコが合図を出す。
落とされたハチの群れが、網の底でくずれはじめた。


 (飛び始めたぞ・・・だいじょうぶか。逃げられないか?)


 「だいじょうぶ。見ててご覧、巣箱へ移り始めるから」


 「そんなにうまくいくか?」


 「大丈夫さ。ここまではユーチューブで学習したとおりうまくいっている」


 「君の先生はユーチューブの動画なのか!」


 「日本ミツバチの日曜養蜂、というチャンネルがある。
 それがわたしの先生さ」


 「君の度胸には恐れ入った。
 素手でよく、ミツバチの群れを落としたもんだ」
 
 「女は度胸。ほら見てごらん。群れが巣箱へ移動し始めた!」


(34)へつづく



上州の「寅」(32)強制捕獲

2020-09-23 17:02:40 | 現代小説
上州の「寅」(32)




 半分ほど設置が終ったとき、ぶ~んというかすかな羽音が聞こえた。
いや聞こえたような気がする。
「ハチか?・・・」耳を澄ます。
遠くに羽音があるような気がする。しかしハチの姿は見えない。


 「羽音を聞いたような気がしたけど・・・空耳かな」


 「あんたも聞こえた?。偵察隊かもしれないね」


 「偵察隊?」


 「ちかくに分蜂した群れがあるかもしれない。
 住処を見つけるため、はたらきバチたちが偵察に出る」


 「群れが居るのか!。俺たちの近くに・・・」


 「おおきな声を出さないで。驚いて逃げちゃうから」


 チャコが軽トラックの荷台へ立ち上がる。
前方に一本の巨木がある。
引っ越し途中の群れは一時的に、巨木の枝に集合することがある。


 「遠すぎるね。気配を消して近づくか」


 念のため防護ネットをかぶっていこうと、チャコが助手席から取り出す。
「顔をおおっていれば、分蜂の群れと出会っても安全なのか?」
「運が良ければ刺されない」「運が悪いと、どうなるんだ?」
「刺される。でもそれで数千匹が手に入る。刺されるだけの価値はある」


 態勢を低くしながら大木へ近づいていく。
ちかづくにつれ、身体のまわりを飛び交うハチの数がおおくなる。


 「間違いない。ハチの群れがいる」


 「ことし初の分蜂だね。あたし、戻って網を持ってくる」


 ユキがくるりと背を向け軽トラックへ戻っていく。


 「網?。網で採るというのか・・・。小学生の昆虫採集じゃあるまいし」


 「一網打尽が強制捕獲の鉄則だ。
 躊躇しているあいだに飛び立たれたら、ハチが四散してしまう。
 出会いがしらが勝負だ」


 「誰が捕獲するんだ?」


 「新人のお仕事。寅ちゃんに決まっているだろう」


 「お・・・。俺が!」
 
 「しいっ。大きな声を出さないで。ほら、ハチの群れが見えてきた。
 ほらあの枝。茶色のおおきなかたまりが見えるでしょ。
 あれが分蜂」


 なるほど大木の枝に、おおきな逆三角形のかたまりがぶらさがっている。
「はい。捕獲用の網」ユキが、寅の背後へ戻ってきた。
渡されたのはまさに、昆虫を捕獲するときにつかう網そのものだ。
おおきさは通常サイズの3倍はある。


 (どう使うんだ。これを?)


 (枝を揺らして群れを落とすから、かたまりの真下で構えておいて)


 (ずいぶん乱暴な捕り方だな・・・)


 (群れが網の中へ落ちたら、すぐ裏返して口をふさいで。
 タイミングが遅れるとあんたの全身に、ハチが群がることになるからね)


 (わかった。俺もハチ人間にはなりたくねぇ・・・)


(33)へつづく


上州の「寅」(31)キンリョウヘン

2020-09-20 09:22:18 | 現代小説
上州の「寅」(31)


  巣箱の設置がはじまった。
まとめて一ヶ所へ置くわけでは無い。
ひとつずつ離して置いていく。それも最低300mは離す。


 巣箱は全部で20個ある。
300mずつ離して置いていくと、トータル距離は6000mを超える。
ゴルフ場を一周するのとほぼ同じ距離。


 「新居を置いたって、それだけでミツバチが入ってくれる訳じゃない。
 魚を釣るときだって集めるため、撒き餌をするでしょう」


 「撒き餌が有るのか。ミツバチ用の?」


 「あるわ。それもとっておきのやつが。
 それがこれ。
 はい。日本ミツバチ捕獲のための強い味方、その名も待ち箱ルアー」


 「なんだこれ?。新手の芳香剤か」


 「当たらずとも遠からず。
 これは蜜蜂蘭(みつばちらん)と呼ばれるキンリョウヘン(金稜辺)。
 キンリョウヘンは日本ミツバチを誘引する花なの。
 そのフェロモンを科学的に再生したものが、この待ち箱ルアー」


 「花じゃなくて、芳香剤を巣箱へぶら下げるだけか。
 こんな小細工でホントに、日本ミツバチが集まって来るのか?」


 「キンリョウヘンは中国原産のランで、小型のシンビジュームの一種。
 明治時代に栽培が流行したけど、さいきんは派手な花の咲くシンビジュームが
 好まれて、地味な花のキンリョウヘンは人気がありません。
 でも痩せても枯れてもキンリョウヘンはランの一種。
 素人が栽培するのは難しい。
 それでもハチを集めるために、キンリョウヘンのフェロモンが必要。
 というわけで、こんな便利な化学兵器が登場したのです」


 「へぇぇ・・・花のフェロモンが、ニホンミツバチを呼び集めるのか」


 「家畜として改良されてきたセイヨウミツバチと異なり、
 ニホンミツバチは野生種。
 ハチも販売されていないため、巣箱に誘導する手段がどうしても必要となる。
 ニホンミツバチは毎年春に群れが2群に分かれる。
 1群は新しい巣を見つけて移動する。これを分蜂といいます。
 新しい巣へ飛び立った群れを捕獲する。
 その誘導のために必要なのが、このキンリョウヘン。
 キンリョウヘンは中国原産。
 トウヨウミツバチは、フェロモンに誘われて集まって来るけど、
 セイヨウミツバチには効果がないの。
 どう?。凄いでしょ」


 「キンリョウヘンは大学生にも効くのかな?」


 「どういう意味?」


 「どこかの美大生が、キンリョウヘンのフェロモンみたいなものに誘われて、
 こんな辺鄙な場所までやってきた。」
 
 「それってわたしに、キンリョウヘンの魔力があるということかしら。
 わたしのような金髪女が好みなの?。寅ちゃんは?」


 「あっ・・・いやっ・・・その、あの、そんなつもりで言ったのでは・・・」


 「じゃ、どういう意味で言ったのさ!」


 「キンリョウヘンには毒がありそうだから、気をつけなきゃ。
 と、ふとそう思っただけだ・・・」


 「ふん!。口が悪くて、素直じゃない寅ちゃんなんか大嫌いだ。
 卒業できそうもない美大生なんて、誰が相手にするものか」


(32)へつづく


上州の「寅」(30)刺されると・・・

2020-09-17 07:33:46 | 現代小説
上州の「寅」(30)


 「準備はできたね。じゃ巣箱を仕掛けに行くよ」


 チャコとユキが立ち上がる。
「おう」すこし遅れて寅がたちがる。
女たちが防護服のようなつなぎを着始めた。


 「防護服?。刺されないための用心か?」


 「それもあるけど、分蜂を見つけた時の強制捕獲にそなえるの。
 寅ちゃんも着て。そこへ用意してあるから」


 なるほど。大きめのつなぎが置いてある。


 「春になると、新しい女王蜂が生まれる。
 そうすると母親の女王蜂が、働き蜂の約半数を連れて巣を飛び出す。
 新たな場所に巣を作るため母親が家を出る。それが分蜂。
 飛びだしたハチの群れの捕獲は自然入居と、強制捕獲の2つ」


 「自然入居と強制捕獲?」


 「巣を飛び出した群れは新しい巣の場所を探す。
 巣箱を新しい巣として選んでもらう。それが自然入居。
 新しい場所に引越し中の群れは、木などに一時的に集合する。
 このタイミングを狙い、強制的につかまえ巣箱に入れてしまう。
 それが強制捕獲」


 よく分からないが、強引な方法で捕まえることに間違いなさそうだ。
刺されないのか?。それが不安だ。


 「刺されるさ。当たり前じゃん。相手は針をもっているハチだもの」


 「たいへんだろ。刺されたら・・・」


 「日本ミツバチはいちど刺すと死んでしまう。
 西洋ミツバチも一度刺すと死ぬ。何度も刺すのはスズメバチだけ。
 ミツバチは命をかけて人を刺す。だからそう簡単に人を刺さない。
 日本ミツバチが敵意をもっているときは、体当たりしたり、
 体にしつこくまとわりついたりして、刺す前にちゃんとサインを送ってくる。
 そんなときはゆっくりハチから遠ざかればいい」


 「ハチを無意味に刺激するなということか」


 「その通り。でも強制捕獲はそうはいかない。
 群れを丸ごと網の中へ落とし込む。
 しょうしょう強引な昆虫採集というところかな」
 
 「網でまるごと群れをつかまえる?。だいじょうぶか、そんな真似して」


 「だから刺されてもいいように、こうして完全武装で行くんだ。
 実力行使するときは、顔を覆う安全ネットを使うからね」


 「やっぱり危険じゃないか!」


 「だいじょうぶ。一度や二度刺されたくらいで死にゃしない」


 「刺されるんだ。やっぱり!」


 「なにビビッてるの。死なないよ。
 日本ミツバチの毒性はそこまでは強くない。ショック死するのはかなり稀だ。
 痛みは激痛というよりチクっと痛い感じで、新米看護婦の
 下手な注射の方がよっぽど痛い」
 
 「アレルギーがあると別だよ」


 ユキが話に割り込んできた。


 「アレルギーを持っていると、アナフィラキーショックを起こす。
 意識を失ったり、命の危険もある。
 大丈夫?。寅ちゃん。
 わるいアレルギーなんか持っていない?」


 「ハチより君らの方が、怖く見えてきた・・・」
 
(31)へつづく 
 


上州の「寅」(29)蜜蝋(みつろう)

2020-09-14 08:45:41 | 現代小説
上州の「寅」(29)


 
 「今日は天気もいいし、出来上がった巣箱の設置に行こう」


 朝食を終えたあと、チャコが表の様子を見てつぶやいた。
今日は朝から天気が良い。
温かそうな日差しが軒下へ差し込んでいる。


 「天気がいいとハチも行動的になるのか?」


 「分蜂の時期にはまだ早い。でも早めに仕掛けておいた方が自然になじむ。
 古ければ古いほど日本ミツバチは安心するからね」


 「建ったばかりの家より中古の方がいいのか。日本ミツバチは」


 「用心深いの。野生の虫は」


 表に並べて置いた巣箱は、雨とホコリのせいで古ぼている。
寅が九州へ着いてはや二週間。
毎日つくりつづけた結果、巣箱は20個ちかくになっている。


 「巣箱の天井へ蜜蝋(みつろう)を塗るよ」


 「蜜蝋?。なんだ、それ」


 「蜜蝋はその名のとおり、ハチがつくりだすロウ。
 巣をつくるときの材料。それが蜜蝋。
 中世のヨーロッパではロウソクをつくるため、養蜂していた教会もある」


 巣箱の蓋をはずす。
裏返した部分へ、チャコがドライヤーを当てる。
「熱風で温めるの。60℃くらいで蜜蝋がちょうどよく溶ける」
ドライヤーで温めるのか・・・女子らしい発想だ。
寅が感心して眺めていると、チャコの怒声が飛んできた。


 「こら!寅。ぼんやり眺めているんじゃないよ。
 あんたもドライヤーをもって、さっさと巣箱を温めて!。
 蜜蝋を塗った巣箱をさっさと仕掛けに行かないと、気の早いハチたちの
 分蜂が始まっているかもしれないからね」


 「分蜂?。なんだ、それ?」


 「文字通り、ハチの群れが2つに分かれることよ。
 春になるとあたらしい女王バチが生まれる。
 すると母親の女王バチは働きバチの半数を連れて巣を飛び出す。
 人間の世界では。家出するのはたいてい娘。
 ところがハチの世界は、母親が家来を連れて家を出るんだ」


 「分蜂は子孫を残すための合理的な法則、というところか・・・」
 
 「分蜂は年に3回程度。おおい年は4回、5回になることもある。
 桜が咲くころ、最初の分蜂がおこるの。
 九州の場合、今日のように暖かくて穏やかな日に分蜂がはじまることもある」


 「なるほど。今日は分蜂記念日か」
 
 「そうよ。分かったら手を動かしてちょうだい。
 猫の手を借りたいほど忙しくなるからね」


 「チェっ。人をまるで働きバチ扱いだな。まったく」


 「あら。残念でした。
 日本ミツバチの群れのほとんどが働きバチ。でも働きバチはすべてメス。
 巣作りから花の蜜集め、ハチミツの製造までのすべてメスがおこなう。
 オスのハチも生まれるけど、ぜんたいの5%くらい。
 オスは刺すための針も持っていないし、やることといえば女王バチと交尾するだけ。
 楽な生き方でしょ。
 寅ちゃんのようにせっせと額に汗して働かないもの。うふ」


 (30)へつづく