落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (67)

2017-03-31 18:14:01 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (67)
 たまの嗅覚



 たまが、清子の顔をペロリと舐める。
寒いのだろうか。全身が霧から落ちたしずくで濡れている。
『寒いんだろう、お前。いま、拭いてあげるからね』
清子が、リュックサックの中から乾いたあたらしいタオルを取り出す。


 そのとき。ガサッと小さな音を立てて、ビニールの袋が地面に落ちた。
落ちたのは、行動食の柿の種の袋だ。
袋の隅に小さな穴が開いている。


 『あら・・・落ちたのは行動食のカキのタネです。
 袋の下に、小さな穴が開いていますねぇ。
 たま、お前、もしかして、リュックの中でこっそりこれをかじっていたのかい?』



 『悪いかよ。腹が減ったもんで、道々、おいらが食べた。
 でもよう。香ばしい醤油の匂いのするカキのタネは、好物だ。
 だけど固いだけのピーナツは苦手だ。
 なんで柿の種に、わざわざピーナツなんか混ぜるんだろうな。
 人間のすることは良くわからねぇ。
 だからよ。おいら、ピーナツは嫌いだからぜんぶ、途中で捨ててきた』


 行動食は、エネルギー補給するための食料だ。
たくさんのエネルギーを消費する登山では、低血糖に陥ると集中力が切れ、
思わぬ転倒につながることもある。
補給しないまま歩き続ければ、シャリバテ※になる。
(※ 飯が足りずバテること)
ガス欠にならぬよう、行動中も積極的にエネルギーを取りつづける必要がある。


 「偉いぞたま!。
 お前のピーナツ嫌いは、私たちのピンチを救ってくれる切り札になる!」


 恭子がとつぜん、大きな歓声をあげる。
何のことだかさっぱりわからず、たまはきょとんと恭子の顔を見つめる。
清子にも、まったく意味がわからない。
それでもたまの身体を拭く手を止め、恭子の顔を振りかえる。


 「いま、行動食のカキのタネを、つまみ食いしたって言ったわね、たま。
 ピーナツだけを食べずに、来る道々、捨ててきたんでしょ。
 その匂いを辿れば、避難小屋まで戻れるかもしれないわ!」



 あっ・・・事の重大性に、清子も気がつく。
たまのつまみ食いが、こんなところで役にたった。
恭子が結んできた目印のオレンジ色のテープは、濃密な霧に隠れて、
現状ではまったく役に立たない。
しかし。ここまでの道筋に、たまが捨ててきたピーナツが点々と残っている。

 「すごいぞ、たま。お前はやっぱりさいわいをもたらす奇跡の三毛猫だ。
 嵐が来る前に、避難小屋へ戻ることができるかもしれない。
 たま。お前の出番がやってきた。
 道に捨ててきたピーナツの匂いを、かぎ分けておくれ!」


 『えっ、この悪天候の中で、ピーナツのかすかな匂いをかぎわけるのか。
 無茶なことを、平然と言うなぁ恭子のやつも。
 視界の効かない霧の中だぜ。
 おまけに油断していると頭上で、いきなり雷鳴が轟く最悪のコンデイションだ。
 こんな中、おいらに仕事をさせるつもりかよ。酒蔵の10代目は・・・」


 『つべこべ言わず、頑張ってちょうだい、たま。
 この状態を見れば分かるでしょ。いまはあなただけが頼りなの。
 ピーナツを頼りに、避難小屋まで戻れるかどうかの、ぎりぎりの瀬戸際なのよ』


 『そう言うけどなぁ。犬とは違うんだぜ、おいらは』


 『じっとこのままこうしていても、助かる見込みはない。
 たぶん、この天候は回復しない。
 待っていても、時間とともに悪化していくだけ。
 助かる道はただひとつ。
 自力で、尾根道の先にある避難小屋まで戻るしかありません。
 それともなにか、おまえさんは、ここでのたれ死んでイヌワシの餌にでも
 なりたいというのかい?』


 恭子のするどい眼が、たまを覗き込む。
『イヌワシの餌だって。冗談じゃねぇ。さすがにそれだけは、勘弁だぜ』
おいらまだ、こんなところで死にたくねぇと、たまが首を振る。


 『じゃあ素直に、あたしの言うことを聞くんだね。
 いま頼りになるのは、お前さんの嗅覚だけだ。
 嵐がひどくなる前に避難小屋へ戻ることができれば、わたしも清子も助かる。
 おまえも、イヌワシの餌にならずに済む』


 『でもよう、ちょいとした問題が有るぜ。
 たしかに猫は人間に比べれば、数万倍~数十万倍の嗅覚をもっている。
 だけど。餌の匂いをかぎわけるのに、特化してるんだ。
 おいらが捨てたのは、大嫌いなピーナツだ。
 できることなら、2度とピーナツの匂いなんか嗅ぎたくねぇ。
 それでも探せというのは、立派な児童虐待だ・・・』



 『生きるか死ぬかの瀬戸際だ。
 児童虐待だろうが、動物虐待だろうが、いまは関係ない。
 四の五の言うのなら、イヌワシの餌になるまえに、わたしがお前を八つ裂きにする。
 どうだたま。どちらでも好きなほうを選べ。
 素直にピーナツの匂いを探して、避難小屋へ戻る路を探すか。
 それともわたしに八つ裂きにされて、イヌワシの餌食になりたいか。
 どちらでもよいぞ。好きな方を自由に選ぶがいい!』


 『わっ、わかった。わかったよ。しょうがねぇなぁ。ピーナツの匂いを探す。
 そのかわりおいらにもひとつだけ、交換条件が有る』


 『なんだ。交換条件って。いいだろう、言って御覧。
 この際だ。どんな条件でもいい、聞いてあげようじゃないか』


 『Bカップの清子の胸じゃなくて、Dカップの恭子の胸に入れてくれるなら、
 一生けん命、ピーナッツの匂いをかぎ分けてやってもいいぞ』


 『清子より、わたしの胸のほうがいい?。
 お安い御用だ。
 ほら、おいで。ただしわたしのヤッケにポケットはないから、セーターの中だ。
 それでもいいのなら、ほら、潜り込んでおいで』

(68)へつづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (66)

2017-03-30 18:25:41 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (66)
 雷鳴の中で




 雷鳴は、空中で放電現象が発生したときに生じる音のことで、
地面に落下したときの衝撃音ではない。
放電の際に放たれる膨大な熱量が、周辺の空気を急速に膨張させる。
勢いが音速を超えた時、衝撃波が発生して、雷鳴になる。


 稲妻は光速で伝わる。ほぼ瞬時に到達する。
これに対し雷鳴は音速で伝わっていくため、稲妻よりかなり遅れて到達する。
発生した場所が遠いほど、雷鳴までの時間が長くなる。
そのため到達までの時間を計れば、おおよの距離を把握することができる。


 「間違いねぇな。雷は確実にここへ、近づいてきているようだ・・・」


 2人の作業員が逃げ込んだ三国の避難小屋へ、下山中の登山客が
数名、雷鳴に追われるように駆け込んできた。


 「上の尾根で、横に走り抜けていく稲妻を見た。
 あんな凄い稲妻は、生まれて初めてだ。
 ガスの切れ間にここの避難小屋が見えた時、まさに地獄に仏の心境でした。
 無事にたどり着くことができて、ようやく、ひと安心です」


 ほっとした表情を見せた登山客が、ようやく安堵の胸をなでおろす。


 「麓の気象台から、なにか言って来たか?」



 作業員のひとりが、電話を終えたひげの管理人へ声をかける。
『芳(かんば)しくない。悪天候が長引きそうだということだ』
ヒゲの管理人が難しい顔で、ぐるりと一同を見回す。


 「気象がめまぐるしく、変っているそうだ。
 やっかいなことに、日本海上にまた新しい低気圧が発生した。
 こいつが、今の低気圧に続いてこっちへ移動してくる。
 となると天候の回復は、当初の予定以上に長引くことになりそうだ」

 「天候は悪くなる一方か。そうなると長い籠城戦になる。
 食糧はどうだ。充分にあるか。長期戦に耐えられそうか?」


 「数日前に荷物を担ぎ上げたばかりだ。
 この人数になっても、一週間くらいなら、底をつくことはないだろう。
 ただ、少しばかり気になることがある・・・・」


 「気になること・・・?。何だ、気になることと言うのは。。
 1時間ほど前に下っていった、例の、あの女の子達のことが気になるのか?」
 

 「うん。無事に下まで降りきってくれていると、いいんだがなぁ。
 どうも微妙なような気がしてならない。
 立ち往生したとしても、どこかで無事に避難してくれているといいんだがな」



 雷鳴がとどろく窓の外を見つめながら、ヒゲの管理人がため息を漏らす。
ヒゲの管理人が窓の外へ視線を走らせていた、ちょうどその頃。
寝袋の中に潜り込み、青いビニールシートで雨よけを作った恭子と清子が
徐々に近づいてくる雷鳴に、不安を覚えていた。
これ以上密着出来ないほど、寝袋の中で、お互いの身体を寄せ合っていた。


 ガスが薄れていく気配は無い。
冷え込んできた空気が2人の顔に、冷たい水滴を落としていく。
昼の12時を過ぎたばかりだというのに、まるで夜が迫って来たような暗さが、
2人の頭上に降りてきた。


 「お姉ちゃん。まるで、日暮れのような暗さになってきました。
 いったい、どうしたというのでしょう?」


 「発達した雷雲がやってきたのか、それとも低気圧の雲が、
 私たちの頭上にやってきたか、そのどちらかだろう。
 残念ながら事態はどうやら、楽観を許さなくなってきたようだね、清子」


 「楽観を許さない事態・・・・?」


 寝袋の中で、清子が身体を固くする。
清子の顔に、あきらかな不安と恐怖の色が浮かんできた。
ハンカチを取り出した恭子が、そっと清子の濡れた顔へあてる。


 「怖くないよ、清子。
 ほら。綺麗なお前の顔が、霧雨に濡れてしまって台無しだ。
 女はどんな時でも、身だしなみを忘れちゃいけない。
 正直に言うけどね。わたしたちのピンチは、まだ、始まったばかりだ。
 この先がどうなるのか、わたしにはわからない。
 何ができるのかもわからない。
 でもね。どうしたら助かるのか、そのことをいま一生懸命、考えている」


 「助かるよね、わたしたち・・・」


 「きっと助かる。
 でもね今は、とにかく落ち着いて、じっくり耐えて、この場で踏ん張ろう。
 きっとどこかに、助かる道は有る。
 いまの私たちには、まだ、助かる道が見えていないだけのことです。
 それを信じて迂闊に動かず、じっと耐えて行動しょうね。清子」



 不安そうな恭子の瞳が、暗さが増していく頭上を見上げる。
ガスが漂よう空は、時間とともに明るさが消えていく。
秋の落日のような速さで、2人のまわりが暗くなっていく。
遠くに聞こえていた雷鳴が、至近距離で大きく響くようになってきた。

(ホントに助かるんだろうか、わたしたち・・・)

 恭子の両手が、小刻みに震えている清子の身体をしっかり抱きしめる。

 
(67)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (65)

2017-03-29 18:29:00 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (65)
 地震 雷 火事 親父



 閃光がはしる。走凄まじい雷鳴が、油断していた2人の頭上で炸裂する。
音に驚いた清子が、恭子の胸へ慌てて飛び込む。
間髪を入れず恭子も、耳をおさえ、清子の背中へ覆い被さる。


 『イテテ。乱暴だな2人とも。か弱いオイラが潰れちまうじゃねぇか・・・
重たいぞ。頼むから2人とも、おいらから離れてくれよ』
2人の重みをまともに受けたたまが、清子の胸の下で、必死にもがき続ける。


 『ごめんごめん。たま。だってさ。びっくりしたんだよ、突然だもの。
 ホントにごめん。大丈夫だったかい、お前?』



 『大丈夫なわけないだろう。
 か弱いオイラにBカップもどきと、Dカップが突然のしかかって来れば、、
 さすがに只じゃ済まない。
 イテテ。参ったなぁ。
 おまえらのおっぱいのせいで、おいら、骨折したかもしれないぜ』


 『それだけのことが言えれば、とりあえず無事の証拠だ、たま。
 昔から地震・雷・火事・親父というけど、やっぱり・・・突然の雷は、
 怖いものがあります』


 「よいしょ」身体を起こた恭子が、くにゃりと曲がってしまった
帽子のつばをもとへ直す。
清子の懐から鼻の頭にヒメサユリの花びらをつけたたまが、のそりと現れる。
『清子よう。おいらの鼻が、なんだか、甘美すぎる匂いでクラクラするぞ。
なんだろう。この初めて嗅ぐ、優雅な香水のような香りは・・・』
鼻息にあおられて、花びらがヒラリと濡れた地面へ落ちていく。



 犬は匂いを辿って獲物を見つける。猫は目と耳を使って獲物を捉える。
犬ほどではないが、猫の嗅覚も人と比べると、数万倍から数十万倍、
優秀と言われている。
事実。ネコは窒素化合物を含むニオイに敏感に反応する。
特にアンモニア臭が漂う腐った餌は、瞬時に嗅ぎ分ける。



 ネコは、腎臓や肝臓に多大な負担をかける身体の構造をしている。
毒素を分解するための内臓を、持っていないからだ。
そのためネコは、脂肪の中に含まれているかすかなニオイの中から、
自分の食べ物として適しているかどうかを、敏感に感知することができる。
鮮度を、一瞬のうちに嗅ぎ分ける。



 『食べられるかどうかは別にして、いまの匂いは、ヒメサユリです。
 おや。黄色い花粉が鼻の頭に着いていますねぇ。
 あはは。よく見れば体中、ヒメサユリの花粉が付いて、真っ黄色だ。
 さっき倒れた時、ヒメサユリの花を下敷きにしたようです。
 ヒメサユリには、気の毒なことをいたしました。
 うふふ。お前。黄色が1色増えたことで、いまは三毛猫ではなくて、
 四毛猫ですねぇ!』


 『よせよ。四毛はまずい、縁起でもねぇ。
 それよりさ。さっき言っていた地震、雷、火事、親父という順番はわかるが、
 なんで4番目に、親父が入るんだ?。
 昔のオヤジってのは、怖い存在だったと聞いた覚えはあるけど、
 なんで天災ばかりがならんでいる4番目に、その親父が入ってくるんだ』


 『そうだね。3番までは天災だけど、4つ目は確かに人間です。
 どうしてだろうね。あたしにもわかりません』


 「清子。それは人間のオヤジじゃなくて、台風のことだ。
 昔は台風のことを、大山風(おおやまじ)と呼んでいた。
 いつの頃からかそれを、「おやじ」と呼び始めた。
 だから、地震・雷・火事・台風という意味で、すべて天災を表しているの。
 昭和の時代に、カミナリ親父なんてのがいたわね。
 ずいぶん身勝手に威張り散らして、家族には、怖い存在だったようです。
 今は男もずいぶん軟弱化したので、そろそろ昔のように大山風(おおやまじ)と、
 直したほうがいいようです』

 
 『なんだぁ。やっぱり台風のことかよ。可笑しいと思っていたが、なるほどね』
ポツリとつぶやいたたまが、ピクリとヒゲの先端を震わせる。



 『何?。また、雷がやってくるの、たま?』清子がたまに顔を近づける。
その瞬間。真っ白いガスの空間に、眩しい閃光が走る。
『来る!』身構えた2人が、両耳を抑えて防御の姿勢をとる。


 2秒、3秒・・・・こくこくと時間が経過していく。
しかし、雷鳴は轟かない。
『おかしいですねぇ・・・』恐る恐る清子が顔を上げた瞬間。
油断を狙い済ませたかのように、大音響が、2人の真上から落ちてきた。


 「音速は今時期の今の温度で、毎秒340m。
 10秒以上かかっているから、雷は3キロから3、5キロの距離まで来ている。
 音が鳴るたび、雷は確実にここへ近づいている。
 ここまで到達するのは、もう、時間の問題かもしれないな・・・・」


 距離計算をした恭子が、額にじわりと、焦りの色を浮かべた。


(66)へ、つづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (64)

2017-03-28 17:44:10 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (64)
 まるでミルクの水の底



 「お姉ちゃん。周りじゅうが真っ白です。
 宇宙空間に漂っているか、ミルクの水の底にいるような感じがします」


 自分の指先さえ見えなくなるほどの、濃密なガスの中。
清子が、自分に向ってつぶやく。
『ミルクの水の底か。とつぜん上手いことを言うね。清子も』
体を寄せた恭子が水滴が滑り落ちてくる帽子のひさしを、阿弥陀に持ち上げる。


 谷底から吹き上げてくる風が、きゅうに静かになって来た。
ヒメサユリの葉の揺れる音が消えた。
語らいの丘の斜面一帯に、物音ひとつ聞こえない静寂がやって来た。



 動きを止めたガスから、こまかいな水滴が舞い降りてくる。
まとわり続ける水滴は、寝袋の上に薄い水の膜を作る。
青いビニールシートから、時々、チロリと音を立てて水滴が滑り落ちてくる。

 「なんだか急に、ひっそりしてきました。
 物音が聞こえなくなりました。
 こういうのを、嵐の前の静けさと言うのでしょうか?」


 「不安かい、清子」


 「いいえ。お姉ちゃんと一緒にいれば平気です。
 昨夜、猛烈な雷に襲われたせいで、山の嵐に、すっかり慣れました」


 「慣れたか。それはよかった。
 でもね。残念ながら昨日とは、条件が決定的に違う。
 ここには嵐を遮ってくれる、壁も、屋根も無い。
 体を隠す場所さえない、急斜面の草の上だ。
 この霧が晴れてくれると移動できる。
 下の樹林帯まで移動できれば、なんとか助かるんだけどねぇ・・・・」

 
 「遭難したときに無駄に歩き回ると、さらに事態を悪くするそうです。
 夏山でも低体温症で遭難死してしまう例も、あると書いてあります。
 体温を奪う最大の要因が、『濡れ』と『風』だそうです。
 ずぶ濡れになり、強風にさらされると、体温が奪われて行動不能になる。
 その状態が悪化して、やがて遭難に至るそうです。
 それが遭難死の典型な例だと、市さんのメモに書いてあります。
 霧でもけっこう、濡れるものですねぇ」


 「そういうば、たまは大丈夫かい?。
 猫は、体毛や皮膚が濡れることを極端に嫌う生き物だ。
 猫の祖先は、リビアヤマネコ(アフリカヤマネコ)。
 昼と夜の寒暖差が激しい砂漠の出身だ。
 ずぶ濡れのまま寒い夜を迎えると、水が蒸発するときの気化熱で、
 体温を奪われて、やがて命を落とすことになる。
 そのため猫は本能的に、水に濡れることを嫌うようになった。
 シャンプーしようとすると、狂わんばかりの勢いで抵抗するのは、
 そのためと言われている。
 猫が迷子になったら、乾いていて濡れていない場所を探すと、
 見つかると言われているのもそのためだ。
 ほら。これ以上たまを濡らさないよう、新しいタオルで包んでおあげ」


 たまが上を向いたまま、鼻をヒクヒクさせている。
目はうつろ。
突然すぎる展開に、たまはただただ気持ちが動転している。
パニックにどっぷりと浸かったままの状態だ。



 『大丈夫だ、たま。
 霧は、間もなく晴れると思います。
 もう少し辛抱すれば、私たちはきっと、下に向かって歩き出せます。
 でもね。危ないから視界が晴れないうちは、ここで我慢しましょう。
 おとなしく言う事を聞いて、お前もその時がくるまで辛抱強く待つんだよ』


 『清子は平気なのかよ・・・・
 ほぼ遭難しているという事態だというのにさぁ。
 おいら。全身がずぶ濡れだ。
 あっ。ほらぁ、また遠くから、雷の音が聞こえてきたぜ』


 『あたしだってさっきから不安だよ。
 心臓がバックンバックン踊っているもの。
 でもさ。こんな時だからこそ、自分を見失ってはいけないの。
 お姉ちゃんだって必死なんだ。
 なんとかしてこのピンチから、抜け出す方法を考えています。
 あたしたちが不安な顔を見せたら、お姉ちゃんがもっと辛くなる。
 顔を拭いてあげるからこっちを向いて、たま』


 『清子よ。助かるのかなぁ、俺たちは・・・・』


 『別に遭難が決定したわけではありません。
 霧に閉ざされて、たまたま身動きができなくなっているだけのことです。
 通りがかりのヒメサユリが咲いている高台で、水滴に濡れながら
 少し休んでいるだけのことです』


 『オイラの耳には、確実に、雷の音が近づいているのが聞こえるぜ。
 身体を隠せない急斜面だ。雷の直撃を受けたらやばいだろう
 と、嘆いてみせたところで、これだけの濃い霧に囲まれていたんじゃ、
 身動きなんかとれないか。
 こういうのを絶対絶命の大ピンチと言うんだろうなぁ。世間では』



 『たしかにそういう言い方もある、たま。
 でもさ。99%のピンチでも1%の運が残っていれば、事態が変わることもある。
 9回の裏2アウトでも、逆転のサヨナラホームランが出る場合もある。
 結果は下駄を履くまでは、誰にもわかりません』

 
 『いったい誰が、この土壇場で、起死回生の逆転ホームランを打つんだよ。
 俺か、お前か、それともそこにいる10代目か?』


 『さぁて、いったい誰でしょう。
 私かもしれないし、10代目の恭子お姉ちゃんかもしれません。
 もしかしたら、たま。
 お前さまかもしれませんよ、うっふっふ・・・』


(65)へつづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (63)

2017-03-27 17:47:59 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (63)
 嵐がやって来る?



 稜線の登山道で作業していた2人も、天候の異変に気がつく。
急激に温度が下がってきたからだ。
そう感じた次の瞬間。ガスの塊りが谷底から、一気に斜面を駆けあがってきた。


 濃密なガスが、またたくまに視界を奪う。
稜線上でガスと、西から吹き付けてきた風がぶつかりあう。
行き場を失ったガスがすさまじい勢いで、上空に向かって舞い上がっていく。


 日本海から吹き付ける湿った風。
谷間から吹き上げてきた冷たい風がよく、稜線の登山道の上でぶつかりあう。
このとき。予測不能の急変を生み出すことがある。
『急変の前兆だ。荒れた天気がやってくるぞ。突風が吹くと、稜線上は厄介だ。
作業を中断して、早めに山小屋へ退避しよう』


 
 相方を促した作業員が、ヘルメットを押さえながら稜線の道を進む。
『おい。遠くで雷が鳴り始めてきたぞ。こいつは、けっこうな嵐になるかもしれん。
毎度のことながら温度が急変する今頃が、一番厄介な気象を産み出す。
荒れた天気になければいいがなぁ・・・』
後からついていく同僚も突風に身を抗いながら、山小屋を目指して小走りになる。


 稜線上の登山道から避難小屋まで、わずか300m。
しかし。突風が吹きあれはじめた尾根の道は、常に極度の危険がつきまとう。
幅1mに満たない尾根の道は、ちょっとバランスを崩した途端、足を滑らせて、
斜面を滑落していく不安に襲われる。


 態勢を低くしながらようやくの思いで、作業員の2人が山荘へたどり着く。
ヒゲの管理人がすぐに、心配そうな顔をみせた。


 「おまえさんたち。途中で2人連れの女の子たちに合わなかったか?
 あんたたちより少し前に、ここから下って行った。
 無事に下の樹林帯まで降りていったかどうか、時間的に微妙だ」



 「おう。会ったぞ。
 30分くらい前のことだ。
 俺たちがまだ、ヒメサユリ街道の草刈りをしていた時だ。
 語らいの丘を経由して下ると言っていた。
 道草をしていなければ、そろそろ下の樹林帯へ着いてもいい頃だ。
 なんともいえないが、今日のガスはちょっと手ごわいぜ」


 「おまけに北から、雷が接近中だ。
 麓に問い合せたら発達した低気圧が進路を変えて、南へ進み始めたそうだ。
 このままだと、この小屋も低気圧の直撃を喰らうことになる。
 ちょうどよかった。
 顔なじみのお前さんたちも手伝ってくれ。
 窓やら、屋根の危なそうなところを、今のうちに補強しておきたい。
 猫の手も借りたいほど忙しい。
 よかった、助かったぜ。ちょうどお前さんたちが来てくれて」


 「やっぱり今日は荒れるのか。
 となると俺たちも、これ以上、身動きすることができねぇ。
 いいだろう、手伝うぜ。
 何でもいいから言ってくれ。とりあえず何から片付ける?」



 「雨が降りはじめる前に、外から先に片付けちまおう。
 強風に飛ばされるまえにできる限り、外のモノを中へ運び込んでくれ。
 長期戦に備えて、水場から水も確保しておきたい。
 本格的な嵐になったら数日間は、閉じ込められる可能性がある」



 「やっぱり擬似好天だったのかなぁ。
 悪天候が終わり回復したとばかり思っていたが、天気図を読み損なったようだ。
 本格的な夏登山が始まる前に、登山道を整備しておこうなんて、
 甘く考えたのが裏目に出た。
 擬似天候は、冬の日本海側に見られる現象だからと油断したせいだ。
 麓の気象台は、どんな見通しを連絡してきた?」


 擬似好天とは悪天候と悪天候の間に短時間だけ、良い天候になることを言う。
悪天候が終わり、すっかり好天になったかのように錯覚させる。
そのため。このような名前がつけられた。
冬の日本海側によく見られる気象現象だ。
大陸から流れてくる低気圧が、日本海上で気流の乱れを起こす。
2つ以上の低気圧が同時に発生して、上陸した時などによく発生する。


 擬似好天は魔の気象。
山のベテランでも騙されて、命を落としてしまうことがあると言う。
もっとも注意を要する気象のひとつ、と言われている。

(64)へつづく

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