アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(68)
第三幕・第二章「稽古場にて」
「この稽古場で上演をするというアイデアは、たしかに面白い。
なるほど、脚本を読んだときに、それも良いなと思ったが
問題は、今回の舞台設定だ」
のこぎり工場の、全部の明かりを点灯させてから、
稽古場の中央に戻ってきた西口が、振り返って順平を手招きします。
「それにしても途方もないアイデアだ。
舞台装置を一切使わずに、照明と色彩だけで情景を表現しろって言うんだから
今回は相当苦戦しそうな気配がするぜ」
「色彩や空間感覚に関しては、
お二人とも美術のプロですので、さほど心配などはしていません。
お手の物だと思って大いに期待をしているくらいですから」
思案顔の二人を前にして、順平がさらりと言ってのけます。
まずは少しでもいいからその辺のイメージが欲しいところだな、と、
西口がつぶやいた処へ、女性陣と石川君、雄二が食材と酒を持って到着をしました。
「おい主演女優が到着だ」という小山の声に、西口がすかさず反応をします。
「茜ちゃん、丁度いいところにやってきた。
頼みがあるので、台本を持ってちょっと此処まできてくれないか。
酒の支度は残った人に任せて・・・・
おお、そうだ、相手役は雄二でいいか。
おい、お前も台本を持って、ちょっと此処に来い」
呼ばれた二人が、稽古場の中央に立ちました。
「うしろには、北アルプスを屏風のように立てひろげて、
隅々にまで、紫雲英(れんげ)の花絨緞(じゅうたん)を敷きつめた風景がある。
と書いてあるが、たしかにこれで、安曇野の初夏の雰囲気はわかる。
だが、色と光だけでそれを表現しろというのは、どういう意味だ。
景色を書けと言うのなら簡単だが、
空間を描けとかいてあるぞ、この台本には。
順平君、これはどういう意味だ」
「そういう空間を演出してください、と言うだけの意味です。
空間と言うよりは、穂高の空気を感じさせるような情景を色あいと
光の加減で、表現をしてくださいと言うお願いです。
例えば、天井には真っ青な空をイメージするような青い光を当て、
中間部には緑の山々を感じさせる薄い緑色を使って、
床には、草やレンゲ草を思わせるような色彩をちりばめる・・・・
こんなイメージででどうですか」
「実に簡単に大胆なことを言うね君も、途方もない話だというのに・・・・
と言うことは、この稽古場の空間のすべてに、光と色を充満させろと言うことだな。
ずいぶんと無茶な注文を、さりげなく口にするもんだ。
この新進で規格外の脚本家は」
西口が腕を組むと高さを誇る三角の、のこぎり屋根を見上げました。
天井までは普通の民家の約2倍、2階建ての屋根ほどの高さがありました。
床一面に置かれた織物機械を動かすために、天井に近い部分にモーター用のシャフトを通して
そこからベルトで駆動輪を回していたために、構造的に必要とされた高さでした。
北側の斜面に取りつけられた、大きな開口部の明かり採りの窓からは、
10月なかばの明るい月の光が差し込んできています。
「天井までは充分な高さが有るから、照明だけでも十分だろう。
ただし床や壁面は、色を変えるためにホリゾントの効果が必要になる。
代用の布でも紙でも問題は無いが、とりあえずすべての面に張るようになるか。
なかなかの、大工事だぜ」
中央に立ちすくんだままの雄二が、しびれを切らせて西口を呼びました。
「あのう・・・俺たちは一体何をすればいいんですか。
このまま、ここに立ちすくんでいても、なんの役にも立たないと思いますが」
「おう、忘れてた。
そこで、茜と二人で台本を読んでくれ。
まだ本読みの段階だから、感情は込めずにただの棒読みでいいぞ。
演技をしろって言ったって、ど新人の今の雄二には無理な話だからな。
碌山のセリフだけでいいから、読んで茜を補助してやれ」
「西口さん、旨く読めたら僕に次の主役をくれますか?」
「やるやる、やるから早く読め」
「あまり誠意を感じませんが・・・・」
そういいながらも、まんざらでなさそうに雄二が台本をめくります。
茜も第一幕目のページを開けました。
初夏に近い春の昼下がり、荻原守衛(のちの碌山)と、
相馬良(りょう)黒光は、明治30年(1897)に、矢原の田んぼ道で出会いました。
17歳の守衛は、午前中の農作業を終え北アルプスに向かって写生をしています。
そこへ相馬愛蔵と結婚して穂高入りをしたものの、心身の状態が優れず、
柏矢町の臼井医院で診察を受けるために、良がやって来ます。
良は守衛の4つ年上で、美貌のインテリ女性としても知られハイカラな洋傘を差していました。
17歳の農業青年とはいえ、文学を好み、絵を描き、
自己研さんに励む守衛にとって、この日のまったく思いがけない良と2人きりで
会話をする機会が訪れたということは、どれほどの喜びであったのか
胸の鼓動までが聞こえてきそうです。
相馬家の嫁として都会からやってきた、理知にあふれた良の美貌ぶりに
遠くから初めて見た瞬間からすでに守衛は虜(とりこ)になっていました。
この出会いを振り返った、良の文章が残っています。
「矢原の田圃みちに、山を見て立っている1人の少年があった。
木綿縞(もめんじま)の袢纏に、雪袴(ゆきばかま)を穿(は)いて、
それでひとしおに、ずんぐりと小肥りに見え、まるい顔が邪気なく初々しかった」
・・・・・・
黒光 「ごきげんよう、こんにちは。
先日、愛蔵の禁酒会でお会いをした守衛さん。
あの美しい輝く穂高の山は、なんとよぶのでしょう」
碌山 「黒々と光るのは常念岳。
白馬のように残雪の形が残り、田植えの季節を駆けていくのは乗鞍。
いずれも安曇野の美しい水を育む山たちです」
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第三幕・第二章「稽古場にて」
「この稽古場で上演をするというアイデアは、たしかに面白い。
なるほど、脚本を読んだときに、それも良いなと思ったが
問題は、今回の舞台設定だ」
のこぎり工場の、全部の明かりを点灯させてから、
稽古場の中央に戻ってきた西口が、振り返って順平を手招きします。
「それにしても途方もないアイデアだ。
舞台装置を一切使わずに、照明と色彩だけで情景を表現しろって言うんだから
今回は相当苦戦しそうな気配がするぜ」
「色彩や空間感覚に関しては、
お二人とも美術のプロですので、さほど心配などはしていません。
お手の物だと思って大いに期待をしているくらいですから」
思案顔の二人を前にして、順平がさらりと言ってのけます。
まずは少しでもいいからその辺のイメージが欲しいところだな、と、
西口がつぶやいた処へ、女性陣と石川君、雄二が食材と酒を持って到着をしました。
「おい主演女優が到着だ」という小山の声に、西口がすかさず反応をします。
「茜ちゃん、丁度いいところにやってきた。
頼みがあるので、台本を持ってちょっと此処まできてくれないか。
酒の支度は残った人に任せて・・・・
おお、そうだ、相手役は雄二でいいか。
おい、お前も台本を持って、ちょっと此処に来い」
呼ばれた二人が、稽古場の中央に立ちました。
「うしろには、北アルプスを屏風のように立てひろげて、
隅々にまで、紫雲英(れんげ)の花絨緞(じゅうたん)を敷きつめた風景がある。
と書いてあるが、たしかにこれで、安曇野の初夏の雰囲気はわかる。
だが、色と光だけでそれを表現しろというのは、どういう意味だ。
景色を書けと言うのなら簡単だが、
空間を描けとかいてあるぞ、この台本には。
順平君、これはどういう意味だ」
「そういう空間を演出してください、と言うだけの意味です。
空間と言うよりは、穂高の空気を感じさせるような情景を色あいと
光の加減で、表現をしてくださいと言うお願いです。
例えば、天井には真っ青な空をイメージするような青い光を当て、
中間部には緑の山々を感じさせる薄い緑色を使って、
床には、草やレンゲ草を思わせるような色彩をちりばめる・・・・
こんなイメージででどうですか」
「実に簡単に大胆なことを言うね君も、途方もない話だというのに・・・・
と言うことは、この稽古場の空間のすべてに、光と色を充満させろと言うことだな。
ずいぶんと無茶な注文を、さりげなく口にするもんだ。
この新進で規格外の脚本家は」
西口が腕を組むと高さを誇る三角の、のこぎり屋根を見上げました。
天井までは普通の民家の約2倍、2階建ての屋根ほどの高さがありました。
床一面に置かれた織物機械を動かすために、天井に近い部分にモーター用のシャフトを通して
そこからベルトで駆動輪を回していたために、構造的に必要とされた高さでした。
北側の斜面に取りつけられた、大きな開口部の明かり採りの窓からは、
10月なかばの明るい月の光が差し込んできています。
「天井までは充分な高さが有るから、照明だけでも十分だろう。
ただし床や壁面は、色を変えるためにホリゾントの効果が必要になる。
代用の布でも紙でも問題は無いが、とりあえずすべての面に張るようになるか。
なかなかの、大工事だぜ」
中央に立ちすくんだままの雄二が、しびれを切らせて西口を呼びました。
「あのう・・・俺たちは一体何をすればいいんですか。
このまま、ここに立ちすくんでいても、なんの役にも立たないと思いますが」
「おう、忘れてた。
そこで、茜と二人で台本を読んでくれ。
まだ本読みの段階だから、感情は込めずにただの棒読みでいいぞ。
演技をしろって言ったって、ど新人の今の雄二には無理な話だからな。
碌山のセリフだけでいいから、読んで茜を補助してやれ」
「西口さん、旨く読めたら僕に次の主役をくれますか?」
「やるやる、やるから早く読め」
「あまり誠意を感じませんが・・・・」
そういいながらも、まんざらでなさそうに雄二が台本をめくります。
茜も第一幕目のページを開けました。
初夏に近い春の昼下がり、荻原守衛(のちの碌山)と、
相馬良(りょう)黒光は、明治30年(1897)に、矢原の田んぼ道で出会いました。
17歳の守衛は、午前中の農作業を終え北アルプスに向かって写生をしています。
そこへ相馬愛蔵と結婚して穂高入りをしたものの、心身の状態が優れず、
柏矢町の臼井医院で診察を受けるために、良がやって来ます。
良は守衛の4つ年上で、美貌のインテリ女性としても知られハイカラな洋傘を差していました。
17歳の農業青年とはいえ、文学を好み、絵を描き、
自己研さんに励む守衛にとって、この日のまったく思いがけない良と2人きりで
会話をする機会が訪れたということは、どれほどの喜びであったのか
胸の鼓動までが聞こえてきそうです。
相馬家の嫁として都会からやってきた、理知にあふれた良の美貌ぶりに
遠くから初めて見た瞬間からすでに守衛は虜(とりこ)になっていました。
この出会いを振り返った、良の文章が残っています。
「矢原の田圃みちに、山を見て立っている1人の少年があった。
木綿縞(もめんじま)の袢纏に、雪袴(ゆきばかま)を穿(は)いて、
それでひとしおに、ずんぐりと小肥りに見え、まるい顔が邪気なく初々しかった」
・・・・・・
黒光 「ごきげんよう、こんにちは。
先日、愛蔵の禁酒会でお会いをした守衛さん。
あの美しい輝く穂高の山は、なんとよぶのでしょう」
碌山 「黒々と光るのは常念岳。
白馬のように残雪の形が残り、田植えの季節を駆けていくのは乗鞍。
いずれも安曇野の美しい水を育む山たちです」
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/