落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第六章 (6)一本の鍬(くわ)から、

2013-02-03 09:36:56 | 現代小説
舞うが如く 第六章
(6)一本の鍬(くわ)から、





現在の我が国で、
繭からシルクを製造している企業はわずかに2社しか残っていません。
そのうちの一社が、山形県酒田市にある松岡株式会社です。
その歴史は、一三〇年前に旧庄内藩士たちが手にした
一本の「鍬(くわ)」から始まりました。


 明治維新以降、富国強兵路線を
まい進させて新政府は、北海道での大開拓をはじめとして、
日本全国で開拓と産業を起こすことに大きな力をそそぎます。


 山形県、松ヶ岡開墾場の歴史は、明治五年から本格的に始まりました。
賊軍の汚名をそそぐために、旧庄内藩士たち、三〇〇〇名余りが取り組んだ
この開拓事業は、まず赤川河原での試験開墾から始まりました。

 赤川河原の試験開墾は、大規模な開墾事業を始めるにあたり、
まったく未経験の士族たちに、開墾事業が遂行できるかどうかを試したものです。
約三〇〇〇〇坪の河原に、旧常備隊の六小隊・三六〇人が投入をされて、
明治五年、四月一二日よりその開墾が始まりました。

 うっそうとした草を刈り払い、
雑木を斬り倒して、その根を掘り起こします。
さらに土を盛って整地をし、農場へと変えていきます。
一面には桑苗が植えられ、約ひと月の間に、9町歩の桑園が完成します。
さらにその合間には大豆などを植えながら、6月の半ばを過ぎるころには
河原のほとんどが開墾をされてしまいました。

 この成功をみて、大規模開墾が正式に決議されます。
同年の6月には、月山山麓(羽前国・田川郡後田村)が国から払い下げられ、
1,070千㎡の及ぶ開墾が始まります。
またこのころすでに、養蚕業の先進地である前橋(群馬県)や、
仙台にも開墾者を派遣し学ばせています
さらに富岡に造られた官製の近代的な製糸場(富岡製糸場)
へも人員を派遣しています。

 開墾事業は旧庄内藩が総力をあげたものであり、
12名の幹部のもとに、60~100名前後に分けられた小隊が編成されました。
全体では29組の小隊がつくられ、2,890名が組織されています。

 いっぽう庄内入りをした新徴組は、総勢で136名です。
このうち戊辰戦争では5人が死亡し、病気などで5名が死亡しています。
妻子たちとともに新徴屋敷に移り住み、松ヶ丘での開墾事業に従事をしましたが、
翌年の7月22日の夜に、60人近くが集団脱走をしてしまいます。


 いずれも慣れない東北地方での
冬の猛吹雪や寒さ、風土になじめないためと思われます。
さらに過酷きわまる開墾の労務にも嫌気がさし、共同謀議のすえに、
発展著しい東京を目指して脱走をするという事態をむかえてしまいます。


 しかし、そんな事態の中でも良之助は揺るぎません。
脱走を企てている者をたちを説得するわけでもなく、黙々と開拓地へと
足を運び続けています。
屋敷に戻ってくると近所の子供たちを集めて道場へ行き、
遅くまで稽古の相手などをしています。


 琴も、良之助に就いて農場へ通う日々が続いています。
その日も道場で、子供たちを相手に、稽古の汗を流していました。

 一人の剣士が琴を訪ねてきました、
総司の義兄にあたる、沖田林太郎です。





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