舞うが如く 第六章
(3)それぞれの兄
明治二年(一八六九)正月、
猪苗代に謹慎中の会津の藩士たちは、信州松代藩の真田家へ、
また塩川で謹慎中の藩士たちには、越後高田の榊原家にそれぞれ「永の預け」を命ぜられ、
九日には出立をするという達しが届きました。
藩士たちの不安と動揺は深刻でした。
高田への護送は手縄つきだとか、高田到着と同時に切腹を仰せつけられるなどといった
不吉な風説が相次いで乱れ飛びました。
不安にかられたあまりに、夜陰にまぎれて脱走する者などもあいつぎます。
迎えた出発の朝になると、
高田藩へのお預け組には、一人に二両の手当金と、菅笠と蓆が手渡されました。
別れを惜しむ家族たちが群がる中を、
前後を約百人の越前藩士たちに警護されながら歩きはじめます。
坂下・野尻・津川・山ノ内・分田・加茂・三条・地蔵堂・出雲崎・柏崎・黒井と泊まりながら、
ようやく、一月二十一日に至って高田の浄光寺に到着をしました。
この間の九日間は、
吹雪に見舞われるなどして、難儀が続くたいへん苦節の旅になりました。
この日到着した第一陣は四百名余りです。
後続と合わせて総勢千七百四十三名がこれから高田で謹慎生活に入ることになります。
開城と共に、謹慎処分となっていた琴と八重も、
その後の取り調べの経過の中で、女人にはお咎めなしとされてしまいます。
即座にその場での解放が決定しました。
しかし、それを不満とする八重は執拗に食いさがります。
軍人として共に戦った同胞達と同様の処分を申し出る八重に、
取り調べの担当官が苦笑をします。
再検分を要望する八重の熱弁を一通り聞き終えてから、
その場の指揮官が、真顔で諭しはじめます。
「お気持ちは、充分にお伺いたしました。
聞けば、京都におられる山本覚馬殿の妹君で、八重どのと伺いました。
幕府側用人の覚馬殿は、一度は逮捕にいたりましたが、
京都の復興に無くてはならぬ人材の一人との決済がなされ、
直後に、釈放になられたと聞き及んでいます。
今日では、京都にて尽力をされ、各方面にて多大な活躍をされていると
その後の報告にて届いておりまする。
山本家といえば、武田氏につかえた勘介殿を筆頭に
古今に名だたる知将の家柄と聞き及びます。
いたずらに意地を張らず、地に伏してでも、まずは会津の復興につとめ、
その後に、京都におられる兄上との再開の機会も有るかと思われます。
まずは、ご自身を大切になされることが
肝要と思われます」
「兄が、京都にて無事なのですか!」
「左様。
ただし、もうひとつだけ
八重殿には、有無を言わせず申し渡すべきこともござる。
そなたの夫殿は、他藩の出身であるゆえに、
身柄を元の藩へと戻したうえで、処分待ちの謹慎とあいなりまする。
会津砲術隊を率いた指揮者のお一人ともなれば、
それ相応の処分についての覚悟も必要と相なりまする。
その処置については、後ほどに、
沙汰がくだされることにありましょう。」
「さて、もうひとり。
中沢琴殿、
新徴隊の屈指の名剣士、中沢良太郎貞祗(さだまさ)どのも
庄内領にて、健在にございます。」
「兄が・・・庄内に生きているのですか」
「関東が制圧されたのちに、
新徴組の多くの隊士は、妻子を伴って庄内領へと移住を果たしました。
勇猛をもって知られた庄内軍の兵士の中に有っても、そなたが兄の
良太郎氏は出色との評判でござる。
戦場にあっての中沢良之助どのは、
敵味方を問わず、注目を集めた人物でもありました。
いかなる戦いの最中にあっても、相手の命まで奪うことはなく
勝敗が決すればそれまでとして、
刀を引く潔さが、武人の誉れとして絶賛されておりました。
日本が新しく生まれ変わる時代であるいうことを、
きわめて良く知り尽くした武人の一人と言えましょう。
人を切ることが武道に有らず、
生きるためにこそ剣を振るうという法神流の真髄は実に見事です。
これからの世の中は、生きることにこそ意味が有り、
人の暮らしを支えてこそ、
やがて未来がうまれるということを、熟知された剣の達人ともいえるでしょう。
この時代にこそ必要な、どちらも有益なる武人です。
お互いにたいそうに、良き兄者をお持ちのようです。」
「兄が、「生きている・・・」
「戦(いくさ)となれば、
いやがうえにも略奪や狼藉、乱暴の類が横行します。
国は乱れ、郷里は踏みにじられ多く物が破壊しつくされてしまいました。
しかし、戦禍がおさまれば復興に尽力することが、
またもや、我らやそなたたちの務めでもありまする。
荒れた地を再び耕してこそ、
やがて平穏と繁栄が訪れまする。
また、生きておればこそ兄上との再会も果たせると思われまするゆえ、
本日の裁定は、ここまでといたしまする。
拙者は、これにて。」
指揮官が、琴と八重を残して立ち去りました。
垣根のように取り巻いていた兵士たちも隊列を崩して四方へと散りはじめます。
そのうちの一人の武者が、琴に近寄ってきました。
まだ若く、腰に帯びた太刀の様子がどこかで剣客ぶりを漂わせています。
「最前のお話ですが、
兄上と言うのは、法神流の中沢殿のことでしょうか。」
「いかにも。
良之助は我が兄にあたります。」
「私も、その中沢氏に、
一命を助けられた者のひとりです。
私は長州の藩士にて、名を高柳勇乃進と申す剣士です。
剣技には少なからぬ自信が有りまして、武芸に秀でる長州藩においても、
いちにを争うと常より自負をいたしておりました。
庄内領においての戦乱のおり
たまたま、兄上と剣を交える機会がありました。」
「兄と、・・・」
「ものの見事に、あしらわれました。
簡単に、我が太刀を打ち落とされて決着がつきました。
格段の腕の相違がありました。
ついに万事が尽きたものとして、潔く覚悟をいたしましたが、
くるりと背を向けて立ち去ってしまいました。
覚悟はできているゆえに、早くにとどめを討つがよいと叫びますと、
中沢氏は振り向きざまに、命を無駄にやりとりしている場合にあらず、
優劣がつけばそれでよしとする、
無益な武士道のために、あえて命を落とすにはおよばず。
助かったそなたの生命はこれよりは、
本気で、新しい日本のためにこころして働くがよい。
そう申しておりました。
あたらしき時代の武士の存念、感服の至りでした。」
「兄がそのようなことを・・・」
八重が、横あいから若者に尋ねました。
「先ほどの指揮官どのの、お名前は?」
「先ほどの方は、
会津方面隊長の総参謀で、山縣(やまがた)有朋さまにございます」
「あのかたが、山懸有朋さま。」
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(3)それぞれの兄
明治二年(一八六九)正月、
猪苗代に謹慎中の会津の藩士たちは、信州松代藩の真田家へ、
また塩川で謹慎中の藩士たちには、越後高田の榊原家にそれぞれ「永の預け」を命ぜられ、
九日には出立をするという達しが届きました。
藩士たちの不安と動揺は深刻でした。
高田への護送は手縄つきだとか、高田到着と同時に切腹を仰せつけられるなどといった
不吉な風説が相次いで乱れ飛びました。
不安にかられたあまりに、夜陰にまぎれて脱走する者などもあいつぎます。
迎えた出発の朝になると、
高田藩へのお預け組には、一人に二両の手当金と、菅笠と蓆が手渡されました。
別れを惜しむ家族たちが群がる中を、
前後を約百人の越前藩士たちに警護されながら歩きはじめます。
坂下・野尻・津川・山ノ内・分田・加茂・三条・地蔵堂・出雲崎・柏崎・黒井と泊まりながら、
ようやく、一月二十一日に至って高田の浄光寺に到着をしました。
この間の九日間は、
吹雪に見舞われるなどして、難儀が続くたいへん苦節の旅になりました。
この日到着した第一陣は四百名余りです。
後続と合わせて総勢千七百四十三名がこれから高田で謹慎生活に入ることになります。
開城と共に、謹慎処分となっていた琴と八重も、
その後の取り調べの経過の中で、女人にはお咎めなしとされてしまいます。
即座にその場での解放が決定しました。
しかし、それを不満とする八重は執拗に食いさがります。
軍人として共に戦った同胞達と同様の処分を申し出る八重に、
取り調べの担当官が苦笑をします。
再検分を要望する八重の熱弁を一通り聞き終えてから、
その場の指揮官が、真顔で諭しはじめます。
「お気持ちは、充分にお伺いたしました。
聞けば、京都におられる山本覚馬殿の妹君で、八重どのと伺いました。
幕府側用人の覚馬殿は、一度は逮捕にいたりましたが、
京都の復興に無くてはならぬ人材の一人との決済がなされ、
直後に、釈放になられたと聞き及んでいます。
今日では、京都にて尽力をされ、各方面にて多大な活躍をされていると
その後の報告にて届いておりまする。
山本家といえば、武田氏につかえた勘介殿を筆頭に
古今に名だたる知将の家柄と聞き及びます。
いたずらに意地を張らず、地に伏してでも、まずは会津の復興につとめ、
その後に、京都におられる兄上との再開の機会も有るかと思われます。
まずは、ご自身を大切になされることが
肝要と思われます」
「兄が、京都にて無事なのですか!」
「左様。
ただし、もうひとつだけ
八重殿には、有無を言わせず申し渡すべきこともござる。
そなたの夫殿は、他藩の出身であるゆえに、
身柄を元の藩へと戻したうえで、処分待ちの謹慎とあいなりまする。
会津砲術隊を率いた指揮者のお一人ともなれば、
それ相応の処分についての覚悟も必要と相なりまする。
その処置については、後ほどに、
沙汰がくだされることにありましょう。」
「さて、もうひとり。
中沢琴殿、
新徴隊の屈指の名剣士、中沢良太郎貞祗(さだまさ)どのも
庄内領にて、健在にございます。」
「兄が・・・庄内に生きているのですか」
「関東が制圧されたのちに、
新徴組の多くの隊士は、妻子を伴って庄内領へと移住を果たしました。
勇猛をもって知られた庄内軍の兵士の中に有っても、そなたが兄の
良太郎氏は出色との評判でござる。
戦場にあっての中沢良之助どのは、
敵味方を問わず、注目を集めた人物でもありました。
いかなる戦いの最中にあっても、相手の命まで奪うことはなく
勝敗が決すればそれまでとして、
刀を引く潔さが、武人の誉れとして絶賛されておりました。
日本が新しく生まれ変わる時代であるいうことを、
きわめて良く知り尽くした武人の一人と言えましょう。
人を切ることが武道に有らず、
生きるためにこそ剣を振るうという法神流の真髄は実に見事です。
これからの世の中は、生きることにこそ意味が有り、
人の暮らしを支えてこそ、
やがて未来がうまれるということを、熟知された剣の達人ともいえるでしょう。
この時代にこそ必要な、どちらも有益なる武人です。
お互いにたいそうに、良き兄者をお持ちのようです。」
「兄が、「生きている・・・」
「戦(いくさ)となれば、
いやがうえにも略奪や狼藉、乱暴の類が横行します。
国は乱れ、郷里は踏みにじられ多く物が破壊しつくされてしまいました。
しかし、戦禍がおさまれば復興に尽力することが、
またもや、我らやそなたたちの務めでもありまする。
荒れた地を再び耕してこそ、
やがて平穏と繁栄が訪れまする。
また、生きておればこそ兄上との再会も果たせると思われまするゆえ、
本日の裁定は、ここまでといたしまする。
拙者は、これにて。」
指揮官が、琴と八重を残して立ち去りました。
垣根のように取り巻いていた兵士たちも隊列を崩して四方へと散りはじめます。
そのうちの一人の武者が、琴に近寄ってきました。
まだ若く、腰に帯びた太刀の様子がどこかで剣客ぶりを漂わせています。
「最前のお話ですが、
兄上と言うのは、法神流の中沢殿のことでしょうか。」
「いかにも。
良之助は我が兄にあたります。」
「私も、その中沢氏に、
一命を助けられた者のひとりです。
私は長州の藩士にて、名を高柳勇乃進と申す剣士です。
剣技には少なからぬ自信が有りまして、武芸に秀でる長州藩においても、
いちにを争うと常より自負をいたしておりました。
庄内領においての戦乱のおり
たまたま、兄上と剣を交える機会がありました。」
「兄と、・・・」
「ものの見事に、あしらわれました。
簡単に、我が太刀を打ち落とされて決着がつきました。
格段の腕の相違がありました。
ついに万事が尽きたものとして、潔く覚悟をいたしましたが、
くるりと背を向けて立ち去ってしまいました。
覚悟はできているゆえに、早くにとどめを討つがよいと叫びますと、
中沢氏は振り向きざまに、命を無駄にやりとりしている場合にあらず、
優劣がつけばそれでよしとする、
無益な武士道のために、あえて命を落とすにはおよばず。
助かったそなたの生命はこれよりは、
本気で、新しい日本のためにこころして働くがよい。
そう申しておりました。
あたらしき時代の武士の存念、感服の至りでした。」
「兄がそのようなことを・・・」
八重が、横あいから若者に尋ねました。
「先ほどの指揮官どのの、お名前は?」
「先ほどの方は、
会津方面隊長の総参謀で、山縣(やまがた)有朋さまにございます」
「あのかたが、山懸有朋さま。」
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