落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第六章 (3)それぞれの兄

2013-01-31 09:35:24 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(3)それぞれの兄



 明治二年(一八六九)正月、
猪苗代に謹慎中の会津の藩士たちは、信州松代藩の真田家へ、
また塩川で謹慎中の藩士たちには、越後高田の榊原家にそれぞれ「永の預け」を命ぜられ、
九日には出立をするという達しが届きました。


 藩士たちの不安と動揺は深刻でした。
高田への護送は手縄つきだとか、高田到着と同時に切腹を仰せつけられるなどといった
不吉な風説が相次いで乱れ飛びました。
不安にかられたあまりに、夜陰にまぎれて脱走する者などもあいつぎます。


 迎えた出発の朝になると、
高田藩へのお預け組には、一人に二両の手当金と、菅笠と蓆が手渡されました。
別れを惜しむ家族たちが群がる中を、
前後を約百人の越前藩士たちに警護されながら歩きはじめます。
坂下・野尻・津川・山ノ内・分田・加茂・三条・地蔵堂・出雲崎・柏崎・黒井と泊まりながら、
ようやく、一月二十一日に至って高田の浄光寺に到着をしました。

 この間の九日間は、
吹雪に見舞われるなどして、難儀が続くたいへん苦節の旅になりました。
この日到着した第一陣は四百名余りです。
後続と合わせて総勢千七百四十三名がこれから高田で謹慎生活に入ることになります。

 開城と共に、謹慎処分となっていた琴と八重も、
その後の取り調べの経過の中で、女人にはお咎めなしとされてしまいます。
即座にその場での解放が決定しました。
しかし、それを不満とする八重は執拗に食いさがります。
軍人として共に戦った同胞達と同様の処分を申し出る八重に、
取り調べの担当官が苦笑をします。

 再検分を要望する八重の熱弁を一通り聞き終えてから、
その場の指揮官が、真顔で諭しはじめます。

 「お気持ちは、充分にお伺いたしました。
 聞けば、京都におられる山本覚馬殿の妹君で、八重どのと伺いました。
 幕府側用人の覚馬殿は、一度は逮捕にいたりましたが、
 京都の復興に無くてはならぬ人材の一人との決済がなされ、
 直後に、釈放になられたと聞き及んでいます。
 今日では、京都にて尽力をされ、各方面にて多大な活躍をされていると
 その後の報告にて届いておりまする。
 山本家といえば、武田氏につかえた勘介殿を筆頭に
 古今に名だたる知将の家柄と聞き及びます。
 いたずらに意地を張らず、地に伏してでも、まずは会津の復興につとめ、
 その後に、京都におられる兄上との再開の機会も有るかと思われます。
 まずは、ご自身を大切になされることが
 肝要と思われます」

 「兄が、京都にて無事なのですか!」

 「左様。
 ただし、もうひとつだけ
 八重殿には、有無を言わせず申し渡すべきこともござる。
 そなたの夫殿は、他藩の出身であるゆえに、
 身柄を元の藩へと戻したうえで、処分待ちの謹慎とあいなりまする。
 会津砲術隊を率いた指揮者のお一人ともなれば、
 それ相応の処分についての覚悟も必要と相なりまする。
 その処置については、後ほどに、
 沙汰がくだされることにありましょう。」

 

 「さて、もうひとり。
 中沢琴殿、
 新徴隊の屈指の名剣士、中沢良太郎貞祗(さだまさ)どのも
 庄内領にて、健在にございます。」


 「兄が・・・庄内に生きているのですか」


 「関東が制圧されたのちに、
 新徴組の多くの隊士は、妻子を伴って庄内領へと移住を果たしました。
 勇猛をもって知られた庄内軍の兵士の中に有っても、そなたが兄の
 良太郎氏は出色との評判でござる。
 戦場にあっての中沢良之助どのは、
 敵味方を問わず、注目を集めた人物でもありました。
 いかなる戦いの最中にあっても、相手の命まで奪うことはなく
 勝敗が決すればそれまでとして、
 刀を引く潔さが、武人の誉れとして絶賛されておりました。
 日本が新しく生まれ変わる時代であるいうことを、
 きわめて良く知り尽くした武人の一人と言えましょう。
 人を切ることが武道に有らず、
 生きるためにこそ剣を振るうという法神流の真髄は実に見事です。
 これからの世の中は、生きることにこそ意味が有り、
 人の暮らしを支えてこそ、
 やがて未来がうまれるということを、熟知された剣の達人ともいえるでしょう。
 この時代にこそ必要な、どちらも有益なる武人です。
 お互いにたいそうに、良き兄者をお持ちのようです。」



 「兄が、「生きている・・・」


 「戦(いくさ)となれば、
 いやがうえにも略奪や狼藉、乱暴の類が横行します。
 国は乱れ、郷里は踏みにじられ多く物が破壊しつくされてしまいました。
 しかし、戦禍がおさまれば復興に尽力することが、
 またもや、我らやそなたたちの務めでもありまする。
 荒れた地を再び耕してこそ、
 やがて平穏と繁栄が訪れまする。
 また、生きておればこそ兄上との再会も果たせると思われまするゆえ、
 本日の裁定は、ここまでといたしまする。
 拙者は、これにて。」


 指揮官が、琴と八重を残して立ち去りました。
垣根のように取り巻いていた兵士たちも隊列を崩して四方へと散りはじめます。
そのうちの一人の武者が、琴に近寄ってきました。
まだ若く、腰に帯びた太刀の様子がどこかで剣客ぶりを漂わせています。



 「最前のお話ですが、
 兄上と言うのは、法神流の中沢殿のことでしょうか。」

 「いかにも。
 良之助は我が兄にあたります。」


 「私も、その中沢氏に、
 一命を助けられた者のひとりです。
 私は長州の藩士にて、名を高柳勇乃進と申す剣士です。
 剣技には少なからぬ自信が有りまして、武芸に秀でる長州藩においても、
 いちにを争うと常より自負をいたしておりました。
 庄内領においての戦乱のおり
 たまたま、兄上と剣を交える機会がありました。」

 「兄と、・・・」
 


 「ものの見事に、あしらわれました。
 簡単に、我が太刀を打ち落とされて決着がつきました。
 格段の腕の相違がありました。
 ついに万事が尽きたものとして、潔く覚悟をいたしましたが、
 くるりと背を向けて立ち去ってしまいました。
 覚悟はできているゆえに、早くにとどめを討つがよいと叫びますと、
 中沢氏は振り向きざまに、命を無駄にやりとりしている場合にあらず、
 優劣がつけばそれでよしとする、
 無益な武士道のために、あえて命を落とすにはおよばず。
 助かったそなたの生命はこれよりは、
 本気で、新しい日本のためにこころして働くがよい。
 そう申しておりました。
 あたらしき時代の武士の存念、感服の至りでした。」

 
 「兄がそのようなことを・・・」

 八重が、横あいから若者に尋ねました。
「先ほどの指揮官どのの、お名前は?」


 「先ほどの方は、
 会津方面隊長の総参謀で、山縣(やまがた)有朋さまにございます」

 「あのかたが、山懸有朋さま。」






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舞うが如く 第六章 (2)精鋭たちの果て

2013-01-30 10:20:38 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(2)精鋭たちの果て




庄内藩で新たに作られた第四大隊は、
大隊長の水野藤弥以下、兵員は750名をほこる部隊です。
庄内藩は早くから洋式兵学を習得して、戊辰戦争開戦時には
3個の大隊を保持していました。
その威力は絶大で、緒戦では東北の勤王派諸藩を圧倒していました。
さらに秋田藩との戦闘が膠着状態化してくると、
新たに一個大隊が編成されて、敵軍の本拠地を襲撃すると云う
作戦が検討されました。 

 その結果、慶応四年七月二十日、
新徴組を含む諸隊が糾合して、第四の大隊が編成される事になりました。


 第四大隊は、
庄内藩の北方に位置する矢島藩を陥落させ、
亀田藩を降伏させるなど、勤王派諸藩を各地で追い詰めます。
更に、東北における勤王派の中心的存在である秋田藩の本拠地・久保田城を
攻略すべく、要衝の椿台へと向かいました。

 この攻撃は「鬼玄蕃」と異名を取る、
勇将・酒井玄蕃指揮下の精鋭部隊・第二大隊との共同作戦であり、
第四大隊が此処を落とすか、第二大隊が長浜を落とせば、
秋田藩が降伏すると思われました。


 しかし、守る政府軍側も名将・鍋島茂昌の指揮のもと、
庄内藩を上回る最新装備で武装した武雄藩兵三個小隊を投入します。
秋田藩兵に新式銃器を供与して、陣地正面を守らせる一方、佐賀藩が得意とする
アームストロング砲で火力による支援を行い、武雄兵が迂回して側面を突いた為、
ついに形勢は逆転し第二・第四大隊は敗退を余儀なくされてしまいます。 

 特に第四大隊においては、百名程の死者を出してしまいます。
これは庄内戊辰戦争における、庄内藩の最大の敗北となりました。
この敗戦を受けて、庄内藩の全軍はついに領内へと退却をし、謹慎して
新政府の処罰を待つ事となり、庄内藩における戊辰戦争がここで終結をします。


 余談となりますが
庄内藩の戦後処理を巡っては、貴重な逸話が残されています。
それが、日本人には圧倒的な人気を誇る西郷隆盛の登場でした。


 官軍の総大将であった西郷隆盛は、戦いに勝ち、
庄内藩・鶴ケ岡城下に兵を進駐させる際に、自軍の兵の刀を召し上げて、
丸腰のままで入城をさせました。
薩摩の兵士達は、激しい戦闘の末に勝利をしたために、
いまだ興奮も覚めやらぬ状況のため、城下で乱暴狼藉を働く可能性があります。
それを未然に防ごうという意図でした。


 ところが普通であれば、
敗者側の刀を、当然取り上げるべきものなのに、
西郷は、庄内藩の武士達が誇りを失ってはいけないからと、
逆に、彼等には帯刀を許しました。
これには、負けた側の庄内藩の人達が驚きます。

 この結果、本来であれば
敗者側には、勝者側に対する憎しみが残るはずが、
逆に、敵軍の総大将である西郷隆盛に対する尊敬の念が高まり、
ついには彼に私淑する人までが現れました。
特に庄内藩の若者の中には、西郷隆盛の教えを直接請いたいと
願う者が多くでるようになったといわれています。

 戊辰戦争のあと、西郷隆盛は新政府で陸軍大将参議という要職に就きます。
しかし、多くの犠牲の末に出来上がった新政府は、
西郷隆盛自身や多くの若者が情熱を燃やし奮闘した結果得られたものとしては、
大幅に、期待に反したものとなってしまいました。


 失望した西郷隆盛は、
やがて征韓論で政府と対立したことを契機に、
野に下り、単身、鹿児島へ帰ることになるのです。






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舞うが如く 第六章 (1)沖田林太郎

2013-01-29 09:54:18 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(1)沖田林太郎




 話は、少し時代をさかのぼります。
琴の兄、平沢良之助が加わった浪士組は、
幕府の命令を受けて、京都からひきあげ再び江戸へと戻りました。
幕府方によって清河八郎が暗殺された後に、「新徴組」と名前を改めたうえで、
庄内藩の預かりとなり、江戸市中の警護職につきました。


 その組がしらを務めたのが
沖田総司の義兄にあたる、沖田林太郎です。
沖田林太郎は文政十年に、
日野宿の井上家(新撰組六番隊隊長・井上現三郎の実家)の分家で
八王子・千人同心の井上家に生まれました。
 近藤周助(近藤勇の養父)の江戸市谷にある
天然理心流・試衛館道場に入門して、免許皆伝を得ます。


 一方の沖田家は、
陸奥白河藩士である沖田勝次郎(林太郎の妻・みつと総司の父)は、
実は、白河藩の江戸屋敷で採用された武士の一人でした。
当時の参勤交代では、陸奥・白河藩からも大勢の藩士たちが随行をしました。
しかし、一年間の江戸詰の生活でかかる費用が、藩財政をおおいに圧迫しました。
そこで経費削減の為に、弱小や外様の他藩と同じように、
江戸で藩士を雇い入れて、江戸屋敷内での仕事に従事をさせました。
したがって沖田家は、白河には一度も行った事が無いままに、
そこでただ雇われただけの「白河藩士」です。


 しかし、その沖田勝次郎が亡くなり、
母とも死別した為に、沖田みつと幼い弟の宗次郎(総司の幼名)は
母の実家である、八王子の井上家の近くで住むことになりました。
沖田家を存続させる為に姉のみつに、
井上家の分家から婿養子を迎えて、沖田家を相続させることになりました。
宗次郎は幼かったために、近藤周助のところに預けられます。


 宗次郎は、近藤家で下働きをしながら剣の修行を重ね、
やがて青年期になってから、名を総司と改名します。
沖田家へ婿養子に入った林太郎は、
清河八郎や山岡鉄太郎(鉄舟)らが結成した「虎尾の会」に触発されます。
清河らが提案した「浪士組」に、天然理心流・試衛館一門の近藤勇、
土方歳三、義弟の沖田総司らとともに参加をしました。

 沖田林太郎は浪士組・三番組のひとり、
(後の壬生浪士隊・局長の一人、新見錦が小頭)として上洛をはたします。
ところが、清河八郎の裏切り行為が幕府側に露呈してしまったために、
わずか2週間余りで、浪士組は江戸へと呼び戻されてしまいます。
 芹澤鴨や近藤勇一派の20名余りは京都に残り、壬生浪士隊を名乗りました。
彼らが後に、会津藩預かりとして、京都で治安警護の職につき、
やがて新撰組と名前を改めることになります。
明治維新前の動乱期に、幕府を背負って志士たちの弾圧組織として
暗躍したことで、後世にその名を残す存在になります。



 清河八郎が佐々木只三郎らに暗殺されると「浪士組」は
庄内藩・酒井忠篤の預かりとなり、呼び名も「新徴組」と改め、
沖田林太郎がその組頭となりました。

徳川四天王のひとつ・庄内藩、酒井左衛門尉忠発(ただあき)の
江戸屋敷のちかくに新徴組の屯所を構え、赤い陣羽織の隊士たちは、
最盛期には200名を越えています。

 歴史の展開は幕府陣営の予想をはるかに超えて、
大きなうねりとなりました。



 慶応3年(1867)11月、
260年続いた徳川幕府は15代将軍・徳川慶喜の
大政奉還をもって、武家政治はその最後の幕を閉じました。
それとともに、新しい時代の実現を旗印にした、
薩摩と長州の同盟を中心とする倒幕派と、旧幕府軍や東北諸藩による
一年半にわたる「戊辰戦争」と呼ばれた、国内最後の内戦が始まりました。
 慶応4年(1868)2月、庄内藩の江戸引き上げが始まると、
新徴組も家族と共に、出羽庄内へ移動することになります。



 庄内入りした新徴組は、3月20日、
鶴ヶ岡城下の西南8㎞にある湯田川温泉の地で
旅館と民家などの、37軒に分宿をしました。
その本部は湯田川温泉の「隼人旅館」に置かれ、庄内藩士らと共に
戊辰庄内戦争を、勇猛果敢に戦いはじめます。




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舞うが如く 第五章 (17)作蔵が逝く

2013-01-28 09:06:51 | 現代小説
舞うが如く 第五章
(17)作蔵が逝く




 激しい衝撃が琴を襲いました。
胸にのしかかってきたそのあまりもの重さに、ようやく琴が意識を戻します。
最初に受けた衝撃は、身近に炸裂した砲弾による爆風によるものでした。
2度目の衝撃は、覆いかぶさってきた作蔵によるものです。
同じようにもうひとり、八重も作蔵の下敷きにされていました。

 立て続きに降り注いできた政府軍の、砲撃と銃撃が小止みになります。
進撃の合図と共に、狙撃隊の後方から敵兵たちが立ち上がり、
一気に山門までの距離を詰めてきました。
ふたたび、山門をめぐる攻防戦が始まります。


 覆いかぶさる作蔵の肩をつかんだ瞬間に、琴の顔色が変わりました。
激しく揺さぶると、鮮血にまみれた作蔵がようやくその目を見ひらきます。



 「大事はなかったか、琴。
 そちらの、八重殿は、いかがである。」

 応える間もなく、土のうを飛び越えてきた敵兵が、
横たわる作蔵をめがけて、その槍先を突きたてようと身構えました。
後方から援護に飛び出してきた会津兵が、
身体もろとも、この敵兵に突進しようと身構えます。



 「無理をいたすな、離れよ!」

 片膝をついて起きあがった八重が、そう言うが早いか、
連発銃の引き金をひいて、土のう上の敵兵を撃ち倒してしまいました。

 「鉄砲隊は、前へ出て、
 横一列にて水平に銃を構えよ。
 急ぐことなかれ、
 存分に引きつけてから射撃をいたせ。」



 八重の号令と共に、山門の左右から飛び出してきた鉄砲隊が
片膝をついた低い姿勢から、突進してくる敵兵たちにそれぞれ狙いを定めました。
作蔵が、力をふりしぼって立ちあがります。
両手で琴をかばいながら数歩を歩きましたが、ほどなく崩れて、
そのまま山門の壁へと倒れ込んでしまいました。


 滴り落ちる鮮血の量はおびただしく、
すでに、閉じかけようとしているその両目にも、いつもの元気が見えません。
その顔を両手ではさみこんで、琴がまじかに顔をよせました。
作蔵の耳元に、琴が優しくささやきかけます。

 「作蔵。
 もう一度、私と立ちあう約束であろうに。
 このようなところで、力尽きていては、誠に不本意であろう。
 気を確かに持つがよい、
 いずれも、傷は浅い!」


 「なぁに・・・
 すでに充分だ。
 もう、俺も満足である。
 お前を、命がけで守れたと有るならば
 ようやくのことで、わしも男子の本懐を遂げられたということだ。
 しかし、悪いなぁ、琴・・・
 もう、これ以上はお前を守ってやれぬようだ、
 それが、わしの唯一の心残りだ。」


 壁に背中を押し付けて、這い上がるようにして作蔵が上半身を起こし、
やがて立ち上がろうとし始めました。
それに肩を貸して、手を添えている琴の耳もとへ、
作蔵が、また低くつぶやきます。


 「琴よ・・・
 良い香りが、漂ようておる。
 懐かしいのう、
 あの立会いの時と同じ、お前のあの匂いだ。
 加えて、いいおなごの良い香りまでも漂ようているようだ。
 懐かしすぎるお前の匂いだ。
 いいおなごに成長したなぁ、琴よ。
 また、お前に会えて、おれも本当に嬉しかった。
 まさかお前に抱かれて、
 最後に旅立つことができるとは・・・・
 この作蔵、
 男の冥利に尽きる。」


 必死で支え続ける琴の肩へ、
力の抜けた作蔵の頭が、のめるように崩れ落ちてきました。
あわてて抱え起こしてみたものの、琴が、何度も作蔵を揺すっても、
すでに作蔵は、なにも応えません。
口元には、かすかな頬笑みが残っています。
やがて満足顔のままの作蔵が、静かに山門へ横たわりました。


 一斉射撃で、政府軍による第一陣の切り込みを撃退させた、
会津兵の鉄砲隊の前へ、敵の大砲部隊が今まで一度も見た事もないような
奇妙な火器を引き出してきました。

 その荷車に据え付けられていたのは、10本の銃身を束にした形のもので、
ガトリング砲と呼ばれ連続して数十発が発射できるという
最新鋭の機関銃です。



 「鉄砲隊は、
 急ぎ散会せよ。
 あなどるでないぞ、あれなるは、
 機関砲なる連続射撃のできる、最新式の武器である。
 物陰に隠れ、各自それぞれに、
 身をかわせ。」


 八重の言葉が終わらぬうちに、
敵のガトリング砲のシリンダーがその回転を始めました。
つるべ打ちの敵弾が、明け放たれた山門へ次々と着弾をしました。
逃げ遅れた会津の鉄砲兵が、連続して上がる激しい土埃の中で、
相次いで、もんどりうって倒れ込んでしまいます。

 これ以上の踏みとどまりは、
無理と判断した八重が、鉄砲隊に向かって、
長命寺からの撤退を命じました。






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舞うが如く 第五章 (16)攻防は続く

2013-01-27 10:21:53 | 現代小説
舞うが如く 第五章
(16)攻防は続く



 
 慶応四年(一八六八)八月の末になると、
城下に続々と到着した政府軍によって、若松城は東・北・西の
三方面から包囲されるに至ります。

 僅かに残された南の日光口方面も、次第に圧迫されるようになり、
城は、完全に包囲されるかも知れない不安にさらされてきました。
外部との連結通路の確保は、籠城戦の生命線にあたります。
籠城中の城内に食糧を搬入するためにも、また期待される米澤藩からの援軍と
連携をするためにも、外部との連絡路を確保しておく必要が
常にあるのです。


 幸いなことに、会津藩としては
国境に派遣しておいた各部隊が、相次いで続々と帰城してきました。
出撃作戦を敢行するための兵力なども、充分に揃いはじめました。


 やがて八月二十九日の払暁に
総反撃のために出撃することが、城内でひそかに決定をされました。
春日佐久良が率いる別撰隊を筆頭に、
小室金吾左衛門が率いる進撃隊、田中蔵人の率いる朱雀・士中二番隊。
原田主馬が率いる同三番隊、間瀬岩五郎の率いる朱雀・足軽二番隊。
辰野 源左衛門が率いる歩兵隊のほか、
田中左内の率いる砲兵隊や正奇隊も加えてその総兵力は、
十二中隊、約一千名にのぼるという出撃隊が編成をされました。


 出撃の前夜、藩主松平容保より
隊員一同を励ますために酒が下賜され、城内では夜を徹しての酒宴が催されます。
八重と琴、作蔵も推挙をうけてこの出撃隊に加わりました。
翌二十九日の夜も白々と明け初めたころ、法螺貝を吹き鳴らしながら、
西出丸から融通寺町口へとその隊列が一斉に打って出ました。



 鶴ヶ城の膝元ともいえる融通寺町や西名子屋町などの城西地区一帯は
政府軍の手によって、すでにそのすべてが焼き払われています。
ここを支配していたのは、軽装備の長州や大垣、備前の藩兵たちでした。
先陣を切る会津の別撰隊は、銃を放ち、剣を振るって
一気に敵陣へと雪崩(なだれ)こみました。
予期せぬ急襲を受けた政府軍の兵士たちは、不意を突かれて散り散りとなり
そのおおくが、近くの長命寺境内へと逃げ込みました。


 無量寿山・長命寺は由緒のある寺院です。
深い濠と土塀とを、三方に巡らした堅固な作りでも知られています。
さらに北側には大庭園がひろがっていて、老樹が鬱蒼と繁り、
築山が連なっていて、防備には適した地形そのもののといえる寺院でした。
政府軍はこれらを利用して、態勢を立て直しつつひたすら防戦につとめはじめました。


 これに対した会津軍は、右は赤井町裏の西光寺や、
左は融通寺(ゆづうじ)町の城安寺や、手明(てあき)町の法泉寺に展開をしました。
墓石の間を前進しながら、激しい砲戦を繰り返し、
三方面から長命寺に突入して遂にこれも占領をしてしまいました。


 だがそれもつかの間のことで、
まず、谷守部率いる土佐の援軍たちがここに駈けつけてきました。
さらに加えて、急を聞きつけた伴権太夫や、大石弥太郎が率いる銃砲隊が
野戦用の大砲までも充分に揃えて、援軍のために集結をしてきます。



 会津兵はこれを、桂林寺町や当麻(たいま)町に前線をおいて迎撃をしました。
しかし火器の装備に勝る、土佐兵の攻撃は猛烈を極めました。
絶え間なく打ち込まれた榴散弾のために、会津兵は、
徐々に後退を余儀なくされてしまいます。


 一方、長命寺の山門前で守備にあたった
琴と作蔵も、まったく身動きがとれない状態のままでした。
激しい連発銃の射撃と共に、新式大砲の砲弾も次々と打ち込まれてきました。
その砲弾の破壊力はまことに凄まじく、一撃にして土塀を砕き貫ぬいてしまいます。
さらに着弾するとともに、内部に組み込みこまれた細かい鉄の破片が、
あたり一面に無数に飛び散りました。



 「野戦用の、新型砲弾でありまする。
 従来よりも、広範囲に殺傷能力がありますので、
 大変に危険な物といえます。
 頭を、低く下げていてください。」


 八重がそう言った瞬間に、ふたたび炸裂音が轟きました。
爆風と共にすぐ目前に、すさまじいばかりの土煙が上がりました。
一瞬、顔をそむけたそのわずかな隙を狙いすましたかのように、
土のうを乗り越えて、政府軍の突撃隊が現れました。
土煙が薄れる中、抜き身を振りかざした20名あまりの敵の突撃隊が
狙いすませた間合いで、いきなり目の前に出現をしたのです。



 なだれ込んでくる先頭の一人を
琴が、下手から胴を鋭く突きたてて、その勢いを止めてしまいました。
さらに剣を引き抜くと、返す刀で早くも次の敵にも手傷を負わせてしまいます。
さらにもう一撃を加えてその敵を切り捨ててしまうと、次の3人目に向かって、
低く突きの体勢を整えました。


 その時、その後方では一人の土佐兵が、
銃をかまえていた八重に向かって、大上段から斬りかかりました。
あわやというその瞬間に、作蔵が背後からその土佐兵に体当たりをくらわします。
居合抜きを得意とする、作蔵の剣にも素早いものがありました。
足を踏ん張って振り向きざま、よろめいている相手に向かって、
作蔵が気合もろとも、敵を大上段から斬り捨ててしまいます。



 激しく入り乱れる白兵戦が続く中、
敵陣からはさらに第二陣が、銃を構えて現れました。
その背後にも、十人余りが銃を構えて一斉に立ち上がります。


 琴が、三人目の敵兵と数度の刃をかわしてから、
敵の右手に鋭い一撃を与えました。
ひるむところへ突いた剣先は、そのまま相手の胴を深く貫ぬきます。
崩れ落ちる敵兵を一瞥する隙さえも見せずに、
琴が、次の敵兵に立ち向かいました。



 まさにその瞬間でした。



 人垣のごとく厚く林立した敵陣からは、狙いすませた新型銃の、
激しい一斉射撃がはじまりました。





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