落合順平 作品集

現代小説の部屋。

忠治が愛した4人の女 (26)       第二章 忠治、旅へ出る ⑪

2016-07-30 11:23:53 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (26)
      第二章 忠治、旅へ出る ⑪




 「姐さん。一度、人を殺したら、堅気に戻れないって本当ですか?」


 「忠治。お前さんはまだ、自分の置かれた立場がわかっていないようだね。
 じゃ聞くが、なぜ堅気に戻りたいんだい、お前は?」


 「お鶴や、おふくろが俺の帰りを待ってるからです」忠治が、ぼそりと応える。
それを聞いたお園が、冷たい笑いをくちびるの端へ浮かべる。



 「ふふふ。甘いね。お前は。
 世間はそんなに甘くはないよ。
 一度背負った凶状は、決して消えやしない。
 理由はとにかく、おまえさんが人を殺したってえ事は、村中の者が知っている。
 おまえさんが国定へ戻れば、あいつは人殺しだと、陰口をたたかれるに決まっているさ。
 何かでヘマをしてご覧。必ず陰で笑うやつがいる。
 辛い思いをして堅気として生きるより、あたしゃ博奕打ちで生きた方が
 あんたのためになると、思うがね」



 たしかにその通りなのかもしれねぇ、と忠治も思う。
理由はともあれ、忠治が無宿者を斬り殺したことは、まぎれもない事実だ。
国定村でもとなりの田部井村でも、いまごろはその噂でもちきりだろう。


 「よく考えることだね。
 これからどうするのかは、あんたが決めることだ」


 どれ、そろそろお昼の支度をしなくちゃねと、お園が縁側から立ち上げる。



 「その気になったら、あたしに言いな。
 うちの人にうまく言ってやる。
 なんなら英五郎さんの仲立ちをしてもいい。あんたって子は特別さ。
 あんたのためならこのお園が、ひと肌ぬいであげるから」


 うふふと笑いながら、いいにおいを残してお園が立ち去っていく。
道場主になるという、忠治の夢がぐらついてきた。
お園が言うように、いままで通りの生活に戻れる保証はどこにもない。
しかし。英五郎から堅気に戻れと、きつく言われている。


 (いったい、どうするゃいいんだ・・・この俺は・・・)



 お園の背中を見送った忠治が、ゆっくり薪割りの仕事に戻る。
台座の上に、1尺余りの切り株を置く。
乾燥の際に出来た亀裂に向って、忠治が思い切り斧(おの)を振り下ろす。
素性の良い木は、まっすぐ2つに割れる。
スパンと小気味のよい音をたてて、切り株がモノの見事に2つに割れる。



 その日から、1ヶ月あまり。
忠治はお園につきっきりで、せっせと言い付けられた雑用をこなていく。
お園から、いろいろと博奕打ちの事を聞くのが楽しかった。
雑用をしている栄五郎の三下、大胡(おおご)村の団兵衛からもいろんな話を聞いた。
そのうち、このまま英五郎の子分になるのも悪くないな、といつしか
考える様になってきた。


 
 「なんでぇ忠治。俺におりいっての頼み事とは?」


 「お願いです、俺を子分にしてください。英五郎の親分!」


 
 「駄目だ。おめえを博奕打ちにすることは出来ねぇ。
 おめえには知らせなかったが、玉村の親分から手紙が来た。
 田部井村の名主さんと、本間道場の先生が久宮一家と話を付けたそうだ。
 もうひとつ有る。
 玉村の親分が、八州様の御用聞きをしている島村の親分や、
 木崎の親分にも話を付けてくれた。
 すぐに戻る事はできねえが年が明けて、夏くれぇには帰ることができるだろう」

 
 「来年の夏か・・・ずいぶんと長えなぁ・・・」


 「忠治。おまえはまだ、よく分かっていないようだ。
 人を殺すってのは大変なことだ。
 普通なら役人に捕まり、江戸送りになって、牢屋へ入れられる。
 牢屋の中にも牢名主というのがいて、新入りを痛え目にあわせる
 それだけじゃねぇぞ。
 役人の拷問を受けて、その拷問で死ぬ事もある。
 拷問に耐えたからって、シャバに出てこられるわけじゃねえ。
 軽くて島送りになるし、運が悪けりゃ獄門さらし首だ。
 そうなるはずだったやつを、おめえは、お咎めなしに故郷へ帰れるんだ。
 大勢の人に、感謝しなくちゃいけねぇな」

 
(27)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (25)       第二章 忠治、旅へ出る ⑩

2016-07-29 09:25:10 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (25)
      第二章 忠治、旅へ出る ⑩





 「忠治。おまえさんも、英五郎親分の盃が欲しくてやって来たのかい?」

 
 姉さん被りのお園が、お勝手からやってきた。
涼しく相手の目を見つめる瞳が、どこか幼なじみのお町に似ている。
「いいえ。違います」
薪(まき)割りの手を止めて、忠治が答える。



 「へぇぇ、なんだ。違うのかい。
 上州から若い者が、英五郎親分の盃が欲しくて大勢やって来るけど、
 おまえさんは違うのかい。
 ふぅ~ん。変わっているんだねぇ、おまえさんて子は」


 
 「ほとぼりが冷めるまで、ただ隠れているだけですから」



 「ああそうか。そうだったねぇ。その若さであんたは人を殺したんだっけ。
 度胸があるんだねえ。見かけによらずあんたって子は」


 うふふと笑うお園に、忠治が苦笑いをうかべる。
流れていく汗をふきながら忠治が、お園を見つめ返す。
お園の綺麗なくちびるの端に、なんともいえない妖艶な笑みが浮かんでいる



 「大前田の英五郎親分といえば、誰もが認める、男の中の男だよ。
 凄いお人だ。
 こんな近くにいるというのに、盃を貰わない手はないと思うよ」


 
 「英五郎さんは、そんなに凄い人なんですか・・・」


 
 「ああ凄いさ。凄いに決まっているじゃないか。
 なんだい、知らないのかい、あんたは。英五郎親分の凄さを」


 こっちへおいでと、お園が縁側を指さす。
汗をぬぐいながら、忠治が黙って縁側へ腰を下ろす。
そのすぐ隣へいいにおいを漂わせたお園が、ふわりと腰をおろす。



 「英五郎さんは、顔が広くってね、あちこちの大親分さんを知ってるんだ。
 そのうえ、たくさんの仲裁をしてきたから、人望も厚い。
 佐渡島に送られたのに、死なずに、島抜けして来たなんて大したもんさ。
 英五郎親分から盃を貰って、生まれ故郷に帰ってごらん。
 おまえさんは人を殺した事で、男を上げている。
 そのうえ大前田の親分さんから盃を貰っていけば、さらにいっそうの箔がつく。
 一家だって、立派に張る事ができるんだよ」


 「えっ・・・俺が一家をはる!。
 まったくそんなことは、考えてもいなかったなぁ・・・」



 「忠治。よくお聞き。
 一度、人を殺しちまったら、もう堅気の生活には戻れない。
 凶状持ちは博奕渡世で生きて行くのが、定めなのさ。
 でもね。人様の子分として生きていくよりも、一家を張って親分になった方が
 絶対いいのに決まっているだろう」



 人を殺せば、もう堅気には戻れないのさ絶対にと、お園が言い切る。
まったく予測していない指摘だ。
何年か辛抱してほとぼりが冷めれば、また、生まれ故郷の国定村へ帰れる。
そのときが来たらまた、道場主になるための修行をはじめる。
忠治はずっと、そのことばかりを考えていた。
だがお園はあっさりと、そんな忠治の気持ちを根底からひっくり返した。



 「うちの人は、川越のお殿様のお気に入りの力士だったのさ。
 だけどね。力士なんてのは、若いうちだけだよ。
 強い時はみんなにちやほやされるけど、落ち目になったら惨めなもんさ。
 ちやほやされながら生きてきた者は、堅気には戻れない。
 真面目に働くということを知らないからね。
 大抵の者が博奕打ちになる。
 だけど、うまく行く奴は少ない。たいていが途中で落ちこぼれるのさ。
 うちの人は英五郎親分に贔屓にされて、弟分にしてもらったんだ。
 お陰でこうして一家を張り、この世界で生きていられる。
 島抜けしてすぐ、うちの人を頼って来てくれるなんて、嬉しいじゃないか。
 うちの人は英五郎親分のためなら、命なんかいらないっていう程、
 こころの底から、惚れ込んでいるからね」

 
(26)へつづく



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忠治が愛した4人の女 (24)       第二章 忠治、旅へ出る ⑨

2016-07-28 11:33:38 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (24)
      第二章 忠治、旅へ出る ⑨




 3日後。忠治が 武州に向かって歩き出した。
目指すは、川越街道に面してひろがる藤久保村。
そこに、獅子(しし)ケ嶽(たけ)の重五郎という力士上がりの親分がいる。


 重五郎は、将軍の上覧相撲に参加したことがある。勝ち星も上げている。
引退した今は木賃宿をやりながら、若い者たちに相撲を教えている。
その一方で川越一帯を仕切る、博打うちの顔ももっている。



 重五郎の自宅に、佐渡から島抜けした大前田村の英五郎が隠れている。
初めて目にした英五郎は、見るから貫録があふれている。
身の丈はゆうに6尺(180㌢)。自信と気迫の雰囲気が全身にみなぎっている。
忠治が佐重郎に書いてもらった紹介状を、英五郎へ手渡す。



 「ほう。懐かしいなぁ。女郎屋の親分さんか」英五郎が、懐かしそうにほほ笑む。
「どれ」と広げた紹介状に、長い文章がつづられている。
「・・・なるほどな。ふぅ~ん、そういうことかい。よくわかった」
紹介状を読みおえた英五郎が、鋭い目を忠治に向ける。



 「おめえ。人を殺して逃げてきたのか」



 どすの効いた低い声とするどい目が、忠治の全身を射抜く。
「行きがかり上、仕方なかったんでさぁ」
忠治が下を向いたまま、ぼそりと小さな声で答える。


 「それで、渡世人になるつもりなのかい、おまえさんは?」



 英五郎の鋭い目が、さらに忠治を射抜いていく。
渡世人になろうという気持ちは無い。
腕を磨き、国定村で道場主になるという夢を、あいかわらず持ち続けている。



 「玉村の親分の手紙によれば、おまえの家は国定村の名家だとある。
 名主をやった事もある家柄だと、書いてある。
 そいつが何でまた無宿者なんかを、殺しちまったんだ?」

 
 「その野郎は、無関係の名主さんに難癖をつけに来たんです。
 殺すつもりは無かったんです。
 だけど、いきなりそいつが斬りかかってきたもんで、つい必死で、
 自分を守るために、刀を抜いたら・・・」


 「斬っちまった、というのか?」


 「無が夢中だったんでさぁ。
 だからそん時のことは、あまりよく覚えていません。
 気が付いたら、俺の目の前で、相手の男が息絶えていました」



 「相手の無宿者は、久宮(くぐう)一家の客人だったらしいな。
 俺が話を付けてやりてえとこだが、どうにも相手が悪い。
 久宮一家とは、浅からぬ因縁が有る。
 跡を継いだ豊吉は、俺を仇と思って狙っているからな。
 そのあたのことは玉村の親分さんが、うまくまとめてくれるだろう。
 安心して、ほとぼりが冷めるまでここにいろ。
 だがな忠治。これだけは言っておく。
 これを機会に、渡世人になろうなんて思うなよ。
 お前さんは、ほとぼりが冷めたら国定村に帰るんだ。
 もう一度、堅気の暮らしに戻るんだな」


 「はい。無事に戻れたら、腕を磨いて道場をひらきたいと思っています」


 「ほう。おめえは剣術を習っているのか?」



 「赤堀の本間道場へ通っています」



 「本間道場といえば、真庭念流の名門じゃねぇか。
 なるほどな。どうりで腕が立つわけだ。
 俺も若いころは、浅山一伝流を習っていた。
 だがよ。剣術を習えば習うほど、そのうち無性に刀が抜きたくなる。
 俺も人を殺(あや)めたことがある。
 今思えば、馬鹿な事をしちまったと後悔している。
 おめえもこれに懲りて、二度と人様を、斬ったりするんじゃねえぞ」

 
 「へぇ・・・」


 忠治は英五郎の連れという扱いで、重五郎の木賃宿に滞在することになった。
だが客人扱いというものは、どうにも不具合だ。
これといってすることが無い。
毎日がただ、退屈するだけの繰り返しだ。
そのうち。退屈しのぎに重五郎の妻の、お園の手伝いをするようになった。


 お園はほっそりしている。しかし男好きのする、なかなかの美人だ。
子分たちからは、姐さんと呼ばれている。
優しい顔をしているが、性格はきつい。
虫も殺さないような顔をして、重五郎の子分たちを平気で顎(あご)で使っている。



 そんなお園だが、忠治には優しい顔を見せる。
お園は、上州からやって来た相撲取りのような体型をしている忠治のことが、
ことのほか可愛く映ったようだ。
(昔の旦那様のようだね、おまえは。うっふっふ)とお園が、目を細めて笑う。


  
(25)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (23)       第二章 忠治、旅へ出る ⑧

2016-07-27 11:28:22 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (23)
      第二章 忠治、旅へ出る ⑧



 「よく来た。おめえが忠治か。
 おめえのオヤジには、ずいぶん世話になった。やっと恩返しができる。
 八州様の御用聞きをしている俺さまだ。
 万事うまく計らってやるから、おめえは何の心配もすんな。
 自分の家だと思って、ゆっくり手足を伸ばせ」



 道場主の手紙を読み終えた佐重郎が、「万事まかせろ」と笑う。
佐重郎が笑ったのには、意味が有る。
博徒と十手の2足のわらじを履いている者は、いろいろ融通の利く立場に居る。


 八州様とは関東取締出役のことで、関八州の村々を巡回して、
犯罪者たちを召し捕るのが仕事だ。
関東の八州には幕府の直轄領(天領)や旗本領、藩領、寺社領などが、
細かくモザイクのように入り乱れている。


 そのため。他領へ逃げ込んでしまった犯罪者を、逮捕する事ができない。
犯罪者が潜伏するのに、ごく都合がよい。
多くの博徒が上州へ逃れてくるのも、当然のことと言える。


 困り果てた幕府がどこへでも踏み込むことができ、犯罪者を逮捕できる権限を
持った、関東取締出役を設置した
上州(群馬県)武州(ぶしゅう・埼玉県)を担当する関東取締出役は、全部で4人。
2人づつの交替体制で、村々を見て回る。
 


 彼らは江戸に住んでいるため、巡回するための道案内を必要とした。
最初のうち。道案内は村の名主たちが務めた。
しかし。取り締まりの対象は博奕打ちや、凶暴な無宿者たちだ。
そうした連中を捕まえるには、内情を知っている者のほうが都合がよい。


 ごく自然のうちに、顔の売れている博奕打ちの親分を、案内役に指名する事が多くなった。
これが『二足の草鞋(わらじ)』のはじまりだ。
大前田栄五郎に殺された久宮一家の丈八や、この後、忠次と対立関係になる
島村の伊三郎も、2足のワラジを履いている。


 佐重郎も、そうしたひとりだ。
道案内は無報酬だ。しかし八州様を後ろ盾にすることで、得るものも多くなる。
十手を盾に、悪どいことを平気でおこなう。
たとえば。博奕を見逃してやるかわりに、高額の賄賂を貰う。
払わない博徒は捕まえて江戸へ送り、空いた縄張りは自分のものにしてしまう。



 宿場女郎は、一軒に2人までという制限が有る。
だが、それを守っている旅籠屋は少ない。違反を見逃す代わりに、賄賂をもらう。
払わないものは、有無を言わさず捕まえる。
『二足のワラジ』の持ち主は、十手をちらつかせながら人の弱みに上手につけこむ。
勢力をひろがるため、あらゆる場面で悪事を働く。
しかし。玉村宿の佐重郎は、そこまでワルではない。



 「相手が野州の無宿ものなら、なんとかなるだろう。
 だがな。このままお前さんが上州に居たんじゃ、なにかと都合が悪い。
 足を伸ばして、国をかえろ。
 そうだな。ちょうど良い男がいる。
 2、3日ここで休んだら、武州の藤久保村へ行け。
 俺が藤久保村の親分に、紹介状を書いてやる」


 「へっ、武州の藤久保村?。
 なんでそんな辺鄙なところへ行くですか。この後におよんで、いまさら?」



 「行くのは嫌か?。だがよ忠治。人の話は最後まで聞いた方がいい。
 辺鄙な場所だから、かえって都合がいいのよ。
 それによ、大きな声じゃ言えねえが実はそこに、上州の大親分さんが
 隠れていなさる」


 「大親分が隠れている?・・・誰ですか、いってぇ」



 「大前田の英五郎親分が隠れている。
 間違いとはいえ、人を殺しちまったお前さんのことだ。
 大前田の親分の名前くらい、どこかで聞いたことがあるだろう」


 いきなり。泣く子も黙る上州の大親分、大前田英五郎の名前が出てきた。
英五郎をかくまっている佐重郎に、紹介状を書いてくれるという。
忠治の興奮が頂点に達していく。


 その夜、忠治はいくら酒を飲んでも酔うことが出来なかった。
上州人ならだれもがあこがれている大親分の大前田英五郎に、逢うことができる。
そう考えただけで忠治の血が、あやしく騒ぎはじめてきた・・・

  
(24)へつづく


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忠治が愛した4人の女 (22)       第二章 忠治、旅へ出る ⑦ 

2016-07-26 10:50:43 | 時代小説
忠治が愛した4人の女 (22)
      第二章 忠治、旅へ出る ⑦ 




 次の日の朝。忠治は玉村宿を目指して歩いている。
本間道場の師匠・千五郎が、忠治のために紹介状を書いてくれた。
行く先は角万屋という旅籠屋。
そこに2足のワラジを履いている、佐重郎という親分がいる。


 佐重郎は、忠治の亡くなった父親をよく知っている。
この男ならほとぼりが冷めるまで、万事うまくはからってくれるだろうと
本間道場の師匠が、忠治の背中を押してくれた。
玉村宿まで、およそ6里。
朝もやの赤城山を背にゆっくり歩いても、日が高いうちに玉村の宿へ着く。



 玉村宿は、日光例幣使(れいへいし)街道の宿場町。
徳川家康をまつる日光東照宮の春の大祭へ、京都の朝廷が毎年、
幣帛(へいはく)を奉献するため勅使の一行を出す。
(幣帛は、神前にそなえる供物のこと)



 例幣使街道の起点は倉賀野宿(現在の高崎市)。
玉村宿は、一番目の宿場。
四丁目から七丁目にかけて、50軒あまりの旅籠屋が立ち並んでいる。
六丁目に本陣があり四丁目と七丁目に、問屋場がある。



 飯盛(めしもり)女と呼ばれる女郎たちが、大勢いる事でも知られている。
角万屋にも、おおぜいの女郎がいる。
佐重郎は旅籠の主人でありながら、玉村一家を張っている。
また八州様の道案内として、十手をあずかっている。



 「それにしても・・・」忠治が、はるかにかすんでいく赤城山を振りかえる。


 (おいらの生き方が、狂い始めてきたぞ・・・
 いったいぜんたい、何がどうなって、こんな風になっちまったんだ。
 ワラジを履き、旅に出る羽目になるとは夢にも思わなかったぜ・・・)



 忠治が、昨夜の出来事をふりかえる。
名主の家に暴漢が押し入ったくらいなら、普段ならまったく気にも留めない。
(どうせ金銭が目当てだ。気が済んだから勝手に帰るだろう)
平然と聞き流す忠治だが、昨夜にかぎりそれが違っていた。
嘉藤太の家で、竹やりを構えて留守番をしていた、あの小生意気なガキ。
浅太郎の顔が、まっさきに浮かんできた。


 留守番の佐与松が切られたとなると、ガキの命も危ない。
そう考えた忠治が、ためらいもなく義兼に手を伸ばした。
あとの事は、無我夢中だった。
相手の切っ先が忠治の頭上をかすめた瞬間、忠治は、相手の懐へ飛び込んでいた。



 (おかげで生まれて初めて、人を殺す羽目になっちまった。
 すべてはあの、小生意気なガキのせいだ。
 だがよ。それにしてもよかった、あの小生意気なガキが無事でよ・・・)


 だが愛しいお鶴やおふくろには、とうぶん会えねぇだろうな・・・
忠治の目が、後方にかすんでいく国定村を振りかえる。
真上に上った太陽が、地上に靄をうむ。
赤城山の全体が、靄に包まれて消えていく。
同じように忠治が生まれた国定村も、靄のかなたへ沈んでいく。



 (こんな風にして、生まれ故郷の国定村をあとにするとは不本意だ。
 だが。めそめそしたって、はじまらねぇや。
 サイはもう投げられた。
 成るようにしか成らねぇ。そんな人生がはじまった。
 さて、玉村の宿で、人殺しのおいらを待っているのは、鬼かはたまた蛇か・・・
 そんなことは、どっちでもいい。
 あともどりの出来ねぇ、あたらしい人生がはじまったんだ。
 ここから先のことはその日に吹く風任せ、運任せだ・・・)


 忠治の行く手に、玉村宿の旅籠群が見えてきた。
忠治が助けに走った小生意気なガキ。
浅こと板割りの浅太郎は、やがて忠治に忠誠を誓う子分の一人になる。
そしてそのことがまた、あらたな別の悲劇を生む。



 しかし。今の忠治にそんなことは、まったく知る由もない。
流れ者としての人生が、たったいまから、この瞬間からはじまったことになる。

 
(23)へつづく

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